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ロシアとelmikaminoに関するnamgenのブックマーク (3)

  • タルコフスキーのポラロイド - 記憶の彼方へ

    Instant Light: Tarkovsky Polaroids 晩年(1979年から1984年まで)のタルコフスキー(Андрей Арсеньевич Тарковский, 1932–1986)はロシアとイタリアで、好きな場所、家族(飼い犬を含む)、友人をポラロイドカメラで撮っていた。この『瞬間の光』には、フェルメールの絵画に準える評者もいる、彩度を抑えた色の中で光沢と陰翳を見事に捉えた60枚の写真(前半のロシア編には27枚、後半のイタリア編には33枚)が収められている。書の前書きでタルコフスキーの友人の一人、イタリアの詩人トニーノ・グエッラ(Antonio "Tonino" Guerra, 1920–2012)は、タルコフスキーのポラロイド写真を「人生の儚さを感じている人の目の周りを飛び交う蝶の群れのような映像」と詩的に評している。イタリア編にはトニーノその人とはっきり分かる

    タルコフスキーのポラロイド - 記憶の彼方へ
  • ウズベキスタンの写真家アン・ビクトル - 記憶の彼方へ

    思うに、記憶を語る人々というのは、過去の出来事をただ過去のこととして語っているのではありません。これまでとは違う未来へと足をふみだすために、今ここで語りおくべき物語として、記憶は語り出されている。そして、語り出されるその記憶に耳を傾けるということは、聞き手にとっては、単に語り手の過去の思い出を受け取るということにとどまるものでははない。「聞く」とは、今、ここから、語り手とともに未来に向かって足を踏み出そうという身構えでもあります。裏を返せば、その身構えなしには、「聞く」べきではない。そう、記憶を語り、聞くことで、語り手と聞き手は未来に対する共犯関係を取り結んでいるのです。抜き差しならぬ関係。その自覚と覚悟なしには、踏み込むべきではない。 記憶を追う私たちの旅とは、記憶の語り手たちとともに未来に向かう旅でもあることを、私は私で、旅ゆくほどに、痛いほどに感じるようになっていたのでした。 姜信子

    ウズベキスタンの写真家アン・ビクトル - 記憶の彼方へ
  • ノスタルジーとサウダージ - 記憶の彼方へ

    姜信子さんの「旅人」に寄り添う歌に関する一連の「旅」の物語を読みながら、その底流をなすノスタルジー(郷愁)が、先日百歳で亡くなったレヴィ = ストロースが語ったサウダージに限りなく接近するのを感じていた。ウズベキスタンの片田舎にある高麗人の村、ボルシェビークで老人たちが次々と歌う、流浪と離散の生を強いられたかつての植民地の民の想いを乗せた歌、百年前に日で生まれた歌、を聞いた姜信子さんはこう記した。 思うに、地層のように積み重なった流浪と追放の記憶を胸に、今も寄る辺ない旅人として辺境に生きる高麗人の心にしみいる何かがある歌ならば、それはもう彼ら高麗人の歌なのです。 ボルシェビークの夜。旅人たちの歌の宴。私はそこで、歌をたずさえた百年の旅の始まりの場所に寄せる郷愁ではなく、今も旅の中にある人々の寄る辺ない日々のため息や、いつかきっとたどりつくであろう旅の終りの場所に寄せる郷愁を耳にしていまし

    ノスタルジーとサウダージ - 記憶の彼方へ
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