八幡堀(近江八幡市)。田中吉政が秀次の家老を務めていた時代に作られたもの 天正10年(1582年)ごろ、宮部家中から5,000石を与えられ、秀吉の甥の羽柴秀次(のちの豊臣秀次)の宿老となった[注釈 1]。 天正13年(1585年)に秀次が近江八幡43万石を与えられると、吉政はその筆頭家老格となった。このとき、同じく秀次付き家老格となった中村一氏・堀尾吉晴・山内一豊・一柳直末らはそれぞれ居城を持ったが、吉政は秀次の居城・八幡山城にあって、関白殿一老として政務を取りしきった。 天正14年(1586年)、大政所の三河国下向にかかわったという記述がある。 この時代の吉政の書状は、比較的多く残っている。織田信長が築いた安土城下の町を八幡城下に移し、町割を行った。江戸時代中ごろまでは、久兵衛町と名づけられた地域が、近江八幡の町の一画に残っていた。 天正18年(1590年)、豊臣秀吉は関東の北条氏を制圧