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亜細亜に関するnamgenのブックマーク (33)

  • | 野嶋ブログ「私は書きたい」

  • ハルビンの大庭柯公 - qfwfqの水に流して Una pietra sopra

    戦争に関する文献を50冊もまとめて読むと、気分はもう戦争、である。ついでに、録画しておいたNHKスペシャル「玉砕〜隠された真実」に、BSハイビジョンの「偽装病院船〜捕虜となった精鋭部隊」「王道楽土を信じた少年たち〜満蒙開拓青少年義勇軍」もまとめて観る。世界は知らないことで溢れている。 折りも折り、『満洲の情報基地ハルビン学院』(芳地隆之著・新潮社)が刊行されたので、これも読む。三か月ほど前に長谷川四郎さんの詩の朗読と歌の会を見て(id:qfwfq:20100509)シベリア抑留についてもっとよく知りたいと思っていたので、好機逸すべからず。ハルビン学院やシベリア抑留については、内村剛介著作集(恵雅堂出版)の第一巻が未発表のものもふくめて関連の文章を集成してくれている。芳地の新刊と内村の著作集第一巻とは相補うものである。こちらも精読しなければならない。 さて、『満洲の情報基地ハルビン学院』を読

    ハルビンの大庭柯公 - qfwfqの水に流して Una pietra sopra
  • オーラル・ヒストリー企画/インタビューリスト

    大連に帰すと言われながら、2月近くも待ち続けていた阿部、井口それぞれのところへ、7月23日1通の手紙が届く。建設大学・李亜農校長からの招聘の手紙であった。生活に困られているそうですが、建設大学へいらっしゃいませんかという趣旨の勧誘を、非常に鄭重な日語で綴った書信であった。井口はその手紙を下記のような形で紹介しているが、もちろん彼の記憶から再現したものであろう。 「突然の手紙お許し下さい。私は嘗て貴国に留学し、三高を経て京都大学を卒業した者であります。尊台が大変困っておられるという話を、ある日人から伺いました。ついては、如何でしょう、私の学校の方へお越しになって、教授としてご協力願えませんでしょうか? 私も何かと尊台のお役に立ち得るものと信じます。

  • オーラル・ヒストリー企画/インタビューリスト

    磐石店から建設大学のある鶴村までは、約16キロの道のりである。鶴村に移動する当日、李亜農校長が派遣した林青年が迎えにやってきた。台湾生まれの林君は東京の成城高校の卒業だそうで、日人かと思われるほど全くなまりの無い日語を話す。阿部も井口もこの気持のいいさっぱりした林青年にたいへん好感をもった。 彼らが案内された住宅は、鶴村第一の大地主が住んでいたという豪壮なる大邸宅であった。村が共産軍によって「解放」される前に、この大地主はどこかへ逃走したのであろうか。それとも処刑されたのであろうか。 この邸宅は、これまでのような草と土と石で作られた貧しい農家の家と違って、鉄筋コンクリートで半ば洋風に建てられた広大な平屋である。その奥の半分に阿部一家が住み、他の半分に井口一家が住むことになった。ヨーロッパの生活を体験したことのある井口にとっては、コンクリートの床を踏みしめる触感はなつかしいものがあり、洋

  • 大連今昔 - 記憶の彼方へ

    大連空港内の書店で買った植民地時代の大連と旅順の写真25枚を使った絵葉書集「大連舊影」(人民美術出版社)。このなかに、いわゆる大連中山広場近代建築群の代表的な五つの建築物の写真が含まれている。同じ建築物を先日私が撮影した写真と比べてみる。 大広場。向こう正面は横浜正金銀行大連支店。 [ 旧大広場(現中山広場)。向こう正面に小さく写っているのが旧横浜正金銀行大連支店(現中国銀行遼寧省分行)。 横浜正金銀行大連支店(1909年、木頼黄、太田毅設計) 左に写っているのが旧横浜正金銀行大連支店(現中国銀行遼寧省分行) 大連ヤマトホテル(1914年、太田毅設計) 旧大連ヤマトホテル(現ホテル大連賓館) 大連市役所(1919年、松室重光設計) 旧大連市役所(現中国工商銀行大連市分行) 大連警察署(1908年、前田松韻設計) 旧大連警察署(現遼寧省対外貿易経済合作庁)

    大連今昔 - 記憶の彼方へ
  • 中央日報日本語版 エラー

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  • 鳩山由起夫首相の尖閣諸島帰属問題意識について: 極東ブログ

    古い話から。 東京オリンピックが開催されたのは1964年の秋、10月10日であった。これを記念した体育の日は現在ではその日に固定されてはいない。この年、東京の夏は、間近に迫る世界大会を前に活気にあふれていたが、重苦しい国際ニュースもあった。 1964年8月2日、ベトナム北部トンキン湾にいる米海軍駆逐艦に対して、北ベトナム軍の哨戒艇が魚雷と機関銃で攻撃した。ベトナム戦争時代であり、北ベトナム軍は南ベトナムの軍だと誤認した。これがトンキン湾事件で、米国が格的にベトナム戦争に介入するきっかけとなり、翌年から北爆(無差別爆撃)が開始された。現在ではこの事件は米国による陰謀であることがわかっている。ポスト安保闘争としてベトナム反戦運動を体験した団塊世代が、米国の関与する戦争をなんでも陰謀ではないかと見たがるのにはこうした背景がある。 ベトナム戦争を始めたのは米国民主党である。ジョン・F・ケネディ大

  • W-Furuhon

  • ウズベキスタンでのビジネスマンたちの逮捕 - 亜細亜通報〜ユーラシア大陸のトルコ系諸民族と日本のあれこれ

    今週はウズベキスタンで大金持ちのビジネスマンたちが逮捕や拘留された。 中央アジアでは,1991年の独立以来,天然資源に恵まれたカザフスタンを除いて,経済的な発展が順調とは言えない。賄賂が横行し,政府とコネのない者がビジネスで大きく成功することは難しい。 今週,逮捕や拘留されたビジネスマンたちも政府と密接に結びついて事業を成功したビジネスマンたちだ。コネと賄賂で成長したとも言えよう。しかし,なぜ彼を逮捕したのだろうか?ウズベキスタン政府は大きな財源がなく,彼らの会社から搾りとろうと考えているのか,それともウズベクのある姉妹に関連する企業グループと競争させないため,芽を摘んだのであろうか。ウズベキスタンでは,こういうことが何回か起きており,特定の企業集団が産業を独占することが起きている。 これでは健全な産業の成長は望めない,若者失業者が増えるだけで何の解決策にはならない。ウズベキスタンは中央ア

    ウズベキスタンでのビジネスマンたちの逮捕 - 亜細亜通報〜ユーラシア大陸のトルコ系諸民族と日本のあれこれ
  • 2010-03-13

    を! 金正日撤去と同時に! ふつうの北朝鮮人民そのものだ。*1それは正しい答えだが、イメージがわきにくい。 在日朝鮮人の親族たちだ、と考える方がリアリティがある。 北朝鮮体制派組織は、北朝鮮は地上の楽園と宣伝して北朝鮮への移住運動を推進。その結果、1959年から1984年にかけて9万3千人を超える人々が日から北朝鮮移住した。移住した人びとには日人・元日人・元日居住者・その配偶者や子どもたちなどがいた。脱北者たちによると、日から北朝鮮移住した人びとのうち、少なくない人々が北朝鮮政府によって最終的に強制労働収容所送りにされ、そこで、餓えや、医療を受けられないことや、虐待により命を落としていったとのことである。元日居住者の脱北者(数は少ない)の日への再定住を受け入れているものの、こうした再定住政策も明確に打ち出されたものではない。 http://www.hrw.org/ja/n

    2010-03-13
  • オーラル・ヒストリー企画/インタビューリスト

    「『この際吾々は――関屋先生とは今後一切の関係を断絶する――という声明書を、中共側へ送っといた方が、いいんじゃないですか?』 この提案には、私も老川口も賛成して、早速この意味の声明書を作成することにした。」(「ダモーイ」第21回) ところで、阿部たちが滞在することになった南花カン村は、戦争中、日軍によって恐ろしく荒らされた村であるという。この村に、阿部の長男・皓夫と中国人の世話係の宮とが準備のため一足先に出発した。 50歳の宮は17歳の少年に、戦争中の日軍の残虐ぶりを、道中つぎのように語ったという。 「『日鬼子(リーベングイズ)共が、草の先に火をつけて、老百姓(ラオパイシン=庶民)達の家を一軒一軒、焼き廻りおったのだ』 宮同志は、にくにくしげに、皓夫を見た。 『南花カン村120軒の中、残ったのは、たった3軒だけだった。日鬼子の奴めが!』 宮は、ペッとつばをした。 『だからお前等鬼子

  • シルクロード デジタル アーカイヴズ(東西美術交流研究センター) - 亜細亜通報〜ユーラシア大陸のトルコ系諸民族と日本のあれこれ

    杉村棟博士(国立民族学博物館・総合研究大学院大学名誉教授)が東西美術交流センターを立ち上げた。杉村博士はイスラム美術史の専門家で長年中央アジアや中東において研究を続けてきた。杉村博士が撮影した中央アジアなどの写真がデジタル化され,デジタルアーカイブとして公開されることとなった。アーカイブズの個人利用には会員制ととっているから会員となる必要がある。ただし,学生と満62歳以上は年会費無料となっている。 杉村博士は50年前から現地を調査し,膨大な写真や映像を撮影してきた。このデジタル・アーカイブズに残されている記録は現在では見られなくなったものもあり,大変貴重である。写真や資料はデジタル化と整理分類が行われている。今後はデジタル化されたものがインターネットを通じて公開されることを望む。シルクロードに関心あるひとは日のみならず,世界にも多くいる。

    シルクロード デジタル アーカイヴズ(東西美術交流研究センター) - 亜細亜通報〜ユーラシア大陸のトルコ系諸民族と日本のあれこれ
  • アタチュルク像,新潟から和歌山県串本町へ - 亜細亜通報〜ユーラシア大陸のトルコ系諸民族と日本のあれこれ

    トルコ政府が新潟のトルコ文化村(廃園)に寄贈したアタチュルク像は,所有者がかわり,その後,アタチュルク像をめぐり柏崎市と所有者の間でトラブルが続いていた。去年,駐日トルコ大使と日財団関係者の尽力により,問題は解決に向かいつつある。アタチュルク像は新潟から和歌山県串町に運ばれ,建立される予定である。 和歌山県串町は,オスマン帝国海軍軍艦エルトゥールル号遭難後,遭難者を救助し,溺死者を手厚く埋葬した。草野の根レベルで日・トルコ間の友好関係を長年続けてきた。今回,アタチュルク像が串町に落ち着くことになったことは非常に喜ばしいことだ。 それにしても,メンツにこだわって問題を長引かせた柏崎市に比べると,和歌山県串町は,日とトルコの友好親善に貢献するところ,大と言えよう。アタチュルク像は,串町移設で日・トルコ間の友好のシンボルになることは間違いない。

    アタチュルク像,新潟から和歌山県串本町へ - 亜細亜通報〜ユーラシア大陸のトルコ系諸民族と日本のあれこれ
  • [書評]世界史のなかの満洲帝国(宮脇淳子): 極東ブログ

    「世界史のなかの満洲帝国(宮脇淳子)」(参照)は書名通り、満洲帝国を世界史に位置づけようとした試みのだが、その試みが成功しているか妥当な評価は難しい。いわゆる左翼的な史学からすれば書は、珍妙な古代史論と偽満州へのトンデモとされかねないところがある。史学学会的には概ね無視ということになるだろうが、おそらく日には書をカバーできる史学者は存在していないのではないかと私は思う。 一般読書人にとって新書としての書はどうかというと、率直に言えば、有無を言わず買って書棚に置いておけ絶対に役立つとは言える。各種の事典的情報がコンサイスにまとまっているので便利だ。ブログに書評を書いてブックオフへGO!というではない。ただ、読みやすさと読みづらさが入り交じる奇妙な読書体験を強いられるかもしれない。 言うまでもなくと言いたいところだが、宮脇淳子は岡田英弘のであり、その史学の後継者である。岡田英弘

  • [書評]日中戦争はドイツが仕組んだ 上海戦とドイツ軍事顧問団のナゾ(阿羅健一): 極東ブログ

    先日、日中双方10名ほどの有識者による歴史共同研究の報告書が公開されニュースになった。大手紙の社説などでも言及されていた。共同研究は2006年10月安倍晋三首相(当時)が訪中に際し、胡錦濤国家主席との会談で合意されたものだ。近代史については中国側の都合で非公開となったとのことだが、読める部分はどんなものだっただろうかと思っていたら、外務省で電子文書で公開されていた(参照)。 中国側の見解もまとめられていたが私は中国語が読めないのでわからない。この部分も翻訳・合し、政府補助で安価に販売されたらよいのではないかと思った。新聞などの報道では、暴発ということでほぼ定説化しつつある盧溝橋事件について中国側でも「発生は偶然性をもっているかもしれない」との理解が示されたといった点に着目していたが、他も全体にバランス良く書かれていて、存外にというのもなんだが、よいできだったことに驚いた。なお、盧溝橋事件

  • 近代史とじいさん - 武蔵野人文資源研究所日報annex

    アジア歴史史料センター(http://www.jacar.go.jp)がとんでもなく面白い。 国立公文書館にある『太政類典』『公文録』や防衛庁防衛研修所にある『陸軍省大日記』等を、目録検索できるだけでなく、自宅から読むことができるのである。凄いプロジェクトである。 要するに「図書館の禁帯出の貴重資料→閲覧には身分証明書要、万年筆使用不可、コピー不可」が、司書のおばさんのうさんくさげな視線を経ずとも、自宅で読めるというわけだ。設立の経緯を読むとわかるが、村山富市首相、在任中唯一の輝かしい業績ではないでしょうか。 で、ぼんやりと『軍事機密大日記目録』を見ていて、ふと思いつき、亡くなった大叔父の名前で全文検索してみた。 彼は陸軍軍人だったようだが、私の知る限りただの田舎の蜜柑農家のじいさんであった。戦時のことは復員後親族のだれにも一切語ることはなかったらしいが、そのことと彼が一時B、C級戦犯とし

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  • 藤原新也・アンソロジー - 記憶の彼方へ

    asin:4884182227 藤原新也は最近二のマーティンを買った。一は00-15、もう一はバックパッカーだった。最初にギターを弾いたのは中学生のとき。当時公開されたマルセル・カミュ監督の『黒いオルフェ』のギターのサントラに憧れたのがきっかけだった。(中略)ギターソロはルイス・ボンファだった。曲は「カーニバルの朝」。「ソロ独特の、なんていうか切なく、不自由さがある。不自由=情感であるわけだ。ソロで奏でる。リズムとメロディを一緒に弾かなければならない。それをうまく乗り越える。不自由なフレットさばきというか、その感じが僕にはすごく良かった。(「ギターとともに出る旅」『Coyote』No.35, March 2009) 今年は断続的に藤原新也のを読んで来た。振り返って見ると、最初のきっかけは、ヴェンダース夫が小津安二郎の『東京物語』を偲んで尾道を撮影旅行したときの写真集に藤原新也が寄

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  • ウズベキスタンの写真家アン・ビクトル - 記憶の彼方へ

    思うに、記憶を語る人々というのは、過去の出来事をただ過去のこととして語っているのではありません。これまでとは違う未来へと足をふみだすために、今ここで語りおくべき物語として、記憶は語り出されている。そして、語り出されるその記憶に耳を傾けるということは、聞き手にとっては、単に語り手の過去の思い出を受け取るということにとどまるものでははない。「聞く」とは、今、ここから、語り手とともに未来に向かって足を踏み出そうという身構えでもあります。裏を返せば、その身構えなしには、「聞く」べきではない。そう、記憶を語り、聞くことで、語り手と聞き手は未来に対する共犯関係を取り結んでいるのです。抜き差しならぬ関係。その自覚と覚悟なしには、踏み込むべきではない。 記憶を追う私たちの旅とは、記憶の語り手たちとともに未来に向かう旅でもあることを、私は私で、旅ゆくほどに、痛いほどに感じるようになっていたのでした。 姜信子

    ウズベキスタンの写真家アン・ビクトル - 記憶の彼方へ
  • ノスタルジーとサウダージ - 記憶の彼方へ

    姜信子さんの「旅人」に寄り添う歌に関する一連の「旅」の物語を読みながら、その底流をなすノスタルジー(郷愁)が、先日百歳で亡くなったレヴィ = ストロースが語ったサウダージに限りなく接近するのを感じていた。ウズベキスタンの片田舎にある高麗人の村、ボルシェビークで老人たちが次々と歌う、流浪と離散の生を強いられたかつての植民地の民の想いを乗せた歌、百年前に日で生まれた歌、を聞いた姜信子さんはこう記した。 思うに、地層のように積み重なった流浪と追放の記憶を胸に、今も寄る辺ない旅人として辺境に生きる高麗人の心にしみいる何かがある歌ならば、それはもう彼ら高麗人の歌なのです。 ボルシェビークの夜。旅人たちの歌の宴。私はそこで、歌をたずさえた百年の旅の始まりの場所に寄せる郷愁ではなく、今も旅の中にある人々の寄る辺ない日々のため息や、いつかきっとたどりつくであろう旅の終りの場所に寄せる郷愁を耳にしていまし

    ノスタルジーとサウダージ - 記憶の彼方へ
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