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ブックマーク / meltylove.hatenadiary.com (7)

  • だからが好きだ - 世界は称賛に値する

    論理ってやつがとても好きだ。ロジックにぞっこんなんだ、なんてことすら言える。前提条件をすっきりした形で綺麗にわかりやすく置いていて、そこから、軽やかに速やかに流れるように筋を通している、という文章を見たりすると、はっきり言ってぞくぞくするのだ。終幕直前にやってくる『だから』に快感を覚えてしまうのである。つまり私は『だから』が好きなんだな、なんて思ったりもした。だから――前提の設置を明らかにすっ飛ばしているのに、だから何々なんですよ、なんて当然のように断言している文章を見たりすると、畜生手抜きしやがって、という不満を感じてしまったりもするのだった。あんまり『だから』をなめんなよな、とか思ってしまうのである。無様な『だから』を使ってしまうことで『だから』の輝きを貶めるのはやめて欲しいなあ、とか思ってしまうのだ。

    だからが好きだ - 世界は称賛に値する
  • 好きなものに変換していく道、で、戦ってきたものたち - 世界は称賛に値する

    おもしろいもの。素晴らしいもの。楽しいもの。素敵なもの。美しいもの。輝かしいもの。わくわくするもの。心躍るもの――なんにせよ、好きなもの。おそらく表現の問題ではないんだろうな、と思う。どう言いたくなるにせよ、とにかく、こちらのほうが良いんだろうな、と感じられるもの――こちらを選んだほうが良くなるはずだ、と信じられるもの。こちら側に属するものを増やしていくこと、が、人生を『より良いもの』にしていくこと、に繋がるんじゃないかな、と、現状では想像している。だから、いかにすれば『良いという領域に属する気持ち』をたくさん感じることができるようになるんだろうか、というのが当面の課題だ、と認識していたりもする。頻繁に考えてしまう、わけだ。すでにいくつかの関門を突破してきた、と思う。最初に、嫌いなものを好きなものに意識下で変換することなんて人間にできるんだろうか、という関門があった。第一の関門。第一の関門

    好きなものに変換していく道、で、戦ってきたものたち - 世界は称賛に値する
  • 違和感はなかった。彼の決意は理解できたからだ(幻想水滸伝) - 世界は称賛に値する

    物語の核心部分に触れていると思う。と注意書きしておこう。幻想水滸伝3の敵の話である。彼は未来が絶望に包まれていることを知ってしまった。絶望を『体験』させられてしまった。だから、絶望を呼び起こすものを破壊しようと決意した、のだと思う。決意せざるを得なかった、のだとすら思う。たとえそれが世界を混乱に陥れることになってしまうのだとしても――もしもそれが仲間を不幸に突き落とすことになってしまうのだとしても、世界が破滅してしまうよりは『良い』と考えたのだろう。たぶん『世界が好きだったから』だ。たぶん『仲間が好きだったから』だ。世界の絶望を予見させられてしまったときに、この破滅を止めなくては、と彼に思わせたもの――それはおそらく、かつての仲間の存在だったのだろう、と私は感じたのである。だからこそ許せたのかもしれない。だからこそ納得できたのかもしれない。同じように私もまた彼のことを仲間だと思っていたから

    違和感はなかった。彼の決意は理解できたからだ(幻想水滸伝) - 世界は称賛に値する
  • これが俺だ - 世界は称賛に値する

    悪い。俺が惰弱なせいでお前に迷惑をかけたな。もう大丈夫だ。なんてことを考えていた。考えられるようになっていた。ほぼ完全に復調した、と言っていいだろう。一時的な回復ではもうない、と断言できる感触が感じられた。堂々巡りしてしまうような憂に染まってしまっているとき、いつしか湧き出してくるのは『怒り』のような感情で、おんなじことばっかりぐるぐる考えやがってオマエは結局のところ何がしたいんだあっ、なんて思ってしまうのである。思ってしまったのである。面倒くさくなって最後は逆切れで憂を断ち切った、なんて表現してもいい。地道な駆逐活動によって拘束を脆くすることができていたおかげなんだろうな、と想像している。出勤時刻は午後4時。退勤時刻は午前1時。通常通りの勤務だった。問題もほとんど無かった。強いて問題点を挙げるなら、私の選択に『怠惰』が垣間見えるように思えたこと、が挙げられるだろうか。もし持続するよう

    これが俺だ - 世界は称賛に値する
  • 言い訳ばかり聞かされていたのかもしれない - 世界は称賛に値する

    改めて考えると結構虚言を信じてしまっていたんだよな、と気づく。子どもの頃の私はあっさり騙されていたなあ、ということについて改めて考えてみたのだった。一体何に騙されていたのか。こんなのは不可能だ、とか、こういうのは駄目だ、とか、を語る言葉にだ。騙されてしまうくらいそういった論調の言葉がたくさんあった、ということなのだろう、と思う。しかし、実際に自分の手で試してみたら、大抵のものは、決して不可能でも駄目でもなかった。という経験もまたたくさん積むことができた。だからこそ、人の言葉がすべて信用に値するわけではない、ということを学ぶことができたのだ。簡単に言うなら、話を聞いて想像していた世界は『狭くてくだらないものばっかりの世界』だったのだけど、実際に自分で行動して自分の眼で観察するようになってみたら『死ぬほど広大で素敵なもののたくさん転がっている世界』が広がっていた、ということだ。諦観混じりのつま

    言い訳ばかり聞かされていたのかもしれない - 世界は称賛に値する
  • 間違ってないからといってそれが最善策とは限らない - 世界は称賛に値する

    極論すると『自分が良ければいいじゃないか。まわりのことなんて気にすんな。自分が間違ってるわけじゃないんだし、好きに行こうぜ』と言っているだけの説得が、思いのほかたくさんあるなあ、ということに気がついた。あなたは別に間違っていない、という言葉は、おおむね嬉しく感じられてしまうものだ。だから、その『まわりのことなんて気にしなくていいんだ』という言葉に思わず納得させられてしまうことも多い。しかし、当にそれでいいのかな、とふと思ったのだった。だからそれでいいんだ、と思ってしまえるほどきちんとした説得ではないのではないか、と思ってしまったのである。単に『まわりを見ることを放棄してしまって「俺は間違ってないからこれでいいんだ」なんていう安易な安全圏に逃げ込んでいるだけ』なのではないか、と思えたからだ。たとえおのれの選択したその選択肢が『間違っていない』のだとしても、もっと良い正解がどこかにはあったり

    間違ってないからといってそれが最善策とは限らない - 世界は称賛に値する
  • あなたたちがいてくれるから - 世界は称賛に値する

    起床後はインターネットに興じていた。尊敬できるかどうか、とか、素敵な人物だと思えるかどうか、という観点で新しいサイトを探すようになったからだろう。最近は敬愛的な思いを覚えられる人が増えてきたな、と思う。言い換えれば、この人を乗り越えるくらいのものになってみせるぜ、と思わず考えてしまうほど素敵な人が増えてきた、というわけだ。敬意に値する人物に対する『あなたを尊敬しています』という気持ちは、結局のところ『では私もそれくらい尊敬される人間になってみせよう』というような形で示すしかないのではないか、と思っているからだ。あなたを尊敬している、なんて言いながら、だけど自分はそれになろうとは思わないけどね、なんて言ってしまうのならば、結局その気持ちは尊敬などではないのではないか、と思っているからだ。年下にも同年代にも年上にも『敬愛』を感じられる人たちがいて、はっきり言って物凄く励みになっている。かなりの

    あなたたちがいてくれるから - 世界は称賛に値する
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