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ブックマーク / chez-nous.typepad.jp (3)

  • アートにおける政治的なもの

    アートにおける「政治的なもの」には、2つのレベルがある。 ひとつは、作品が特定の政治的立場を表明していたり、ある政治的メッセージを明示的に伝えているというようなレベルである。多くの場合作品が「政治的」と呼ばれるのはこのレベルにおいてである。そのメッセージは現政権への批判、マイノリティーの権利主張、社会的暴力の告発、反グローバリズム、エコロジー、フェミニズム等々さまざまであるが、それらのいくつかを組み合わせたり、そこに作家の個人的体験を織り込んだりしていくらでも複雑化することができ、それによって単純な政治的発話ではないもの、つまり「アート作品」らしいものにすることができる。 こうしたレベルの「政治的なもの」は、いわば社交のために必要なのである。それはちょうど、たくさんの人々が集まるパーティのような場所でお互いにおしゃべりをするためには、その人の所属や肩書きが必要なのと同じことだ。もちろん所属

    nisemono_san
    nisemono_san 2019/08/15
    “脱政治的なみかけを共有することによる独特の「社交」”
  • 「黒人は詩を創れない」

    18世紀(欧米・日ともに)について、若い頃とは違った仕方でよく考えるようになったのだが、それは200年以上前のことに歴史的興味があるからではなくて、むしろ18世紀の人々から見て、私たちが生きているこの現代はどんな風に見えるのだろうか? と想像してしまうためである。二つの時代の間には大きな断層があるとも思えるし、意外なところで繋がっていると思ったりもする。 たとえば芸術に関する考え方において、18世紀の欧米と今とでは、どこが大きく違うだろうか? いくらでも現象面での違いをあげることは可能だけれども、案外見過ごされているひとつの重要な違いは、かつては芸術創造が「白人の優位性」を示すためによく引き合いに出されていたということである。 このところ、トランプ大統領が人種差別主義者だということが問題にされている。それはもう、確信犯的にその通りだと思うけれども、それでは歴代の(オバマ以外の)アメリカ

  • アートと戦略とは同じではない

    アートは一見無力にみえるけれども、そしてこの世の実効的な力としては実際無力なのだけれども、まさにその無力さのゆえに、何らかの闘争の道具として用いられることも、稀ではない。それは、今に始まった事ではない。 アートは、真理――というと身構える人もいるが、そんな深遠なことを言おうとしているのではなくて、ようするにこの世の相対的な価値基準、現在たまたま通用している常識や政治的配慮の影響から離れた、何か絶対的なもの――に直感的に呼びかけるために、現世的な力を諦めることである。だからアートが「力」を持つとしても、それは政治的な力とは別種の力能である。 だがまさにそうした、政治的な相対的力を越えた質を持つがゆえに、アートには政治的な利用価値が発生する。だからアートは、この世の出来事であるかぎり、必然的に政治に巻き込まれる。これを避けることはできないし、避けられると思うのは幻想である(つまり「非政治的なア

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