私自身はドゥルーズの良き読者であったことはないが、このたび国分氏の本によっていろいろ教えられたことがあるので、ラカンの精神分析に関する所に限って論じてみたい。 ドゥルーズは、欲望のセリーを始動するための「原抑圧」を認めないという。それは「一回性の出来事によって、構造や原理が生成するという考えを疑っているから」(p−158)らしい。 フロイト=ラカンでは、鏡像関係から象徴的関係へ、エディプス的去勢コンプレックスを経て移行するとされる。つまり、ファルスという原初のシニフィアンへの欲望として、母の欲望が解釈され、それを模倣する形で主体の欲望が形成されるが、ファルスというシニフィアンは、次々に他のシニフィアンへと変換され、代置されていくとされる。ファルスというシニフィアンは、シニフィアンの代置を許す一種の空所(スライディング・ブロック・パズルにおける空所の如きもの)として機能する。ちょうど、光源氏