2012年12月16日のブックマーク (3件)

  • 政治と「社会」 – sociologbook

    生まれて初めて当に戦争になるんじゃないかと思っている。 たぶん次の戦争は国民を総動員するような全面戦争にはならないだろう。国民全員の精神や身体を管理しなくても、一部の「戦争装置」によって、一般の市民にリアリティが伝わらない方法でひっそりとおこなわれるにちがいない。 それはたぶんはじめに「被害者面した絶対的な正しさ」を押し付けてくる。いま領土を守らなかったらこの国がやられる。いま先手を打って攻めていかないと平和が守れない。おそらくそんなふうに、反論しにくいようなロジックで、感情に訴えかけるやりかたで。 いますぐではないかもしれないが、数年のうちには憲法も改悪されてしまうだろう。人権に関する条文は大幅に後退し、かわりに国家があらゆる権力を掌握してしまうだろう。 だが、国民の精神や身体をまるごと抱え込んで統制するのではなく、国民を分断することによって、よりスムーズに戦争は遂行されていくだろう。

    nessko
    nessko 2012/12/16
    リベラルはまず民主党をプッシュした自分たちの眼鏡違いを認めて反省しないとだめよ。菅直人に関しては巷の女の「顔が嫌い!」のほうが正しかったじゃないの。
  • 四国新聞社

    nessko
    nessko 2012/12/16
  • 文学理論 - jun-jun1965の日記

    呉智英さんの『吉隆明という共同幻想』を読んでいて、『言語にとって美とはなにか』が『言語美』と略されることを初めて知った。かつて蓮實先生が、一冊の書物であることの必然性が疑わしかった、と言ったが、私も同感ながら、今ではもちろん、全然存在価値を認めていない。 さて呉さんは、これが、プロレタリア文学理論に抵抗して、それとは違う文学理論を打ち立てようとしたものだと縷々解説しているのだが、読んでいる最中に頭がぼうっとなって、というのは、まあたとえて言えば宗教団体の中における、外部の人間にはまったくどうでもいい路線対立の内容を解説されているような気がしたからである。 いったい、「文学理論」というものは、大別して二種類ある。これまで、ないしこれから小説や詩の実作を世に出すぞ、というある傾向を持った人々が、その理論的支柱として出すもので、これは演劇にもある。唐十郎の『特権的肉体論』とか、平田オリザの『都

    文学理論 - jun-jun1965の日記
    nessko
    nessko 2012/12/16
    吉本隆明『言語にとって美とはなにか』 笙野頼子が批判してたね。/呉智英語法による「ベクトル」はたしかに謎だな。ベクトルが強くないって、吉本ほどきっかりと方向性が定まっていないとでも言いたいのだろうか?