わたしは入学試験の口頭試問の時に、聖戦について問われ、熱心に答えた人間なのだ。「それはシナの支配者の蒋介石がシナ人の農民たちを苦しめているので、そのお百姓さんたちにかわって、人びとが平和な生活ができるように戦っているのですから、聖戦といいます。日本軍は蒋介石軍をその支配者の立場から追い出してしまったら、帰って来ます。自分の利益のために戦っているのではありませんから、聖なる戦いといういみで聖戦というのです。」 わたしはほんとうにそう思っていた。 p146 「慶州は母の呼び声」森崎和江 isbn:4103517018 C0095 満州国はすでに建設されていたので、その「国境」を踏み越えて中国の中心部に侵攻するためには理屈がいる。大人は馬鹿だから「暴支膺懲(ぼうしようちょう)」といった意味不明な言葉にだまされてくれるが、小学生はそうはいかない。小学生にも分かるような理屈で言うならば上のようになる
それはただある、とか、ユンクのように言うわけでもない。 こんなこと言うなよ、今日の一言みたいだが: 私はあなたが信じる神を信じない。 というのがま私の人生の此処までところ。結論先に言うとダメだなぁと思う自分がね。ただ、孤独なんだしこうした問題は内面に正直にある以外どうしようもない。 神は人々の心の中にいて、世界の不正に対して、君の参戦を期待している、というふうに考えることは可能かとも思う。ま、よくわからない。 ただ、人に心というものはある。どうやらこの虚無の宇宙のなかに「私」はいるようだ。「私」が存在し「心」があるということはこの虚無の宇宙のなかに「命」があるということだし、命のある宇宙とは虚無とは思えない云々って考えると神がいそうだし、いてもええんでないと思うこともある。というか、汎神論ではなく、この今のすべてが神だとか言えないこともないと思う。 ただ、この問題はそんなめんどくせーことで
ユクスキュルの環世界論についての考察が途中であるが、ここでレトリックに関する筆者の総合的な考えを披露しておこう。この文章はいずれある事典の項目として刊行される予定になっている。そのままだと著作権上まずいかなと考え、多少違えてある。ただし、この文章には筆者の過去の論文などが利用されている点をお断りしたい。同じ主題についてふたたび書く以上、内容の重複は免れないが、しかし新たな論点も多少盛り込んだ。 なお環世界論の考察は、この後で再会する予定。 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー 【レトリックの起源と変遷】 従来、rhetoricに対してはおおむね二様の訳語が使用されてきた。「弁論術」と「修辞学」とである。おのおのの訳語にはそれなりの根拠がある。しかし、本来一語である言葉を二通りに訳し分けることの欠点は、原語のもつ語義の統一を断片化してしまい、この語が担ってきた歴史性を誤認させ
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