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ブックマーク / howardhoax.blog.fc2.com (14)

  • 芸術家であることと芸術家でないこと  ジョン・カサヴェテス論

    ジョン・カサヴェテスの映画を見る経験は、何ものにも代え難い。カサヴェテスの映画を良いとも言いたくないし、悪いとも言いたくない。面白いとも言いたくなければ、面白くないとも言いたくない。美しいとも言いたくなければ、美しくないとも言いたくない。 ジョン・カサヴェテスの映画は、そのような単純な判断から隔絶したところにある。スクリーンの向こうに写っている映像が、単に自分の外部にある別の世界だとは思えない。そこにあるのは自分自身の魂の延長である、自分の人生の一部である。自分の人生を振り返り距離を置いて反省しつつある時ならともかく、今まさに生きられている自分の人生は、良くも悪くもなく、面白くも面白くなくもなく、美しくも美しくなくもない。それは単に、生きられている。 だがもちろん、それでは何も言ったことにならない。私は、カサヴェテスの映画の価値は分析不可能であるなどと言いたいのではない。言葉にできないほど

    芸術家であることと芸術家でないこと  ジョン・カサヴェテス論
  • The Red Diptych 絓秀実『タイム・スリップの断崖で』に見る、日本の文芸批評の問題点(上)

    絓秀実の時評集『タイム・スリップの断崖で』を読んだ。この書物は、もともとは雑誌「en-taxi」に連載されていた時評をまとめたもの。もともとの雑誌が季刊誌であったため、いざ単著としてまとめてみると十年ぶん以上もの分量がある。そのため、今となっては過去のものとなってしまった事件に対する言及も多いため、単行化に際して膨大な量の脚注が添えられている。また、各回の末尾には、絓の現在の視点からの短いコメントをつけてもいる。 私自身は、初出の時点で読んでいる時評もあれば未読のものもあったのだが……以上のような、多くの時間軸が複雑にからみあい交錯するようなテクストが結果として実現しており、へたな小説などよりもよほど面白く読めるような書物になりえていると言える(個人的に民俗学はあまり詳しくないもんで、新刊の『アナキスト民俗学』を読むのは先延ばしになってしまっているのだが、そのうち読みま~す)。 それにし

    The Red Diptych 絓秀実『タイム・スリップの断崖で』に見る、日本の文芸批評の問題点(上)
  • The Red Diptych 『大江健三郎全小説』の刊行は日本の文学史に残る事件だが、それは必ずしも喜ばしいことではない

    『大江健三郎全小説』が全十五巻で刊行されるということを、私は大きな驚きとともに受け止めた。この作品集においてなによりも重要なのは、初出の「文學界」に掲載されて以来一度も単行化されてこなかった「セヴンティーン第二部 政治少年死す」が、遂に書籍の形で初めて出版されるということ、のみならず、それらが収録される第3巻がわざわざ初回配になることが予告されたことだ。……さらには、第4巻の収録作……『われらの狂気を生き延びる道を教えよ』と『みずから我が涙をぬぐいたまう日』に加えて、『水死』! ……うおー、そうきたか~。この第4巻、これは完全に、およそ日語で書かれたあらゆる文学作品の最高到達点が結実してしまっている凄まじいものだ。 収録内容についてだけでも感想はいろいろあるのだが、いずれにせよここにあるのは、著名な小説家が過去の自作を異なるフォーマットで改めて出版するというただそれだけの純粋に文化

    The Red Diptych 『大江健三郎全小説』の刊行は日本の文学史に残る事件だが、それは必ずしも喜ばしいことではない
    namawakari
    namawakari 2017/06/03
    “「自主検閲であることそのものがなかったことにされた上でなされる自主検閲」がより一層強化されていく…現在起きつつあることは、そこで最低限度維持されていた建前すら、破壊し取り除こうとすること”
  • The Red Diptych バザンを読むゴダール

    アンドレ・バザンの映画批評はわかりにくい。しばしば、バザンの議論の論旨は不明瞭であり、分析の俎上に乗せる映画を綺麗に裁断するような爽快感はなく、むしろ、バザンが対象とどのように接しているのかすら把握しにくいようなことすら少なくない。 その一方で、例えば『映画とは何か』の冒頭に収録された、バザンの代表的な評論の一つである「写真映像の存在論」は、人口に膾炙している要約によると、極めて素朴なリアリズムを肯定するものであるとされている。写真および映画が多くの芸術と異なるのは、現実に存在する事物からの転写を含むという、存在論的な側面を持つからなのであり、このような議論から、編集を排除し長回しで撮影されたシークェンス・ショットを重視するというバザンの美学的立場も導かれる、ということになっている。 ……しかし、バザンが論じているのがそれほど単純なことに過ぎないのであれば、なぜ「写真映像の存在論」は、あれ

    The Red Diptych バザンを読むゴダール
  • 『ボルヘスの「神曲」講義』を読み返したのだが……

    少し前の『第三の警官』に関するエントリを書くためにベケットの「ダンテ・・・ブルーノ・ヴィーコ・・ジョイス」を読み返したのだけれど、その流れで、ついでと言ってはなんだが、『ボルヘスの「神曲」講義』をも読み返してみた。……のだが、これが、ちょっと驚くほどつまらなかったのである。 もともと私にとってホルヘ・ルイス・ボルヘスという作家がどのような存在であったのかというと……学生時代にその存在を初めて知ったころには夢中になって読み進めたのだが、時を経るごとに評価が下っていき……最近では、その著作を改めて手に取ることも少なくなっていたのであった。 もっとも、ボルヘスを知った当初の時点から既に、ボルヘスに対する懐疑がなかったわけではない。……というのも、この人の場合、思想・哲学への言及を読んでいると、恐ろしく保守的な凡庸極まりないことを平気で述べていたりしたからだ。古典的で広く読まれたような哲学書であれ

    『ボルヘスの「神曲」講義』を読み返したのだが……
  • The Red Diptych ティム・バートンの『ビッグ・アイズ』と「政治的な正しさ」について

    namawakari
    namawakari 2015/02/15
    ″政治的に正しくないものがなぜ人を惹きつけてしまうのかということを含み込んだところまで踏み込まなければ、政治的な正しさの検討は貫徹されえないはずだからだ”
  • The Red Diptych 読むことの地獄――フラン・オブライエン『第三の警官』

    アイルランドの小説家であるフラン・オブライエンの手になる作品は、極めて奇妙なものである。とりわけ、彼の長篇第二作でありしばしば最高傑作とも評される『第三の警官』は……なんというか、常軌を逸している。 例えば、主人公でもある名前のない話者が警察を訪れた際、そこで初対面の警官と交わす会話は、以下のようなものだ。 「こちらに伺ったのはぼくのアメリカ製金時計について正式の盗難届を出すためなのです」 彼は激しい驚愕と疑惑の念を満身に漲らせてぼくを見すえました。眉は殆んど髪の生え際まで引き上げられています。 「こいつは驚くべき申し立てだ」やっとのことで彼は言いました。 「なぜでしょうか?」 「けっこう自転車が盗めるというのに時計なんぞに目をつける奴がいるものだろうか?」 冷静ニシテ仮借ナキ彼ノ論理ニ耳傾ケヨ。 「さあぼくにはとんと分かりかねますが」 「時計に乗って外出し、泥炭袋を時計に載せてわが家に運

    The Red Diptych 読むことの地獄――フラン・オブライエン『第三の警官』
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    namawakari
    namawakari 2015/01/03
    ″フィンチャー作品の冗長性を、『甘い生活』や『8 1/2』なんかの冗長性と比較してみる”
  • http://howardhoax.blog.fc2.com/blog-entry-146.html

  • http://howardhoax.blog.fc2.com/blog-entry-144.html

  • The Red Diptych 例えばの話

    例えばの話ですよ。  あるところに、A村という、小規模ではありながらも美しい景色に恵まれた村が、山奥にひっそりと存在していました。そこでは、心優しい村人たちが、とりたてて大きな事件こそないものの、争いごともなく、平穏な日々をのどかにすごしていました。  そんなA村が、あるとき、山を一つ越えた向こうにあるB村と、野球の対抗戦を開催することになりました。舞台となるのは、A村の村営球場です。B村から代表の選手たちが派遣されてきて、いざ試合が実施されることになりました。  さて、いざ野球の対抗戦を実施することになったA村ではありますが、村人たちは、「野球」という競技の存在を、ごく最近になって知ったばかり。そのため、村人たちの中でも、その正式なルールを細かく把握している人は、あまりいませんでした。  そんな中、いよいよ対抗戦の日を迎えました。移動にだいぶ手間がかかるB村から訪れた観客はあまりいなかっ

  • The Red Diptych 無用の長物としての文芸作品――飛浩隆『グラン・ヴァカンス』

    SF小説を読んでいると、技術的に酷い水準のものが平然と流通していることに出くわすことが多く、呆れかえることが結構ある。  特に、語りの構造に対する自覚のなさという意味では、絶望的である。例えば、25世紀なり30世紀なりを語りの現在時とする語り手が、なぜか、20世紀や21世紀の英語や日語の使用者にとってわかりやすく自然な表現を書き連ねる。また、25世紀なり30世紀なりに生きている人物にとっては常識的すぎてわざわざ説明の必要もないはずの説明が、(ちょうど20世紀なり21世紀なりの人間にとっては飲み込みやすいようなほど親切に)饒舌に語られる。  もちろん、ここには、SFそのものの持つジャンル的な特性が原因としてある。いかなる話者がいかなる聞き手に向けて小説の語りを遂行しているのかを意識しすぎれば、そもそも成立しなくなってしまうような作品も多い。逆にミステリであれば、話者がどのようなスタンスで誰

  • The Red Diptych 奇書探訪(3)――ギュスタヴ・フローベール『ブヴァールとペキュシェ』

    もうだいぶ昔、十九世紀の西洋文学を読み進め始めた頃に初めてその存在を知って非常に驚いたのが、かつて「筆耕」という職業が存在したということだった。  よくよく考えてみれば、当たり前のことではある。会社や役所というものは、だいぶ昔から存在した。しかし一方で、コピー機などというものは比較的最近の発明だろう。そして、会社なり役所なりが運営される以上、手書きの文書が毎日毎日際限なく生産され、清書されたり複写されたりする必要がある。  するとどうなるか。写すのである、肉筆で。ただひたすらそれをやり続ける職業が、すなわち筆耕である。  現在の感覚からすると、ほとんど拷問のようなものなのではないか……などと思ったのだが、今となっては、当時の感覚はもはやわからなくなっているのかもしれない(だいたい、会社にコンピュータがなかった頃のことすら、既に我々の多くは思い出すことが困難にありつつあるではないか)。  絶

  • The Red Diptych マーヴル映画の現代ヒーロー(上)――『アヴェンジャーズ』

    2013-08 « 12345678910111213141516171819202122232425262728293031 » マーヴル・コミックスによる自社の原作コミックの実写映画化は、次々に成功を収めている。だが依然として、これらの成功には、語られていない秘密が残されたままであるように思える。  マーヴル・コミックスは、2000年代のヒーロー像ーーもっとあからさまに言ってしまえば「ポスト9.11のヒーロー像」とは何であるのかをはっきりと認識して処理した上で、映画を製作している(一方、ワーナーにしてみれば、ヒーローもののキャラクターは、所詮は子会社のDCコミックスの所有物であるのに過ぎないだろう。それは、単に好き勝手に使い回せるコンテンツに過ぎず、扱いを最もよくわかっているDCコミックスのスタッフの意向が反映されることはない。このような両社の差異にがある限り、両社の成功の落差は今後広

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