(戻る) 身分問題から見た「歌舞伎十八番」 その2:「助六」 1)「勝扇子」裁判 宝永5年(1707)というのは、前年11月に富士山が爆発するという穏やからなぬ世相の年でした。この年、小林新助という京都の絡繰師(「からくりし」、糸でからくり人形を動かす芸人)が江戸に興行にやってきました。その新助が安房の国で旅芝居をすることになりましたが、舞台の準備をしているところへ江戸の弾左衛門の手代、革買い治兵衛という者が現れ、関八州での興行は弾左衛門の許しがなくてはならぬと言って、配下三百人を使って芝居小屋を襲い、芝居がつぶされてしまったのです。新助はすぐさま江戸へ戻り、このことを奉行所に訴えました。 江戸では江戸四座は幕府の許可をもらって興業を行っており櫓銭(興行税)を払う必要はありませんでした。しかしそれ以外の興行、特に旅芝居においては弾左衛門の支配を受けることになっていました。これより