ウクライナ軍の電撃的な越境攻撃により、戦禍はますます拡大した。終わりの見えない戦争に、現場の兵士たちは何を思うのか。激戦地で戦う日本人義勇兵が、ロシア側から見た「現実」を明かす。 【写真】うわっ…!手りゅう弾の破片が、まさか金子氏の顔に…! 「現在、私はウクライナ東部の激戦地で戦闘に参加しています。現地の日照時間は長く、朝3時頃から夜9時頃まで明るい。日中の気温は38度にもなるため、蝿や蚊が大量発生して補給のパンにウジがわき、その部分をナイフで切り取って食べています。 戦火により周囲の民家は廃墟と化し、草木もほとんど生えない。そんな茶色い世界に我々ロシア軍とウクライナ軍は塹壕を築き、300mほどを隔てて向かい合っている。いつ攻撃が来るかわからないので熟睡はできず、1時間ごとに無線で安否と状況の報告をすることも義務付けられている。戦地から出て休息できるのは月に一度で、それも1日だけ。そのとき
辻は他地域と違うメイミョウの空気を目の当たりにし、空気の一新を決意したという。辻の記述は引用に注意が必要だが、この記述の初出は1950年でメイミョウの異様さを指摘するものとしては最古に属する。辻以外にもメイミョウの浮ついた空気を指摘する記述は多く、またそれに辻が不満を公言していたのも、同時期の軍人の記述で確認できる。 慰安婦調達の作戦は電光石火だった こうしたメイミョウの空気を醸成した第15軍について、辻は「敵の反抗もないままに各兵団とも居住、慰安の設備に貴重な二年を空費したらしい」と手厳しい。実際、ビルマを制圧してからインパール作戦までの2年間で、牟田口中将が慰安施設の整備に他の司令官より注力していたことを窺わせる証言があった。 インパール作戦で行軍する日本兵 ©時事通信社 民間の慰安所経営者が慰安婦を連れてラングーン港に着くと、菊兵団(第18師団の通称。第15軍司令になる前の牟田口中将
前線の将兵の死闘の裏で、司令部は何をしていたのか このインパール5部作の中で批判的に言及されているのが牟田口廉也中将だ。第15軍司令官としてインパール作戦を主導したが、インパール作戦への否定的評価に加え、司令部のお膝元に料亭を建てて芸者を集めて遊興に浸った等、「愚将」との表現も残る彼のイメージは、高木の著作によるところも大きいとする意見もある。 こうした高木の著作における牟田口中将の特異なエピソードや個性について、後年になって高木による創作か誇張ではないかという意見も出ていた。高木の記述には出典が明示されていないことも多いためだ。しかし、高木の著作における牟田口中将や彼が率いた第15軍の醜聞は出典を確認できるものも多い。 また、牟田口中将の連隊長時代に副官を務めた河野又四郎が、戦後に高木の著作を読んで手紙(立命館大学国際平和ミュージアム所蔵)を書いている。 筆者がその手紙を確認したところ「
「地には平和を」は、小松左京が、1960年、早川書房の「SFマガジン」における「第一回空想科学小説コンテスト(後のSFコンテスト)」の募集を見て、3日で書きあげたものです。 結局、選外努力賞に終わりましたが、この作品がきっかけでSF作家としてデビューし、「地には平和を」も直木賞候補となりました。 小松左京は、戦時中、軍国主義のスパルタ教育の旧制中学で日々ビンタの洗礼を受け、食べ盛りなのに食糧の配給もままならず、神戸空襲では自宅に焼夷弾が落ちるなど、辛い日々を過ごしており、一億総玉砕をうたう本土決戦も現実になりつつありました。 「地には平和を」書いた時の気持ちを次のように述べています。 その時に思ったのは、「自分の戦争」というやつに落とし前をつけておこうということね。ほんの一足ちがいで実際の戦争には行かなかったけど、次は自分たちだと身構えていた。 つい上の世代はどんどん特攻隊で行っちゃうし。
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