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記号に関するnamgenのブックマーク (5)

  • ユクスキュル・ルネッサンス (3) - 現在思想のために

    環世界論は<合理性の基準に規制された知的な探究>という意味での<科学>ないし<学問>のパラダイム転換を要請する ユクスキュルの環世界論について考察するためには、トゥーレ・フォン・ユクスキュル(Thure von Uexküll)の論文が貴重な手がかりになる。ここでは、アクセスが比較的に容易で、筆者が参照できた三つの論文をあげよう。①「環世界論の研究」(思索社版『生物から見た世界』に所収)、②Introduction: Meaning and science in Jakob von Uexküll’s concept of biology (Semioticca, 1982 Vojume 42-1)、③Unit of survival (Semiotica, 2001 134-1/4 )、これらである。 〔トゥーレ・フォン・ユクスキュルはユクスキュルの実子でウルム大学名誉教授、医師。以下の

    ユクスキュル・ルネッサンス (3) - 現在思想のために
  • http://taeko-ara.jugem.jp/?eid=711

  • 視えない絵画を知覚する(2) 感覚様相と共感覚 - 現在思想のために

    感覚のメレオロジー、あるいは換喩論理(metonymic logic) ケネディの論文「盲人はどのような絵を描くか」が立証したのは、直接には、視覚障害者(先天盲と早期失明者)も――この助詞には価値の含意はない――絵を描く能力をもつ、という事実である。これは多方面に影響するところの多い知見だろう。 まずそれは、<絵画>という表現とは何か、という問いに対して決定的な効果を及ぼす。従来、絵画は視覚藝術(visual arts)だとされてきた。しかし盲人も絵を描くことができるのだから、この言い方は通らない。もちろん、ケネディの論文に掲出された「作品」が藝術の域に達しているかどうかは疑問かもしれない。しかし逆に、それを藝術ではないと断定する根拠も明確にはないのだ。(もちろんこれは個別の作例によりけりだが。) 我々の身近で盲人のアーティストがセミプロの画家として活動しているのをご存知だろうか。京都在住

    視えない絵画を知覚する(2) 感覚様相と共感覚 - 現在思想のために
  • 言語音のシンボル機能への展開 - 現在思想のために

    <言語音の誕生 ――共鳴する身体>と題したブログ記事(http://d.hatena.ne.jp/namdoog/20060610)において、初発の言語音の生成を機能論的観点から分析する道筋をしめしたのだったが、その際、初めての言語音が一面ではアイコン(類像)他面ではインデックス(指標)として機能することを指摘した。しかしながら、パースの記号分類学における第三の記号タイプ、すなわち<シンボル>については放置せざるを得なかった。 あらゆる記号機能が少なくとも胚種として原初の言語音に内属しているのでなくては、それがいつか生起するということはありえない。もちろん問題は十全に展開をとげた言語体系ではない。われわれが形而上学的顕微鏡で拡大しようとしたのは、言語体系が音声質料から立ち上るために深く穿たれたいわば蟻の一穴にすぎない。 ところが、このあまりに小さな音声がすでに多面的な機能をそなえていなく

    言語音のシンボル機能への展開 - 現在思想のために
  • へのひとつのmutantをめざして - 現在思想のために

    きっかけは何でもいい。以前からブログを立ち上げようとはおもっていた。 私生活をさらしておのれを顕示するのは趣味ではないし、匿名をいいことに他者の言説に与太めいた批判をたれながすなど傍目ながらウンザリする。 書く動機ははっきりしている。すこしばかり年季をいれてなど読んできた自分自身の職業生活のよどみ――そこに攪乱を持ち込みたいのだ。 梅田望男『ウッブ進化論』に読み取れるヴァーチャル世界への楽観的構えは、インターネットに対する悲観論がかずあるなかでは新鮮だった。グーグルを一方的にもちあげるのではなく、現状のありのままの確認のうえにたった評価は妥当なもののようにおもえる。はじめは正直眉につばをつけつつ読み進めたのだが、読了したときには半ば説得されていた。たしかにWeb ver.2がありうるかもしれない、ということだ。 ブログをものするに際して、この<はてなダイアリ>を場所として選んだのはこの読

    へのひとつのmutantをめざして - 現在思想のために
    namgen
    namgen 2006/08/31
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