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写真に関するnamgenのブックマーク (11)

  • タルコフスキーのポラロイド - 記憶の彼方へ

    Instant Light: Tarkovsky Polaroids 晩年(1979年から1984年まで)のタルコフスキー(Андрей Арсеньевич Тарковский, 1932–1986)はロシアとイタリアで、好きな場所、家族(飼い犬を含む)、友人をポラロイドカメラで撮っていた。この『瞬間の光』には、フェルメールの絵画に準える評者もいる、彩度を抑えた色の中で光沢と陰翳を見事に捉えた60枚の写真(前半のロシア編には27枚、後半のイタリア編には33枚)が収められている。書の前書きでタルコフスキーの友人の一人、イタリアの詩人トニーノ・グエッラ(Antonio "Tonino" Guerra, 1920–2012)は、タルコフスキーのポラロイド写真を「人生の儚さを感じている人の目の周りを飛び交う蝶の群れのような映像」と詩的に評している。イタリア編にはトニーノその人とはっきり分かる

    タルコフスキーのポラロイド - 記憶の彼方へ
  • 鈴木清の幻のCD-ROM『漂う水、女――ナジャ』 - 記憶の彼方へ

    鈴木清(1943–2000)が生前刊行した8冊の写真集の表紙。『愚者の船』以外はすべて自費出版。 鈴木清の生前のインタビュー記事の最後に「幻のCD-ROM」の話が出てくる。 質問:写真集、写真展、雑誌の連載などがありますが、最近のデジタルという媒体についてはどうですか。 鈴木:いやおれ、CD-ROMあるんだよ。幻の。150点写真はいっているんだ。 質問:えっ!あるんですか。それは知らなかった。 鈴木:出来てんの。出来たんだけど。事情があって出版がダメになってしまった。世に出すのを。ぼくの手元にあるんだけど、それを上手くプレスすれば商品化されるんだけれど。まさに幻のCD-ROMですよ。自分で編集して、ムービーも、音も入っているんです。見て下さいよ。タイトルは“漂う水、女――ナジャ”ですよ。ぼくも結構サーカスの女など旅先で拾った女性の写真が多いんですよ。インターネットとかパソコンは自分独りで見

    鈴木清の幻のCD-ROM『漂う水、女――ナジャ』 - 記憶の彼方へ
  • Flickrの画像をダウンロードする - 東京放水路

  • シルクロード デジタル アーカイヴズ(東西美術交流研究センター) - 亜細亜通報〜ユーラシア大陸のトルコ系諸民族と日本のあれこれ

    杉村棟博士(国立民族学博物館・総合研究大学院大学名誉教授)が東西美術交流センターを立ち上げた。杉村博士はイスラム美術史の専門家で長年中央アジアや中東において研究を続けてきた。杉村博士が撮影した中央アジアなどの写真がデジタル化され,デジタルアーカイブとして公開されることとなった。アーカイブズの個人利用には会員制ととっているから会員となる必要がある。ただし,学生と満62歳以上は年会費無料となっている。 杉村博士は50年前から現地を調査し,膨大な写真や映像を撮影してきた。このデジタル・アーカイブズに残されている記録は現在では見られなくなったものもあり,大変貴重である。写真や資料はデジタル化と整理分類が行われている。今後はデジタル化されたものがインターネットを通じて公開されることを望む。シルクロードに関心あるひとは日のみならず,世界にも多くいる。

    シルクロード デジタル アーカイヴズ(東西美術交流研究センター) - 亜細亜通報〜ユーラシア大陸のトルコ系諸民族と日本のあれこれ
  • 記憶の彼方へ10:私の知らない家族の肖像 - 記憶の彼方へ

    不思議ないい写真だなあと思って見始めて5年経つ。雪中寒中記念撮影。私の知らない家族の肖像。祖父方か祖母方の親戚だろう。昭和のはじめだろうか。正月の記念撮影か。青森か秋田か。薪が積まれている。板塀の続く向こうの二軒の家の屋根にも雪が積もっている。いつどこでだれが撮ったのか、写っているのは一体誰なのか、正確なところは知る手掛かりのない多くの写真のうちの一枚。一際印象深い一枚。家族あるいは母娘の実存的感情がひしひしと伝わって来る。私の中の祖父や祖母の記憶には存在しない家族なのに。重ね着して、ちょっと着膨れして見える三人の娘たち。三姉妹のそれぞれの年頃の感情と性格も滲み出ている。この撮影前後の賑やかなやりとりが目に浮かぶ。お母さんらしき人には苦労の跡が偲ばれる。 関連エントリー 記憶の彼方へ001:私の知らない祖父母(2008年02月27日) 記憶の彼方へ002:私の知らない父と私(2008年09

    記憶の彼方へ10:私の知らない家族の肖像 - 記憶の彼方へ
  • 記憶の彼方へ009:私の知らない母と私 - 記憶の彼方へ

    畳、漆喰の壁、襖障子。何ストーブだろうか。燃料は薪ではなさそうだ。石炭だろうか、コークスだろうか。私は昭和32年8月21日に生まれた。写真は半世紀あまり前、昭和32年(1957)の冬に撮影されたものらしい。今、不思議を感じる。見れば見るほど分からなくなる。今までは不思議とは感じなかった。単純なことだと思っていた。半世紀前の、ありのままの事実が写っているだけだ。半世紀前には、お前は赤ん坊で、お前の母親はお前の知らない若い女だった。それだけのこと。でも、今は、不思議を感じる。いや、衝撃さえ覚えている。写真を見ることのどこかに亀裂が走った。私自身や母にこんな時があったのかという驚きではない。今の私の娘たちと変わらない年齢の「若い母」と「赤ん坊の私」が写った写真をどう見ればいいのか分からなくなる。私はその時のことを何も覚えていない。体に回された若い女の右腕、両膝を支える左腕、声や吐息、背中に触れて

    記憶の彼方へ009:私の知らない母と私 - 記憶の彼方へ
  • ウズベキスタンの写真家アン・ビクトル - 記憶の彼方へ

    思うに、記憶を語る人々というのは、過去の出来事をただ過去のこととして語っているのではありません。これまでとは違う未来へと足をふみだすために、今ここで語りおくべき物語として、記憶は語り出されている。そして、語り出されるその記憶に耳を傾けるということは、聞き手にとっては、単に語り手の過去の思い出を受け取るということにとどまるものでははない。「聞く」とは、今、ここから、語り手とともに未来に向かって足を踏み出そうという身構えでもあります。裏を返せば、その身構えなしには、「聞く」べきではない。そう、記憶を語り、聞くことで、語り手と聞き手は未来に対する共犯関係を取り結んでいるのです。抜き差しならぬ関係。その自覚と覚悟なしには、踏み込むべきではない。 記憶を追う私たちの旅とは、記憶の語り手たちとともに未来に向かう旅でもあることを、私は私で、旅ゆくほどに、痛いほどに感じるようになっていたのでした。 姜信子

    ウズベキスタンの写真家アン・ビクトル - 記憶の彼方へ
  • 小島一郎と渋沢敬三 - 記憶の彼方へ

    『小島一郎写真集成』(インスクリプト、2009年、asin:4900997234)の巻末には、高橋しげみ氏の「北を撮る------小島一郎論」と題した長い論考が収録されるとともに、小島一郎の生前唯一の写真集『津軽』に掲載された小島自身による「私の撮影行」と題した短文が転載されている。両者について簡単にメモしておきたい。 「北を撮る------小島一郎論」は、小島一郎の人生と写真に対する「なぜ」という根的な問いかけに発し、彼の写真を見る現代のわれわれのまなざしの行方を見定めようとする労作である。その中の或るエピソードに驚いた。小島一郎は死ぬ数年前に、こちらもすでに病床に臥していた渋沢敬三に出会っていたのである。そうか!と思った。以前書いたように(http://d.hatena.ne.jp/elmikamino/20090325/p2)、敬三は父の篤二の写真集『瞬間の累積』(慶友社、1963

    小島一郎と渋沢敬三 - 記憶の彼方へ
  • 砂漠 - 記憶の彼方へ

    砂漠 今年初めに復刊されたル・クレジオの『砂漠』を買った。砂漠に惹かれる。どうしてだろう。映画『アラビアのロレンス』のなかで、ロレンスが砂漠に惹かれる理由をたしか「清潔だから」と答えていたことを思い出す。そして、たしか砂漠は陸の海であると言った人がいた。人間の営み、生命を拒絶するかに見える砂漠こそが実は生命を、精神を深く耕す場所であるというような考え方だったような気がする。分かるような分からないような考え方だが、惹かれる。アメリカで果てしなく続くように思われた乾燥地帯を走り続けたとき、自分の小ささを痛感した時の解放感と悲哀の入り混じったような感情のことも思い出す。「私は言葉によって見る」というル・クレジオが砂漠に見たものを味わいたい。 旅する巨人―宮常一と渋沢敬三 (文春文庫) 佐野眞一『旅する巨人 宮常一と渋沢敬三』(文芸春秋、1996年)が文春文庫で読めるようになった。2009年1

    砂漠 - 記憶の彼方へ
  • 転校生のリアリティ - 記憶の彼方へ

    遠野物語 (光文社文庫) 作者: 森山大道出版社/メーカー: 光文社発売日: 2007/04/12メディア: 文庫 クリック: 26回この商品を含むブログ (29件) を見る 森山大道は転校生だったという。私も転校生だった。分かるような気がする。彼の写真の独特の距離感というか屈折感、傾き、速度感というか疾走感が。 度重なる転校は彼から故郷Homeと呼べる土地Landを奪った。積極的に友だちを作ることも諦めさせた。いつも今いる場所がすぐにまた次の場所へと移動する通過点でしかない。いつもここではないどこかに向かう心が今ここから足を浮かせる。不安、不安定。別の土地への移動は更に別の土地への移動の通過点でしかなかった。 そんな少年が知らず知らずのうちに魅入られていくのが、つかのま暮らす町の中の特異な場所Spotだった。商店のウィンドーや看板やポスターや映画のスチール写真やスクリーンや挿絵など、コピ

    転校生のリアリティ - 記憶の彼方へ
    namgen
    namgen 2009/09/09
    懐かしい名前だ。
  • 原爆と写真:東松照明 - 記憶の彼方へ

    ニッポン人脈記・この一枚の物語1「終わらぬ悲惨 世に伝え」(2009年6月8日朝日新聞夕刊、文・写真:相場郁朗) → 「終わらぬ悲惨 世に伝え」(asahi.com) 上の切り抜きをこの二週間毎日眺めていた。原爆と写真の関係ということを考えていた。 余りにも有名な1961年に東松照明が撮影した被爆者、片岡津代さん(当時40歳)のケロイドに覆われた顔の写真(大)に、現在の片岡さん(88歳)の写真(小)が添えられている。それらは、1945年8月9日から1961年までの悪夢のような時の流れとそれから2009年までの神聖な時の流れの対比によって片岡さんの人生の輪郭を雄弁に物語っているように感じられた。そして相場郁朗氏が撮影した、偶然にも私が愛用しているのと同じコンパクトカメラを構える最近の東松照明さんの神々しい表情の写真は、もうひとつの時の流れ、宿命的な写真家としての人生を見事に捉えているように感

    原爆と写真:東松照明 - 記憶の彼方へ
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