えー、懲りもせずに皇位継承話。「紀子さま男児出産説」ネタのエントリをめぐっていて、以下のエントリのタイトルに脊髄反射w 法は何のためにあるのか,何処から生じたのかをよく考えれば,上記のような枝葉末節に拘ることが事の本質をはぐらかすための手段であることが分かる.一国の憲法はその国の古来から育まれてきた伝統や不文の規範から生じたものだ.そして日本の場合,その伝統や文化,規範が皇統とは切っても切れない関係にあることは誰も否定しないであろう.ゆえに法理論から云っても,天皇の伝統的正統性は法的正統性に勝るものと考えても良い. まず、「一国の憲法はその国の古来から育まれてきた伝統や不文の規範から生じたものだ」説。ダウト。 憲法というのは世界史をちゃんと勉強していれば判るはずなのだが、そもそも「被支配者が支配者を縛る為の契約」だ。もちろん伝統や不文の規範も影響を与えはするが、別に依拠する訳ではない。 た
いろいろなところで「管理」への要請が強くなってきているのが感じられます。しかし一方で「管理」という言葉には、自由を阻害するものとしての否定的な意味合いがあるのも確かです。様々な角度から「管理」をとらえたときに何が見えてくるのか――各界気鋭の研究者の方々にご寄稿いただきます。 酒井隆史 さかい・たかし − 1965年熊本県生まれ。早稲田大学大学院文学研究科博士課程満期退学。早稲田大学非常勤講師等を経て、現在は大阪女子大学専任講師。専攻は社会学、社会思想史。 著書に『自由論‐現在性の系譜学』『暴力の哲学』、共著に『音の力』、共訳書に『〈帝国〉』『否定的なもののもとへの残留』など。 ポスト・イデオロギー社会という言葉があります。この言葉には一定の正しさがあります。たしかに、「イデオロギー社会は終わりつつある」、といっても、それは、よくいわれるような東西冷戦が終わったとか、社会主義の理念が失効
リリース、障害情報などのサービスのお知らせ
最新の人気エントリーの配信
j次のブックマーク
k前のブックマーク
lあとで読む
eコメント一覧を開く
oページを開く