タグ

ブックマーク / rekijin.com (5)

  • 【 閲覧注意 】松永久秀は日本史上初の爆死!壮絶・奇病、戦国武将の散り際 | 歴人マガジン

    散り際の美学とはよく耳にしますが、それが最もよく見られたのはやはり戦国の世ではないでしょうか。 とはいえ、散り際も色々です。壮絶な死、奇病による死など現代では考えられないような死に方をした戦国武将もいるんですね。 今回は一風変わった死を迎えた武将たちの最期をご紹介します。 日史上初めての爆死者・松永久秀 「戦国三大梟雄のひとり、松永久秀」 出自も生年も不詳、低い身分の出身であったと推測できる松永久秀は、才能を生かして出世していきました。 室町幕府を牛耳った三好政権で名を上げ、その後は織田信長に接近します。茶道など芸術に秀でていた彼は、人質の他に名茶器「九十九髪茄子」を献上したそうです。 ところが彼には謀反癖のようなものがあり、信長に対しても何度も謀反を起こしています。 それを信長も許していたのですから、何とも言えない不思議な魅力があったのでしょう。 しかし、天正5(1577)年に信長に叛

    【 閲覧注意 】松永久秀は日本史上初の爆死!壮絶・奇病、戦国武将の散り際 | 歴人マガジン
  • ?p=25116

    2018年1月よりチャンネル銀河で日初放送をスタートする中国歴史ドラマ『開封府(かいほうふ)ー北宋を包む青い天ー』。中華圏で誰もが知る名裁判官・包拯(ほうじょう)を主人公にした同作品をより楽しむために、ドラマと同じ北宋時代を舞台にした漫画『北宋風雲伝』(秋田書店)の作者である滝口琳々氏に包拯や開封について解説してもらいました。 物語の舞台は、北宋時代の首都・開封(かいほう) 北宋といわれても中国史に興味がない人にはピンと来ないかも知れませんが、日でも有名な武則天や楊貴妃が活躍した唐が滅び、いくつもの国が乱立した中国を960年に再び統一したのが宋でした。しかし1127年、異民族の金という国に北方の領土を奪われ、首都を開封から南東の臨安(現在の杭州)に移したことから、それ以前の開封が首都だった167年間の宋時代のことを北宋、首都を移してからを南宋と呼び分けています。 『開封府ー北宋を包む青

    ?p=25116
  • 【「西郷どん」で注目】西郷と入水自殺を図った月照とは何者?

    大河ドラマ「西郷どん」のキャストが次々と発表される中、歌舞伎俳優の尾上菊之助さんが僧・月照役をつとめることが決まりましたね。月照については、同じく大河ドラマの「翔ぶが如く」や「篤姫」で西郷隆盛と心中した僧として記憶にある方も多いのではないでしょうか。「西郷どん」を見るなら知っておきたい勤皇の僧・月照の生涯と西郷との関わりについてご案内いたしましょう。 月照 月照と西郷隆盛の心中未遂 安政5年(1858)11月16日の明け方、錦江湾(=鹿児島湾)を進む一艘の舟から二人の男が海へと身を投げました。一人は薩摩藩士・西郷隆盛。もう一人は勤皇の僧・月照です。 錦江湾。奥に見えるのは開聞岳。 (写真協力:公益社団法人 鹿児島県観光連盟) 暗い海からようやく引き上げられた時、二人は固く抱き合っていたと伝わっています。西郷は何とか一命を取り留めましたが、月照は亡くなってしまいました。西郷の懐には、二人が身

    【「西郷どん」で注目】西郷と入水自殺を図った月照とは何者?
  • 【わかりやすく解説】白河天皇が始めた院政の仕組み、そのメリットとは?

    「院政」と聞いて、皆さんはどのようなイメージをもちますか? 後継者にポストを譲って自らは表舞台から退き、陰で実権を握る。組織経営などを語るさい、「院政」という言葉はよく、そんなニュアンスで使われますね。では、歴史上の院政とは、実際にはどのようなものだったのでしょう。 「院政」のはじまり 「院」とは、天皇の位を譲ったあとの上皇のこと。その上皇=院が政治の実権を握っているのが院政です。歴史上、格的な院政がはじまったのは平安時代の後期です。1086年(応徳3)、白河天皇がわずか8才の堀河天皇に位を譲って上皇となり、政治の実権を握りました。 こののち、白河上皇-鳥羽上皇-後白河上皇の三代、約100年にわたって上皇が政治の実権を握っていた時期を「院政期」と呼んでいます。この院政期には、武家が力をたくわえて都では保元の乱・平治の乱が起こり、やがて平家一門が武家政治への扉を開いてゆきます。そのいきさつ

    【わかりやすく解説】白河天皇が始めた院政の仕組み、そのメリットとは?
  • 【古の美男美女】時代によって変わる日本のイケメン&美人の基準

    美男美女に惹かれるのも世の常ですが、「美」の基準が流行り廃りの中で変化していくのも世の常。 日の「美男美女」の基準が時代によってどう変化して行ったのかを追っていきます。 ポッチャリがモテた奈良時代 奈良時代(710~794年)に美人だと評されていたのは、女帝であった元正(げんしょう)天皇。 「艶やかで美しい」と伝えられており、性格が「慈悲深く落ち着いている」とあるので内面も評価ポイントに入っていたようです。 富の象徴として、ポッチャリとして太目の女性も人気がありました。 正倉院の宝物「鳥毛立女屏風」び、美人・・・? 見た目より知性が大事な平安時代 平安時代(794~1185年)には、切れ長の目や瓢箪型の顔、長い髪などが美女の条件とされていましたが、もっとも重要なのは「知性」。 男女問わず「和歌が読めること」が美男美女の絶対条件であったため、和歌もロクに読めない人間は出会いすら無かったそう

    【古の美男美女】時代によって変わる日本のイケメン&美人の基準
  • 1