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essayに関するnamgenのブックマーク (10)

  • 正宗白鳥、あるいは抽象的生活、そしてあるブックカバー | A VIEW FROM PARIS パリから観る --- Le savoir, c'est le salut ---

    2001年、突如フランス語に目覚め世界が広がる。日常の偶然を愛し、そこから物語を紡ぐのが人生との思いに至る。ここでは2007年秋から始めたパリ生活を綴ります。paul.ailleurs@gmail.com by paul-paris

    正宗白鳥、あるいは抽象的生活、そしてあるブックカバー | A VIEW FROM PARIS パリから観る --- Le savoir, c'est le salut ---
  • ■ - 富柏村日剩

    八月十七日(火)早晩にジム。一応、運動を終へ露天酒吧で麦酒を一杯。雨が少し降り始めたが自宅に戻ると一ッ時の大雨。雨止んで夕焼け。夏の終はりに肉の冷菜を肴にChateauneuf du PapeのClos du Mont Olivet(07年)飲む。Simon Rattle卿の指揮でバーミンガム市交響楽団の演奏するストラヴィンスキーの「春の祭典」とペトルーシュカを聴く。 ▼大江健三郎の例へば朝日に連載する「定義集」がアタシにはその日語が「まどろっこしい」ので讀んでゐられない。だが同じ人が紐育時報(網版は八月五日)に書いた“Hiroshima and the Art of Outrage”(こちら)は簡潔明解で讀み易い。村上春樹は日語だと寡黙で英語だと多弁になる。言語によつて表現が変はることは誰にとつても珍しいことではないの鴨。ところでそのなかにある Of all the official

    ■ - 富柏村日剩
  • 「人生に重要なことなどなにもありはしない」か - 記憶の彼方へ

    先日、南無さん(id:namgen)から、苦痛と絶望に打ちひしがれて死の床にあった老人の最期を看取ったときの話を聞いた。老人は己の罪過の故、「地獄」行きを覚悟していたという。それでも「死んだらどうなるんだ。やっぱり地獄行きか」と老人は微かな希望を手繰り寄せようとするかのような口調で言った。南無さんはその老人にはっきりと力強くこう言った。「おやじさん、心配するな。極楽に行ける。必ず極楽に行ける」それを聞いた老人は「そうかあ、、」と安堵の表情を浮かべ、間もなく逝ったという。そんな言葉が交わされた時空こそが極楽だったのだと思う。地獄といい、極楽といい、絶望といい、希望といい、あくまでこの世のこの心の「いま、ここ」の様相なのだと思う。 他方、松昭司さんが取り上げた「自殺大国ニッポン」(佐野眞一)の背景には薄墨で描かれた地獄絵図のような現実の状況があり、程度の差こそあれ、皆不安を胸中に宿しているに

    「人生に重要なことなどなにもありはしない」か - 記憶の彼方へ
  • 補説・小麦畑を渡る風 - qfwfqの水に流して Una pietra sopra

    前回の記事にトラックバックをいただいた。思うところを若干補足しておきたい。 わたしとて日常生活においてはなるべく「むだ」をなくしたいと思い、そう心がけていないわけではない。目的地には最短距離・時間で着くようにするし、不要のものの溢れる身辺をすっきりさせて、できるだけシンプルに暮したいとねがっている。だが、そのねがいと裏腹に「むだ」をいっこう排除できずに非効率的な日々をおくっている。 さて、TBしてくださった「無造作な雲」さんは、「ただあるだけで尊いという「価値」は可能か?」と書いていられる。それはそれで意味のある問いかけであるけれども、「尊い」というところに価値判断が認められよう。「むだ」はけっして尊くはない。尊くないから「むだ」なのだ。わたしの夢みたのは、いかなる価値にも回収されない「むだそれ自体」のゆくえである。 たとえば、「むだは当にむだか」という問いかけは、「むだにもそれなりの意

    補説・小麦畑を渡る風 - qfwfqの水に流して Una pietra sopra
  • テレビとか、誕生日とか、ああ、自民党。: miya blog

    namgen
    namgen 2009/10/04
    お誕生日おめでとうございます。粛々と・・。
  • 若き芸術家の癌病闘日記 - Wein, Weib und Gesang

    ワイン、女 そして歌、此れを愛しまない輩は、一生涯馬鹿者であり続ける。マルティン・ルター(1483-1546) ここで紹介したクリストフ・シュリンゲンジーフ著「天国も、これほど素晴らしい筈がない!」の前半部の感想だけでも書き留めておこう。読み返して細部を読み直すような書体でも内容でもないからだ。日記として書かれているから当然なのかも知れない。 就寝前や昼寝の時にちらちらと読むようなであるが、殆ど倒れるように寝床へと向う生活をしているので、購入してから一月ほど経つがいまやっとその書き様が分かってきた。 肺に腫瘍が見つかってから、それが悪性の疑いあるものとして、結局は片肺が除去されてICUから普通病棟へと戻るまでの日々が前半として描かれている。 不安や疑心暗鬼と揺れ動く心理状態がそこに赤裸々に描かれているのだから、なにも目新しいものは見付らない。しかしこの書物を売りものにしているのは、舞台映

    若き芸術家の癌病闘日記 - Wein, Weib und Gesang
  • 唯物論的な歴史学 :: ex-signe ::

    文献学者が日々量産しているカント主義観念、すなわち原因―結果の観念は過去をどんどん遠い彼方へと送り返している。なぜなら、原因とは、結果ではないからだ。原因と結果の両者は手をつないで、交わることなく、弁証法という名の楕円を描く。天才ヒュームが一度はほどいたこの原因と結果の紐帯をカントが結び直した時、かくして過去はもうわれわれの前には姿をあらわさなくなってしまった。過去は地中奥深くに沈みゆき、つねに諸原因の結果であるところの現在がふたたび原因を規定するという悪夢のような循環のなかで、世界は日々閉塞の度合いを強めてゆく。しかし思えば子供時代、わたしはいつも、地中で集くこおろぎを聴いた。闇を集めて集くこおろぎの集きが、闇を掴むことのできるものにした。こおろぎの鳴く声は姿とひとつであった。 われわれは、いまもこおろぎの集きを聴く。だが、その姿はみかけない。たまに見かけても、その姿が声の主だとは信じな

  • 2009年06月05日の記事 | ホスピタリティの場所【山本哲士公式ブログ】hospitality/place/capital

  • http://www.feecle.jp/blog/?b=irugu&p=429

  • 毒舌と老嬢――『目白雑録3』を読む - qfwfqの水に流して Una pietra sopra

    いまではもう世界の北野武と呼ばれることのほうが多かったりするビートたけしがツービートという名でかつては漫才をやっていたことを知らない若者も少なくないかも知れないけれど、赤信号みんなで渡れば怖くないだったか付和雷同好きな国民性(は昔も今も老いも若きも一向に変わらない)を揶揄するフレーズが流行語になって「毒ガスなんとか」という(調べればいいのだけれど、面倒臭いのである *1 )を出して売れっ子になった頃だったか、「アサヒ芸能」でツービートがホストをつとめる連載対談があり、ゲストに横山やすしが来たときにあのたけしでさえ相当にびびっていたという内幕話を録音テープから原稿を作成するためその場に同席していた荒川洋治がエッセイに書いていたのを読んだ覚えがある。荒川洋治は「アサ芸」でソープランド探訪(むろん体験だ!)ルポのような連載もやっていて、フリーランスの詩人というのもなかなか大変だなあと傍目に思っ

    毒舌と老嬢――『目白雑録3』を読む - qfwfqの水に流して Una pietra sopra
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