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2012年5月11日のブックマーク (103件)

  • デンソー - Wikipedia

    株式会社デンソー(英: DENSO CORPORATION[6])は、愛知県刈谷市を拠に置く自動車部品メーカーである。2009年(平成21年)以来、自動車部品業界では国内最大手である[7]。TOPIX Large70構成銘柄の一つである。かつては、TOPIX Core30の構成銘柄の一つでもあった。 前身はトヨタ自動車の開発部門であり、現在もトヨタグループに属している。36カ国に拠点を置き、従業員数は約17万人、売上高は2023年(令和5年)3月時点で6兆4000億円である。自動車部品業界では、独ボッシュに次いで世界第2位、日では1位である。 1949年(昭和24年)に日電装株式会社(にっぽんでんそうかぶしきがいしゃ)として創業以来、トヨタ自動車を中心に自動車用電装部品を拡販し、現在では世界の主要なカーメーカーに幅広い製品を供給するメガサプライヤーである。主な製品は自動車の熱機器関連

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  • ミスタードーナツ - Wikipedia

    ロゴは、アメリカの創業者のハリー・ウィノカーがボウタイをした髭をはやしたコック姿を特徴的に図案化したものである。色は主に、オレンジと白が使われる。サブカラーとして茶色が使用される場合がある。店舗により、ボウタイとドーナツ(円)を組み合わせた上記ロゴを更に抽象化したものを用いている場合もある。 ミスタードーナツ事業部ビル(大阪府吹田市、江坂芳野町ショップを併設) 箕面ショップ(ショップNo.0001) ミスタードーナツの商品の例 メニューの例(ドーナツ・ドリンク・飲茶) 「ミスドゴハン」で追加されたパスタメニュー(カルボナーラ) 日国内の店舗は、ドーナツを主力商品とするが、それ以外のさまざまな品も扱うファストフード店として知られる。全店舗のうち直営店は少数で、大半の店舗がフランチャイズ店として運営される。 日国内における運営会社は、大阪府吹田市豊津町に社を置くダスキンであるが、ミス

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  • 日本ケンタッキー・フライド・チキン - Wikipedia

    1970年(昭和45年) 3月 - 日万国博覧会にてケンタッキーフライドチキンの実験店舗を出店[12]。 7月4日 - Kentucky Fried Chicken Corporation及び三菱商事株式会社の折半出資により、東京都渋谷区にて日ケンタッキー・フライド・チキン株式会社(初代法人)として設立[13]。中村基孝が代表取締役社長に就任[5]。 11月21日 - 1号店として、愛知県名古屋市西区のダイヤモンドシティ・名西ショッピングセンター内にケンタッキーフライドチキン名西店が開店[5]。 11月27日 - 2号店として、大阪大阪市東住吉区(現・平野区)のダイヤモンドシティ・東住吉ショッピングセンター内に日万国博覧会で使用された店舗を移築し、ケンタッキーフライドチキン東住吉店が開店[5]。 1971年(昭和46年) 2月 - 東京都千代田区に社を移転[13]。 9月 - フ

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  • 日本マクドナルドホールディングス - Wikipedia

    マクドナルドホールディングス株式会社 Mcdonald's Holdings Company (Japan), Ltd.

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  • 住友倉庫 - Wikipedia

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  • 三菱倉庫 - Wikipedia

    三菱倉庫旧社(江戸橋倉庫ビル) 三菱倉庫株式会社(みつびしそうこ、英: Mitsubishi Logistics Corporation)は、東京都中央区日橋に社を置く、物流を主な事業とする企業。三菱グループに属しており、三菱金曜会と三菱広報委員会に加盟している[2][3]。日経平均株価の構成銘柄の一つ[4]。 三菱倉庫の前身である東京倉庫が1887年(明治20年)に創設されてから、1918年(大正7年)に今の「三菱倉庫」への社名変更を経て、2007年(平成19年)で創設120周年を迎えた。 三菱財閥の中では、日郵船、三菱商事、三菱重工、三菱UFJ銀行に次いで創設された伝統と歴史のある企業である。 1930年(昭和5年)に竣工し店があった江戸橋倉庫ビルは、船体を連想させる特徴的な外観を持ち、表現派風建築の代表的作品として東京都選定歴史的建造物の選定を受けている。店は同ビルの建て

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  • 三井倉庫ホールディングス - Wikipedia

    三井倉庫ホールディングス株式会社(みついそうこホールディングス、英: MITSUI−SOKO HOLDINGS Co.,Ltd.)は、東京都港区に社を置く三井グループに属する物流持株会社である。JPX日経インデックス400およびJPX日経中小型株指数の構成銘柄の一つ[2]。 1909年創業の三井グループの物流企業。倉庫事業、港湾運送事業、国際輸送などの物流事業のほか、都市部の所有地を活用した不動産賃貸事業をおこなっている。近年はBPOや3PLも展開。国内24都道府県、世界20カ国30海外現地法人のネットワークを持つ。二木会[3]・月曜会・三井広報委員会[4]・三井業際研究所[5]・綱町三井倶楽部[6]の会員会社であり、三井文庫の賛助会社でもある[7]。 ビジョン「物流から価値を。」ミッション「革新と安心をユニバーサルに提供すること。」 1909年(明治42年)10月11日 - 三井銀行倉

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  • 三井住友海上火災保険 - Wikipedia

    三井住友海上火災保険株式会社(みついすみともかいじょうかさいほけん、英: Mitsui Sumitomo Insurance Company, Limited[1])は、東京都千代田区に社を置く、日の損害保険会社。MS&ADインシュアランスグループ傘下の完全子会社である。 業界3位を争う[注釈 1]三井海上火災保険・住友海上火災保険は、それぞれのメインバンクであるさくら銀行[注釈 2](三井グループ)と住友銀行(住友グループ)が合併して三井住友銀行が誕生したことから、三井海上火災保険株式会社を存続会社として合併した(「三井住友」も参照)。ただし、三井住友フィナンシャルグループ(SMFG)や三井住友銀行(SMBC)とは資関係はない。社所在地の社は東京都中央区新川の旧住友海上社に設置し、2013年10月に神田駿河台の旧三井海上社ビルを改築するとともにビル1棟を新築し、旧住友海上

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  • セガサミーホールディングス - Wikipedia

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  • 三共 (パチンコ) - Wikipedia

    株式会社三共(さんきょう、英: SANKYO CO., LTD. )は、東京都渋谷区に社を置く、日のパチンコメーカー。 パチンコ機業界では最大手の規模を持つ。コーポレート・スローガンは、「パチンコで、いい笑顔。Good luck. Good life.」。 毒島邦雄が平和工業(後の平和)の常務を退任後、1966年4月に名古屋で設立した中央製作所が興り。1981年4月に群馬県桐生市へ社を移転したのち、2008年8月に現在地である東京都渋谷区に社を移転した。 株式を公開しており、1995年に東京証券取引所第2部上場、1997年には1部に指定替えされた。 パチンコ機メーカーとしては大手であり、1997年には他社と共同で運用していたパチンコのパテント(特許)プール機関をめぐり、公正取引委員会によって私的独占にあたるとして審決を下されたことがある。 2004年11月、確変割合の上限が撤廃され

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  • 平和 (パチンコ) - Wikipedia

    株式会社平和(へいわ、英: Heiwa Corporation)は、東京都台東区に社を置くパチンコ・パチスロメーカーである。 東京証券取引所プライム市場上場。系列会社にパチスロメーカーのオリンピアがある。 中島健吉(朝鮮清州生まれ。1937年16歳で来日し[1]、戦後日国籍取得)が拓殖大学卒業後、1949年に群馬県桐生市で「平和商会」の名前でパチンコ機の製造販売をはじめるが、連発式パチンコの禁止令に端を発する業界の不況の影響を受け、1955年に約9000万円の負債を抱え倒産した[2]。 翌1956年に「平和物産」(販売部門)・「コミック商会」(製造部門)の2社を設立して復帰。1960年に両社を統合して「東和工業株式会社」[注 2] を設立。1988年8月8日にパチンコ・パチスロメーカー初の株式店頭公開、さらに1991年12月6日には東京証券取引所第二部に上場[3]。そして1997年6月

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  • 富士通ゼネラル - Wikipedia

    株式会社富士通ゼネラル(ふじつうゼネラル、英: FUJITSU GENERAL LIMITED)は、神奈川県川崎市高津区に社を置く、富士通グループの電機メーカー。 東証プライムに上場している。古河三水会会員会社。 旧来はブラウン管テレビ(1995年頃に撤退)を主力製品としたが、現在は売上額の8割以上をエア・コンディショナーや脱臭機など冷暖房、空調機器が占める。空調機器の連結売上高のうち、約8割をルームエアコンのシェアが高いヨーロッパ、中東、オーストラリア各国など日国外で売り上げる他、市町村防災、消防救急など各種ソリューションも取り扱う。 1963年、ホームシアターを商標登録するが、1999年に無償開放する。 1993年、プラズマディスプレイを「プラズマビジョン」として21インチサイズで世界で初めて商品化する。 1997年11月、42インチワイドタイプ16:9画面プラズマテレビプラズマデ

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  • キヤリア (空調設備メーカー) - Wikipedia

    キヤリア・グローバル・コーポレーション(英語: Carrier Global Corporation)は、アメリカ合衆国の電機メーカーである。 エア・コンディショナーや冷凍庫の製造を行っており、空調機器においては世界有数のシェアを持っている。かつては複合企業であるユナイテッド・テクノロジーズ(現レイセオン・テクノロジーズ)の一部門であった。 社名は創業者で近代エア・コンディショナーの発明者とされるウィリス・キャリアに由来するが、日法人の表記は拗音になる「ヤ」の字が大きい「キヤリア」である(同様の例にキヤノンやキユーピー、オンキヨーなどがある)。 現在、社はコネチカット州ファミングトンにある。また、テキサス州タイラーの工場では家庭用のパッケージ・ユニットと商業用のコンデンシング・ユニット、ノースカロライナ州シャルロットの工場では付属品や付属機器を、インディアナ州インディアナポリスの工場で

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  • コーセー - Wikipedia

    正しきことに従う心 創業者である小林孝三郎の座右の銘。これは創業以来の企業精神の根幹であり、コーセーグループのコンプライアンス経営の要と位置づけられている。 日の化粧品大手。創業当初から美容部員により店舗での対面販売形式をとり、現在では多様な販売チャンネルを通じて展開する日の大手化粧メーカー。1960年代後半より中国、香港、韓国などのアジア市場への参入を積極的に進めている。 当初は「KOSEI」というブランド名で事業を展開していた。1991年に改称され「KOSE」と表記したが、英語圏で「コウズ」と読まれてしまうのではないかと危惧したため、「KOSÉ」(Eのところにアクセントをつける)と表記を改めた。この小林コーセーの時代から使われてきたコーセーの社名・ブランド名は、前身の小林合名会社を創業した小林孝三郎の「孝」と、誠実の「誠」から取ったものとされる[2]。 製品面では、化粧業界初の美容

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  • ミサワホーム - Wikipedia

    ミサワホーム株式会社(MISAWA HOMES CO., LTD.)は、住宅の設計・製造・販売・施工を行っている日のハウスメーカー・不動産会社である。創業者は三澤千代治。上場銘柄としての略称は、ミサワホームホールディングス時代の同略称を継承し、ローマ字表記の「MISAWA」となっている(旧ミサワホーム時代は「ミサワ」)。 2015年1月には、約10年ぶりに自社ブランドによるマンション分譲に再参入することが明らかとなり、2020年までに首都圏を軸に10棟前後を建設した上で、戸建て依存の経営から脱却を図りたいとしている[1]。 みどり会の会員企業であり三和グループに属している[2]。 概要[編集] 1967年に創業した住宅メーカーで、創業時から独自の木質パネル接着工法による工業化住宅を主に供給しており、2020年代からは戸建住宅や集合住宅などを建設する新築請負事業のほかにストック事業、まちづ

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  • シティグループ・ジャパン・ホールディングス - Wikipedia

    当初、シティバンク銀行の設立ないしは開業と同時期に設立が予定されていたが、日興コーディアルグループの不祥事などの関係で「シティグループ・ジャパン・ホールディングス有限会社」として設立されることになった。現在は、米国のシティが所有していた日興株を譲受され、シティバンク銀行だけでなく、日国内全体のシティグループの統括会社として、合同会社に転換している。 2008年5月1日、子会社となった株式会社日興コーディアルグループを吸収合併し、シティグループ・ジャパン・ホールディングス株式会社から日興シティホールディングス株式会社に商号変更した。2009年10月1日に、日における証券事業を三井住友フィナンシャルグループに売却したことに伴い、シティグループ・ジャパン・ホールディングス株式会社に商号を再び変更した。 1991年7月2日、法人設立[2]。 2007年 8月6日、シティグループ・インクから、株

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  • 野村ホールディングス - Wikipedia

    野村ホールディングス株式会社(のむらホールディングス、英: Nomura Holdings, Inc.)は、東京都中央区日橋に社を置く野村グループの金融持株会社である。 日最大手の証券会社である野村證券などを子会社に持つ野村グループの中核企業である。 キャッチコピーは「Basic & Dynamic」。 東証プライム市場およびニューヨーク証券取引所(NYSE)上場企業であり、日経平均株価およびTOPIX Large70の構成銘柄の一つ[3][4]。みどり会の会員企業であり三和グループに属している[注釈 1][6]。 1925年(大正14年)12月25日 - 株式会社大阪野村銀行(後の大和銀行、現りそな銀行)の証券部から分離して設立。 1946年(昭和21年)12月 - 店を東京都に移転。 1961年(昭和36年)10月 - 東京証券取引所・大阪証券取引所・名古屋証券取引所に上場。

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  • 福岡銀行 - Wikipedia

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  • 静岡銀行 - Wikipedia

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  • 横浜銀行 - Wikipedia

    CI更新店舗の一例(寒川支店) 店舗の一例(菊名支店) 生糸貿易の名残で群馬県にも支店を持つ(桐生支店 株式会社横浜銀行(よこはまぎんこう、英: The Bank of Yokohama, Ltd.)は、神奈川県横浜市西区みなとみらいに店を置く、コンコルディア・フィナンシャルグループ傘下の地方銀行である。 神奈川県及び東京都町田市を主な営業エリアとする、日最大の地方銀行である。長らく総資産額で地方銀行の首位の座にある。 神奈川県および同県内の横浜市、川崎市、相模原市、横須賀市をはじめ多くの市町村の指定金融機関である[注 1]。また県西部の市町村においてはスルガ銀行や当地を地盤とする信用金庫との輪番制で受託している。 横浜市内や川崎市内に店舗が非常に多く、東京都では23区内や町田市など神奈川県に隣接する地域でも店舗数は比較的多い。また町田市においてはきらぼし銀行と輪番で指定金融機関を受託

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  • ローソン - Wikipedia

    1974年(昭和49年)時期不詳 - ダイエーが米国のコンソリデーテッドフーズ社とコンサルティング契約締結。 1975年(昭和50年) 4月15日 - ダイエーの100%子会社として、ダイエーローソン株式会社を設立。 6月14日 - ローソン1号店「桜塚店」(大阪府豊中市)が開店。 9月30日 - 豊中市内にフランチャイズ1号店「桃山店」開店。 1976年(昭和51年) 8月 - 埼玉県川口市に上青木店を開店し、関東地方へ出店開始。 10月 - 株式会社TVBサンチェーン設立(資金2000万円)。 11月26日 - サンチェーンが東京都内に駒込店、町屋店、富士見台店[注釈 1] の3店同時に開店。 1977年(昭和52年)12月5日 - サンチェーンが大阪市に中店を開店し、関西へ出店開始。 1978年(昭和53年) 1月 - 第1次コンピュータシステム「SUNICS」導入。 7月20日

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  • 越後屋 - Wikipedia

    越後屋(えちごや) 日でしばしば見られる屋号・商号 三越創業時の屋号 南京糖で知られた菓子屋。南京糖#越後屋の南京糖を参照。 浅みどり昆布で知られた菓子屋兼昆布屋。 多摩地域でスーパーマーケットを運営する企業。カネマンを参照。 「時代劇の悪徳商人の代名詞」としてしばしば使われる。この場合、実在する企業とは基的には関係がない。 ペンネーム 越後屋 (小説家) - 大阪府在住の小説家。上記の「時代劇の悪徳商人の代名詞」が由来。 奥村越後屋 - ゲームプロデューサー奥村圭作の別名義。

  • 白木屋 (デパート) - Wikipedia

    歌川広重『名所江戸百景』より「日橋通一丁目略図」。 背景に白木屋が描かれている[1]。 明治時代の白木屋。 白木屋を株式会社に改組し、初代社長を務めた十代目大村彦太郎。 白木屋(しろきや)は、東京都中央区日橋1丁目に存在した江戸三大呉服店のひとつで[2]、かつ日の百貨店の先駆的存在のひとつである。 江戸時代創業だったが、昭和に入り、東急グループ傘下となった。1967年(昭和42年)に東急百貨店と合併し、商号・店名ともに「東急百貨店日橋店」へと改称した。その後、1999年(平成11年)1月31日に閉店[3]、336年の歴史に幕を閉じた。跡地にはコレド日橋が建設され、2004年(平成16年)3月30日に開業した[4]。 日国内では(法人は別として)商号は消滅したが、アメリカ合衆国ハワイ州ホノルルのアラモアナセンターでは、かつてのアラモアナ店が「シロキヤ・ホールディング・LLC」とし

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  • 蒲生君平 - Wikipedia

    蒲生君平(小堀鞆音画) 蒲生 君平(がもう くんぺい、明和5年〈1768年〉 - 文化10年7月5日〈1813年7月31日〉)は、江戸時代後期の儒学者。天皇陵を踏査して『山陵志』を著した尊王論者、海防論者としても知られる。同時代の仙台藩の林子平や上野国の郷士高山彦九郎と共に、「寛政の三奇人」の一人に数えられる(「奇」は「優れた」という意味)[1]。姓は、天明8年(17歳)に祖先が会津藩主蒲生氏郷であるという家伝(氏郷の子・蒲生帯刀正行が宇都宮から会津に転封の際、福田家の娘を身重のため宇都宮に残し、それから4代目が父の正栄という)に倣い改めた。君平は字で、諱は秀実、通称は伊三郎。号に修静庵。 生誕の地 下野国宇都宮新石町(栃木県宇都宮市小幡一丁目)の生まれ[2]。父は町人福田又右衛門正栄で、油屋と農業を営む[3]。祖母から祖先が立派な武士(蒲生氏郷)だと聞かされた[2]時「幼い胸は高鳴り感激

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  • 高山彦九郎 - Wikipedia

    高山 彦九郎(たかやま ひこくろう、延享4年5月8日(1747年6月15日)[1] - 寛政5年6月28日(1793年8月4日))は、江戸時代後期の武士、尊皇思想家。林子平・蒲生君平と共に、「寛政の三奇人」の一人(「奇」は「優れた」という意味)。諱は正之、字は仲縄、号は金山・赤城山人[2]、戒名は松陰以白居士。 父は高山彦八正教、母はしげ。兄は専蔵正晴。はしも、後にさき。子に義介ほか娘など。 多年にわたる日記を残しており、吉田松陰はじめ、幕末の志士と呼ばれる人々に多くの影響を与えた人物である。また、二宮尊徳や楠木正成と並んで戦前の修身教育で取り上げられた人物である。三島由紀夫が強い関心を持っていたことでも知られる(他には、葉隠・神風連・三輪神社・大乗仏教・密教・陽明学)[3]。 上野国新田郡細谷村(現群馬県太田市)の郷士高山彦八正教の二男として生まれる。先祖は平姓秩父氏族である高山氏出身

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  • 林子平 - Wikipedia

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  • 寛政の三奇人 - Wikipedia

    この記事は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。 出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。(このテンプレートの使い方) 出典検索?: "寛政の三奇人" – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL (2017年2月) 寛政の三奇人(かんせいのさんきじん)は、江戸時代の寛政期に活躍した、傑出した人物3人のこと。「奇」は「優れた」という意味であり、「奇妙な人物」という意味ではない。

  • 清水徳川家 - Wikipedia

    清水徳川家は江戸幕府9代将軍家重の次男重好を家祖とし、徳川将軍家に後嗣がないときは御三卿の他の2家とともに後嗣を出す資格を有した。ただし、清水家の出身で徳川将軍家を継いだ人物はいない(3代斉順の子家茂が14代将軍に就いているが、斉順が清水家を転出した後にもうけた子である)。家格は徳川御三家に次ぎ、石高は10万石。家名の由来となった屋敷地は、江戸城清水門内で田安邸の東、現在の北の丸公園・日武道館付近にあった。維新後は、元の下屋敷の一つであった甘泉園(東京都新宿区西早稲田)に邸宅を構えていた。なお、御三卿はいずれも独立した別個の「家」ではなく、「将軍家(徳川宗家)の家族」、いわば「部屋住み」として認識されていた。したがって、領地は幕府領から名目的に割かれているのみで支配のための藩は持たず、家臣団も少人数の出向者(主に旗、他に当主生家の家中など)で構成されていた。 清水家は実子のなかった初代

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  • 一橋徳川家 - Wikipedia

    一橋徳川家(ひとつばしとくがわけ)は、清和源氏新田氏支流と称する徳川宗家の分家にあたる武家・華族だった家。江戸時代中期に御三卿の一家として創設され、単に一橋家とも呼んだ。維新後一橋藩を維新立藩し、廃藩後華族の伯爵家に列せられた。 江戸城一橋門 江戸幕府8代将軍吉宗の四男宗尹を家祖とする[1]。宗尹は享保20年(1735年)の元服の際に非嫡流ながら徳川を姓とすることを許され[2]、元文2年(1737年)には合力米2万俵を与えられ、同5年に江戸城一橋門内に屋敷を拝領するとともに合力米1万俵を加増されて都合3万俵となった[1]。その屋敷は一橋屋形と称されたため「一橋家」とよばれるようになった[2]。 さらに延享3年(1746年)には兄(吉宗の次男)の田安徳川家初代当主宗武とともに播磨国・和泉国・甲斐国・武蔵国・下総国・下野国のうちに10万石の賄料を給された[1]。 田安徳川家、清水徳川家(9代将

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  • 田安徳川家 - Wikipedia

    田安徳川家(たやすとくがわけ)は、清和源氏新田氏支流と称する徳川宗家の分家にあたる武家・華族だった家。江戸時代中期に御三卿の一家として創設され、単に田安家とも呼ばれた。江戸期には独立した大名家ではなかったが、明治維新直後に田安藩を維新立藩し、廃藩後華族の伯爵家に列した[1]。 北の丸公園 旧江戸城(現・皇居)田安門 2009年7月13日撮影 江戸幕府第8代将軍吉宗の次男宗武を家祖とする。宗武は享保14年(1729年)に非嫡流ながら徳川姓を許され、合力米3万俵を与えられた[1]。享保16年には江戸城田安門内に屋敷を与えられ、これが田安屋形と称されたため「田安家」とよばれるようになった[2][1]。延享3年(1746年)には摂津国・和泉国・播磨国・甲斐国・武蔵国・下総国のうちに10万石の賄料を給され、それ以前の合力米は差し止めとなった[2]。 宗武の弟(吉宗四男)の宗尹を祖とする一橋徳川家、9

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  • 御三卿 - Wikipedia

    御三卿(ごさんきょう)は、江戸時代中期に創立した徳川将軍家の一門。三卿(さんきょう)とも。以下の3家が該当する。 田安徳川家(田安家) - 始祖は徳川宗武(第8代将軍徳川吉宗の次男) 一橋徳川家(一橋家) - 始祖は徳川宗尹(第8代将軍徳川吉宗の四男) 清水徳川家(清水家) - 始祖は徳川重好(第9代将軍徳川家重の次男) 御三卿は大名として藩を形成することはなく、実質的には将軍家の身内、いわば「部屋住み」として扱われる存在で、将軍家に後嗣がない際は後継者を提供したほか、御三家をはじめ他の大名家へも養子を提供する役割を果たした(後述)。御三卿は明治維新後に徳川宗家から独立した家となり、近代には華族となった。 御三卿は、江戸幕府第8代将軍徳川吉宗が、1731年(享保16年)に次男の宗武(田安家初代)へ、1740年(元文5年)に四男の宗尹(一橋家初代)へそれぞれ江戸城内に屋敷を与えたことに始まり

  • 偕楽園 - Wikipedia

    偕楽園(かいらくえん、英: Kairakuen Park[5])は、茨城県水戸市にある日庭園である。国の史跡及び名勝に指定されている(指定名称は「常磐公園」[6])。伝統的に、後楽園(岡山県岡山市)や兼六園(石川県金沢市)と並んで日三名園の一つに数えられている。 現在は隣接する千波湖周辺の拡張部を含めた広域公園の一部となっている[3]。文化庁認定日遺産“近世日教育遺産 ―学ぶ心・礼節の源―”のストーリーを構成する水戸市内の文化財の一つでもある[7][8]。 偕楽園には、拡張部を含めない園部分だけで100種3000の梅が植えられており、早春には観梅客でにぎわう[9]。園内には梅の異名「好文木」に由来する別荘好文亭[注釈 1] があるが、古代中国の晋の武帝が学問に親しむと花が開き、学問をやめると花が開かなかったという故事に基づいている。藩校「弘道館」は偕楽園と一対の施設であり、

    偕楽園 - Wikipedia
  • 後楽園 - Wikipedia

    後楽園から岡山城を望む 唯心山から沢の池を望む 後楽園(こうらくえん)は、岡山県岡山市北区後楽園にある日庭園(大名庭園)で、日三名園のひとつである。 江戸時代初期に岡山藩主・池田綱政によって造営された、元禄文化を代表する庭園で、国の特別名勝に指定されている。面積は14.4ha。 後楽園は岡山藩主・池田綱政が岡山郡代官・津田永忠に命じて造らせたもので、1687年(貞享4年)に着工し14年の歳月をかけ1700年(元禄13年)に完成した。岡山市内を流れる旭川をはさみ、岡山城の対岸の中州に位置する。藩主が賓客をもてなした建物・延養亭(えんようてい)を中心とした池泉回遊式の庭園で岡山城や周辺の山を借景としている。江戸時代には延養亭を茶屋屋敷、庭園を後園または御後園と呼んでいた。1871年(明治4年)、園内を一般開放するにあたって、これを後楽園と改めた。 同園は岡山県が所有管理するが、管理業務につ

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  • 兼六園 - Wikipedia

    17世紀中期、加賀藩によって金沢城の外郭に造営された「大名庭園」を起源とする江戸時代を代表する池泉回遊式庭園であり[2]、岡山市の後楽園と水戸市の偕楽園と並んで日三名園の1つに数えられる。2009年3月16日発売の『ミシュラン観光ガイド』では、最高評価の3つ星に選ばれた[3]。園名は、松平定信が『洛陽名園記』を引用し、宏大・幽邃・人力・蒼古・水泉・眺望の6つの景観を兼ね備えていることから命名した[2]。四季それぞれに趣が深く、季節ごとにさまざまな表情を見せるが、特に雪に備えて行われる雪吊は冬の風物詩となっている。県内でも随一の桜・梅・紅葉の名所でもあり、日さくら名所100選にも選ばれている。 金沢市の中心部に位置し、周辺には成巽閣、国立工芸館、石川県立美術館、金沢21世紀美術館、石川県政記念しいのき迎賓館を肇めとした文化施設(兼六園周辺文化の森)などの観光地があり、道路(百間堀通り)を

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  • 津観音 - Wikipedia

    津観音(つかんのん)は、三重県津市大門にある寺院。正式な寺号は恵日山観音寺大宝院(えにちざんかんのんじだいほういん)であり[1]、宗派は真言宗醍醐派の別格山。 尊は聖観音菩薩。浅草観音、大須観音と並んで日三大観音の一つとされる。大門地区は、同寺の門前町から繁華街として発展した。三重県では専修寺に次いで2番目に参拝者数の多い寺院であり、2013年(平成25年)には23万人が参拝した[2]。 尊の他に崇敬を集めてきたのが「国府 阿弥陀如来」と呼ばれる三尊像である。秘仏であるが、毎月18日などに開帳される[3]。江戸時代に江戸へ運んで出開帳を行ったことから広く知られるようになった。伊勢神宮の往復に立ち寄る参拝者が増え、「阿弥陀に詣(まい)らねば片参宮」と言われるようになった。寺でこの阿弥陀を天照大神の地仏と位置付けていたように、神仏習合を伝統としている。2012年には、観音寺を毘沙門天

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  • 大須観音 - Wikipedia

    かつての大須観音(『尾張名所図会.前編 巻1 愛智郡』より「大須 真福寺」) 大須観音(おおすかんのん)は、愛知県名古屋市中区大須にある真言宗智山派の別格山の寺院。山号は北野山。尊は聖観音。寺号は北野山真福寺宝生院である。宗教法人としての公称は「宝生院」(ほうしょういん)だが、一般には「大須観音」の名で知られる。日三大観音の1つともいわれる観音霊場。なごや七福神の一である布袋像を安置する。寺内に、『古事記』の最古写をはじめとする貴重書を多数蔵する「真福寺文庫」がある。 そもそもは建久年間(1190年 - 1199年)に建立された尾張国中島郡長庄大須(現・岐阜県羽島市桑原町大須)にあった中島観音が発祥であるという[1]。 元亨4年(1324年)に後醍醐天皇によりその地に北野天満宮が創建される。元弘3年(1333年)に同社の別当寺として僧能信が創建した真福寺とその塔頭宝生院が当寺の始ま

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  • 水戸徳川家 - Wikipedia

    水戸徳川家(みととくがわけ)もしくは水府徳川家(すいふとくがわけ)は、徳川将軍家の分家である御三家の一つ。単に水戸家、水府家ともいう。江戸時代には水戸藩主、維新後には華族の侯爵家に列し、のちに公爵家に陞爵した[1]。御三家の中で公爵に列したのはこの家のみである[2]。 歴史[編集] 江戸時代[編集] 家祖は江戸幕府初代征夷大将軍である徳川家康の末男頼房。水戸藩は東北諸藩の反乱に備えて北関東の拠点として作られた藩であり[3]、表高は当初25万石だったが、1622年(元和8年)に28万石、1701年(元禄14年)に36万石となった[4]。しかしその領地は常陸と東北地方の境だったので、耕地が少なく生産力も低かった[3]。 格式は御三家のひとつとして大廊下に詰め、屋形号を許されていた。官位では尾紀二家(尾張家・紀伊家)が大納言を極官としたのに対し、水戸家はそれよりも低い中納言を極官とした。参勤交代

    水戸徳川家 - Wikipedia
  • 紀州徳川家 - Wikipedia

    紀州徳川家(きしゅうとくがわけ)もしくは紀伊徳川家(きいとくがわけ)は、清和源氏新田氏の支流と称する徳川宗家の分家である武家・華族だった家。江戸期に御三家の一つとして紀伊国和歌山藩主を世襲した。単に紀伊家、紀州家とも呼ばれた[1]。明治維新後には華族の侯爵家に列した[2]。 徳川家康の十男・徳川頼宣を家祖とする[3][4]。頼宣が慶長8年(1603年)11月7日に常陸国水戸藩主20万石を封じられたのに始まる[4]。翌慶長9年には5万石が加増される[4]。慶長11年に常陸介の官位を与えられ、以降世襲の官職となる[4]。慶長14年に駿河国・遠江国において50万石に加増転封された[5][6]。慶長15年に横須賀城を居城としたが、元和2年(1616年)に家康が死去すると駿府城へ移る[4]。 元和5年に安芸国広島藩主福島正則の改易に伴い、紀伊国和歌山藩主浅野長晟が広島に移封されたため、頼宣が紀伊国和

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  • 尾張徳川家 - Wikipedia

    尾張徳川家(おわりとくがわけ)もしくは尾州徳川家(びしゅうとくがわけ)は、清和源氏と称する徳川氏の支流である武家・華族だった家。江戸期に徳川将軍家の分家御三家の筆頭として名古屋藩主を世襲し、諸大名の中で最高の格式(家格)を有したが、当主から将軍はでなかった。尾張大納言家、単に尾張家、尾州家とも言った。明治維新後、華族の侯爵家に列した[2]。 徳川家康の九男・徳川義直を家祖とする。義直は1603年(慶長8年)に家康から甲斐国に封じられるが、甲斐統治は甲府城代・平岩親吉によって担われており、義直自身は在国せず駿府城に在城した。元服後の1606年(慶長11年)に義直は、兄・松平忠吉の遺跡を継ぐ形で尾張国清須に移封された。その際に家臣団が編制され、尾張徳川家は江戸時代を通じて名古屋藩を治めた。徳川将軍家に後継ぎがないときは他の御三家とともに後嗣を出す資格を有したが、7代将軍の徳川家継没後、紀伊徳川

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  • 徳川御三家 - Wikipedia

    徳川御三家(とくがわごさんけ)は、江戸時代において徳川氏のうち宗家たる将軍家に次ぐ家格を持ち、徳川の名字を称することを認められていた3つの分家。単に御三家(ごさんけ)、三家(さんけ)とも呼ばれる。一般的には、江戸幕府初代将軍徳川家康の男子をそれぞれ始祖とする尾張徳川家(尾張家)、紀伊徳川家(紀伊家)、水戸徳川家(水戸家)を指すことが多い。ただし、当初からこの3つの家が明瞭に「御三家」として扱われていたわけではない(後述)。 御三家はいずれも江戸幕府初代将軍徳川家康の男子を始祖とし、家康の血を引く親藩(一門)の最高位にあり、将軍家や御三卿[注釈 1]とともに徳川姓を名乗ることや三つ葉葵の家紋使用が許された別格の大名家であった。将軍家を補佐する役目にあったとも言われているが、制度・役職として定められたものではない。なお、室町幕府においても「御一家」と称された吉良氏・石橋氏・渋川氏の3氏は、具体

  • 大正製薬 - Wikipedia

    2001年から「日本代表オフィシャルスポンサー」を、2016年から「日本代表オフィシャルパートナー」を務めラグビー日本代表チームをサポートしてきた。2020年4月1日から日ラグビー協会 (JRFU)「ラグビー日本代表トップパートナー」に就任している[4]。 2020年4月1日からJリーグクラブ 浦和レッドダイヤモンズ(浦和レッズ)とパートナー契約を締結した[5]。 2020年6月17日、日テニス協会(JTA)のオフィシャルスポンサー契約締結[6]。関連して全日テニス選手権及び全国選抜高校テニス大会への特別協賛。 ワールドラグビー女子大会「ラグビーワールドカップ2021(playing in 2022)」オフィシャルトーナメントパートナー就任[7]。 2022年1月1日からニュージーランドラグビー協会のプレミアムグローバルパートナーに就任[8]。オールブラックスを筆頭に、15人制代表(

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  • エンジニアリング御三家 - Wikipedia

  • 東洋エンジニアリング - Wikipedia

    石油精製、石油化学、肥料製造、船上プラント(FPSO)、発電所、鉄道などの大規模プラントおよびインフラ設備の設計、購買、建設一括請負(Engineering、Procurement、Constructionの頭文字を取ってEPC契約と称する)業務で国内外に多くの実績を持つ、三井系のエンジニアリング会社。三井化学株式会社のプラント部門が独立した経緯から、エチレンプラントや肥料プラントの建設に強みを持つ。 1961年(昭和36年)5月 - 東洋高圧工業(現・三井化学)の工務部門を分離独立、大成建設、三井物産との三社の出資により、東洋エンジニアリング設立。 1962年(昭和37年)- 米国ルーマス社と業務提携。 1965年(昭和40年)- エチレンプラント第1号受注。 1980年(昭和55年)11月 - 東京証券取引所第2部上場。 1982年(昭和57年)9月 - 東証1部に指定替え。 1987

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  • 千代田化工建設 - Wikipedia

    子安オフィス・リサーチパーク 千代田化工建設株式会社(ちよだかこうけんせつ、英文名称:CHIYODA Corporation)は、神奈川県横浜市西区に社を置く、日の建設会社、エンジニアリング会社である。東京証券取引所スタンダード市場上場。三菱商事が筆頭株主。社は横浜市西区みなとみらい。 国内向けに千代田エクスワンエンジニアリング株式会社を持つ。 石油精製、石油化学、天然ガス液化などの大規模プラントの設計、調達、建設一括請負(Engineering、Procurement、Constructionの頭文字をとってEPC契約と称する)業務で国内外に多くの実績を持つ。日揮、東洋エンジニアリングと併せて「エンジニアリング御三家・専業三社」と呼ばれる[1]。当初は独立色が強かったが、バブル崩壊後に一度経営が傾き、長らくの間三菱グループや米ケロッグ・ブラウン・アンド・ルート(KBR)社の支援を受

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  • 日揮ホールディングス - Wikipedia

    日揮ホールディングス株式会社(にっきホールディングス、英: JGC HOLDINGS CORPORATION[1])は、神奈川県横浜市西区に社を置く、日の建設会社、エンジニアリング会社である。東京証券取引所プライム市場上場。日経平均株価の構成銘柄の一つ[2]。社名は設立当時の社名である「日揮発油株式会社」に由来し、JGCはJapan Gasoline Companyの略。2019年10月1日「日揮株式会社」から商号を変更し、日揮グループの持株会社となった。 エンジニアリング会社の日最大手企業。主な業務は、「製品を作る製造設備を造る事」である。製造設備の内訳は、石油精製プラント、石油化学・化学プラント、LNGプラント、天然ガス処理プラント等である。 設立以来、世界80カ国以上、2万件におよぶプロジェクトを遂行してきた世界有数の実績をもつ。特にLNGプラントでは、これまでに世界の生産量

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  • 故宮博物院 - Wikipedia

    故宮博物院 中国の歴代の皇帝らによって収集され、北京の紫禁城(故宮)に保管されていた歴史文化財を保存、展示する博物館。 中華民国 台北市 - 国立故宮博物院 を参照。嘉義県には故宮博物院南部院区がある。 中華人民共和国 北京市 - 紫禁城内にある博物館 紫禁城#故宮博物院 を参照 中華人民共和国 瀋陽市 - 瀋陽故宮にある博物館。 このページは曖昧さ回避のためのページです。一つの語句が複数の意味・職能を有する場合の水先案内のために、異なる用法を一覧にしてあります。お探しの用語に一番近い記事を選んで下さい。このページへリンクしているページを見つけたら、リンクを適切な項目に張り替えて下さい。

  • エルミタージュ美術館 - Wikipedia

    小エルミタージュ (Малый Эрмитаж)、旧エルミタージュ (Старый Эрмитаж)、新エルミタージュ (Новый Эрмитаж)、エルミタージュ劇場 (Эрмитажный театр)、冬宮殿 (Зимний дворец) の5つの建物が一体で構成され、現在館の冬宮殿はロマノフ朝時代の王宮である。 ネヴァ川(観光客が列を作って並ぶ宮殿広場の反対側)から見たエルミタージュ美術館の建物群:左から、エルミタージュ劇場 – 旧エルミタージュ – 小エルミタージュ – 冬宮殿 (新エルミタージュは旧エルミタージュの背後にある。) 美術館内部 1764年にエカチェリーナ2世はドイツの画商ゴツコフスキーが売り出した美術品を買い取り、エルミタージュ・コレクションが始まる[2][3][4]。 エカチェリーナは冬宮殿の隣に自身専用の美術品展示室(小エルミタージュ)を1775年に建て

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  • ルーヴル美術館 - Wikipedia

    ルーヴル美術館(ルーヴルびじゅつかん、仏: Musée du Louvre)は、パリにあるフランスの国立美術館。世界最大級の美術館(博物館)であるとともに世界最大級の史跡のひとつで、パリ中心部1区のセーヌ川の右岸に位置する。収蔵品38万点以上。先史時代から19世紀までのさまざまな美術品3万5,000点近くが、総面積6万600平方メートルの展示場所で公開されている。世界でもっとも入場者数の多い美術館で、毎年800万人を超える入場者が訪れ[2]、2018年は初めて1,000万人を超えた[3]。フランスの世界遺産であるパリのセーヌ河岸にも包括登録されている[4]。 そのコレクションの一部は、日を含め海外へ貸し出されることも多い[5]。 ルーヴル美術館は、フランス王フィリップ2世が12世紀に、もともとは要塞として建設したルーヴル城(ルーヴル宮殿)に収容されている。現在の建物にも要塞として使用され

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  • メトロポリタン美術館 - Wikipedia

    中央ロビー メトロポリタン美術館(メトロポリタンびじゅつかん、英: The Metropolitan Museum of Art、通称:The Met)は、アメリカ合衆国ニューヨーク市マンハッタンにある世界最大級の美術館。5番街(ミュージアム・マイルの区間)に面するセントラル・パークの東端に位置する。 来歴[編集] メトロポリタン美術館の設立構想は、1864年、パリで7月4日のアメリカ独立記念日を祝うために集まったアメリカ人たちの会合の席で提案された。この会合の参加者のひとりだったジョン・ジョンストンは、アメリカに国際的規模の美術館が存在しないことを憂い、メトロポリタン美術館の設立構想を訴えたが、この時点では美術館の建物はおろか、1点の絵画さえ所有していなかった。 美術館は6年後の1870年に開館。その後は基金による購入や、様々なコレクターからの寄贈によって収蔵品数は激増し、関係者達の努力

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  • 幕末の四賢侯 - Wikipedia

    四賢侯は藩政の改革に着手したばかりでなく、積極的に江戸幕府の政治に参画した。阿部正弘が老中首座のときには、有力な親藩・外様の諸大名も幕政に参与させるよう改革を求めた。阿部もそれに応える形を採ったが、安政4年(1857年)に急死してしまった。 その後、井伊直弼が大老に就いて幕閣を率いるようになると様相が一変、病弱で嗣子のない13代将軍・徳川家定の次の将軍に誰を擁立するかで四賢侯と井伊らが対立した。四賢侯は水戸藩主・徳川斉昭の子で、御三卿一橋徳川家の徳川慶喜[2]を推し、井伊は御三家紀州藩主の徳川慶福[3]を推した。結局井伊が強権を発動して政敵を排除し、この安政の大獄により慶福が将軍家世子となることが決定した。斉彬は大獄の始まる直前に急死した。他の3人は同年7月以降、隠居、更には謹慎を命じられ、藩邸に押し込められた。 安政7年(1860年)、井伊直弼が桜田門外の変で暗殺されて以後、文久3年(1

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  • 島津斉彬 - Wikipedia

    ダゲレオタイプで撮影された島津斉彬(1857年)。 日人が撮影した写真としては最古のものとされる。 島津 斉彬(旧字体:島津 齊彬、しまづ なりあきら)は、江戸時代後期から幕末の大名で、薩摩藩第11代藩主。島津氏第28代当主。今和泉島津家出身で斉彬の養女・天璋院は江戸幕府第13代将軍・徳川家定の御台所。 薩摩藩による富国強兵や殖産興業に着手し国政改革にも貢献した幕末の名君である[1][2]。西郷隆盛ら幕末に活躍する人材も育てた。 文化6年3月14日(1809年4月28日)、第10代藩主・島津斉興の長男として江戸薩摩藩邸(薩摩藩上屋敷)で生まれる[* 1]。母・弥姫(周子)は「賢夫人」として知られた人物で、この時代には珍しく斉彬はじめ弥姫出生の3人の子供は乳母をつけず、弥姫自身の手で養育された。また、青年期まで存命であった曾祖父の第8代藩主・重豪の影響を受けて洋学に興味をもつ。これが周囲の

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  • 山内容堂 - Wikipedia

    文政10年10月9日(1827年11月27日)に土佐藩の分家であった南屋敷(南邸)に山内豊著と潮江村石立の下士平石子の女(名は瀬代)の長子として生まれる[7]。幼名は輝衛(てるえ)[8]。輝衛の生家である南邸山内家は石高1500石の分家で、連枝五家の中での序列は一番下であった[要出典]。通常、藩主の子は江戸屋敷で生まれ育つが、輝衛は分家の出であったため高知城下で生まれ育った[要出典]。弘化3年3月7日、父豊著の隠居に伴い、輝衛改め豊信は南屋敷の家督を嗣ぎ、1500石の蔵米を受ける身となった[8]。 嘉永元年(1848年)の7月に江戸で13代藩主・山内豊熈が死去する[9]。豊熈には嗣子がなかったため、実弟の山内豊惇が跡を継ぐが、9月18日に藩主在職わずか10日余りで急死し、山内家は御家断絶(お取り潰し)の危機に瀕した[9]。豊惇の後継としてまず候補に挙げられたのは長男寛三郎であったが、病気の

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  • 伊達宗城 - Wikipedia

    文政元年(1818年)、大身旗・山口直勝の次男(祖父・山口直清は宇和島藩5代藩主・伊達村候の次男で山口家の養嗣子となった)として江戸にて誕生した。母は蒔田広朝の娘。幼名を亀三郎と称した。文政10年(1827年)4月、参勤交代による在国に際し、宇和島藩主・伊達宗紀の仮養子となる。文政11年(1828年)10月、宇和島藩家臣・伊達寿光(伊達村候の孫)の養子となったが、翌文政12年(1829年)4月11日、嗣子となり得る男子に恵まれない藩主・宗紀の養子となる。宗紀の五女・貞と婚約して婿養子の形をとったが、貞は早世してしまい、婚姻はしなかった。 天保15年(1844年)、養父の隠居に伴い藩主に就任する。宗紀の殖産興業を中心とした藩政改革を発展させ、木蝋の専売化、石炭の埋蔵調査などを実施した。幕府から追われ江戸で潜伏していた高野長英を招き、更に長州より村田蔵六を招き、軍制の近代化にも着手した。 福

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  • 松平春嶽 - Wikipedia

    文政11年9月2日(1828年10月10日)、江戸城内の田安屋敷に生まれる。幼名は錦之丞。錦之丞は伊予松山藩主・松平勝善の養子となることが以前より内定しており、天保8年(1837年)11月25日には正式決定した。 天保9年(1838年)7月27日に越前福井藩主・松平斉善が若年で突然死去した。跡継ぎがいないことから、福井藩先々代藩主・松平斉承の正室・松栄院(浅姫・徳川家慶異母妹)や第12代将軍で斉善の兄の徳川家慶の計らいにより、9月4日付で急遽錦之丞が養子とされた。この手続きの整合性と正当性のため、越前国許からの斉善死去報告の使者は9月2日には江戸に到着していたが、「(国許での)斉善死去は8月28日。(だがそれとは知らないまま)江戸での養子縁組承認は9月4日。国許よりの使者到着は9月6日(に急使が到着した、とするなら、死亡日付は逆算して8月28日頃が都合がよいという設定)。」とされた。10月

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  • 日興コーディアルグループ - Wikipedia

    株式会社日興コーディアルグループ(にっこうコーディアルグループ、英称:Nikko Cordial Corporation)は、かつて存在した日の証券持株会社の一つ。現在の三井住友フィナンシャルグループ(SMBCグループ)傘下のSMBC日興証券の前身企業である。 かつての三菱銀行系の大手証券会社である日興證券は、日法人シティグループ・ジャパン・ホールディングス株式会社に吸収合併され、アメリカ金融大手シティグループの傘下となった。金融持株会社の株式会社日興コーディアルグループとして、日興コーディアル証券株式会社(リテール証券)、日興シティグループ証券株式会社(ホールセール投資銀行)、マネックスグループ株式会社(ネット証券)などを有した。 日興證券の前身のひとつ川島屋證券が三菱系で、川島屋證券と日興業銀行(現みずほ銀行)系の1944年に旧日興証券が合併して誕生した[1]。かつての日興證券は

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  • 大和証券 - Wikipedia

    野村證券(野村HD)、SMBC日興証券(SMFG)、みずほ証券(みずほFG)、三菱UFJモルガン・スタンレー証券(MUFG)とともに、日の総合証券会社大手5社の1角である[2]。また、野村證券とともにメガバンクの金融持株会社(フィナンシャルグループ)に属さない独立系の証券会社である。 旧・大和證券(初代)としては、1943年に藤証券と日信託銀行が合併して設立。社名は当時の日銀総裁であった結城豊太郎が「相和して大きくなる」との願いを込め名づけた。 旧住友銀行(現三井住友銀行)との提携がなされていた際、法人業務に関して、相互に顧客を紹介したほか、共同出資によるホールセール証券会社である「大和証券SBキャピタルマーケッツ」(三井住友銀行発足時に「大和証券SMBC」へ社名変更)を設立し、一時は法人向け証券業務において、業界No.2の実績を誇ったこともあった[注釈 1]。 2009年に三井住友

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  • 第一生命保険 - Wikipedia

    1902年(明治35年)9月15日、農商務省で保険業法起草に携わった、当時日生命の社医の矢野恒太が、日初の相互会社として創立する。初代社長は、柳沢保恵。役員に博文館社長で衆議院議員の大橋新太郎、軍人の浜口茂之助[注 1]。日橋区新右衛門町にて営業を開始。幹部の医長に石岡繁太郎が就任[5][6][注 2] 1904年(明治37年)、支部長が矢野恒太、副支部長が石岡繁太郎、秦佐八郎となる[5]。 1906年(明治39年)、日橋区通三丁目の新社屋に社を移転。契約者配当金の支払い開始。 1907年(明治40年)、責任準備金の積立方式を純保険料式に改定。 1921年(大正10年)、京橋「第一相互館」に社を移転。5大生命保険の一つとなる。 1923年(大正12年)、関東大震災(震災による死亡に対し、保険金完全支払いと手続き簡易化を決定) 1932年(昭和7年)、保有契約高で業界第2位の実績

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  • 三井住友銀行 - Wikipedia

    特記事項: 貸出金残高、預金残高は、『2021年3月期有価証券報告書』による[2]。 個人の預金口座数は、約2700万口座、法人の貸出先は、約8万4000社である[3]。 株式会社三井住友銀行(みついすみともぎんこう、英語: Sumitomo Mitsui Banking Corporation、略称:SMBC)は、東京都千代田区丸の内に店を置く、三井住友フィナンシャルグループ(SMFG)傘下の都市銀行。三菱UFJ銀行(三菱UFJフィナンシャル・グループ)、みずほ銀行(みずほフィナンシャルグループ)とともに3大メガバンクの一角を占める[4]。親会社のSMFGとともにSMBCグループの中核企業である。 大阪の住友グループ(旧住友財閥)と、東京の三井グループ(旧三井財閥)の両方に属する(「三井住友」も参照のこと)。 2001年4月1日に住友グループの住友銀行と、三井グループのさくら銀行(三井

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  • 犬山城 - Wikipedia

    犬山城(いぬやまじょう)は、尾張国と美濃国の境、木曽川南岸の地「犬山」(愛知県犬山市(旧丹羽郡))にあった日の城。天守のみが現存し江戸時代までに建造された「現存12天守」の一つである。また天守が国宝指定された5城のうちの一つである(他は姫路城・松城・彦根城・松江城)。城跡は「犬山城跡」として、国の史跡に指定されている[1][2]。日で最後まで個人が所有していた城(2004年まで個人所有)である。 国土交通省 国土地理院 地図・空中写真閲覧サービスの空中写真を基に作成。 木曽川の犬山橋から望む犬山城 (2012年(平成24年)11月) 尾張国と美濃国の境にあり、木曽川沿いの高さ約88メートルほどの丘に築かれた平山城である。別名の白帝城は木曽川沿いの丘上にある城の佇まいを長江流域の丘上にある白帝城を詠った李白の詩「早發白帝城」(早に白帝城を発す)にちなんで荻生徂徠が命名したと伝えられる。

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  • 松本城 - Wikipedia

    戦国時代の永正年間(1504-1520年)に、信濃守護家小笠原氏(府中小笠原氏)が林城を築城し、その支城の一つとして深志城が築城されたのが始まりといわれている。 天文年間には甲斐国の武田氏による信濃侵攻が開始され、1550年8月27日(天文19年7月15日)には林城・深志城などが落城し、信濃守護・小笠原長時は追放された(『高白斎記』)。武田氏は林城を破却して深志城代として馬場信春を配置し、松盆地を支配下に置いた。その後は信濃小県郡の村上義清、越後国の長尾景虎(上杉謙信)と抗争し、北信濃に至る信濃一帯を領国化した。 1582年(天正10年)、甲州征伐に伴う武田氏滅亡により城代馬場昌房から織田長益に明け渡された後、織田信長によって木曾義昌に安堵された。能寺の変後の武田遺領を巡る天正壬午の乱において、同年6月には越後の上杉景勝に擁立され、小笠原旧臣の助力を得た小笠原洞雪斎が奪還。さらに徳川家

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  • 彦根城 - Wikipedia

    彦根城(ひこねじょう)は、近江国犬上郡彦根(現在の滋賀県彦根市金亀町)[1]にある城。江戸時代には彦根藩の政庁が置かれた。天守、附櫓及び多聞櫓は国宝、城跡は特別史跡かつ琵琶湖国定公園第1種特別地域である。天守が国宝指定された5城のうちの一つでもある(他は犬山城、松城、姫路城、松江城)。彦根八景・琵琶湖八景に選定されている。 江戸時代初期、現在の彦根市金亀町にある彦根山に鎮西を担う井伊氏の拠点として築かれた平山城(標高50m)。山は「金亀山(こんきやま)」の異名を持つため、金亀城(こんきじょう)とも呼ばれた。多くの大老を輩出した譜代大名である井伊氏14代の居城であった。 明治時代初期の廃城令による破却を免れ、天守が現存する。天守[注 1]と附櫓(つけやぐら)及び多聞櫓(たもんやぐら)の2棟[注 2]が国宝に指定されるほか、安土桃山時代から江戸時代の櫓・門など5棟が現存し、国の重要文化財に指

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  • 姫路城 - Wikipedia

    代表紋章:揚羽蝶 姫路城(ひめじじょう)は、兵庫県姫路市にある日の城。江戸時代初期に建てられた天守や櫓等の主要建築物が現存し、国宝や重要文化財に指定されている。また、主郭部を含む中堀の内側は「姫路城跡」として国の特別史跡に指定されている[8][9][10]。また、ユネスコの世界遺産(文化遺産)リストにも登録され[11]、日100名城[12]などに選定されている。別名は白鷺城(はくろじょう・しらさぎじょう。詳細は名称の由来と別名を参照)。 池田輝政 姫路城は播磨国飾磨郡[注釈 1]の、現在の姫路市街の北側にある姫山および鷺山を中心に築かれた平山城で、日における近世城郭の代表的な遺構である。江戸時代以前に建設された天守が残る現存12天守の一つで、中堀以内のほとんどの城域が特別史跡に、現存建築物の内、大天守・小天守・渡櫓等8棟が国宝に、74棟の各種建造物(櫓・渡櫓27棟、門15棟、塀32棟

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  • PwC Japan有限責任監査法人 - Wikipedia

    住友不動産汐留浜離宮ビル(2009-2017) PwC Japan有限責任監査法人(ピーダブリューシージャパンゆうげんせきにんかんさほうじん、英語: PricewaterhouseCoopers Japan LLC)は、日の監査法人。海外の大手会計事務所を指す「big4」の一つ、プライスウォーターハウスクーパース(PwC)のメンバーファーム。 いわゆる「4大監査法人」の一つ。2016年(平成28年)7月1日、その中では最後に有限責任監査法人へ移行した。 世界最大級の会計事務所であるプライスウォーターハウスクーパース(PwC)は、日において中央青山監査法人(後にみすず監査法人に改称)と提携していた。しかし、中央青山監査法人の一連の不祥事と、それによる行政処分や顧客離れを受け、PwCはそれらの受け皿として中央青山監査法人の一部を独立させてあらた監査法人を設立した。こうした経緯から、上場クラ

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  • 有限責任監査法人トーマツ - Wikipedia

    1968年(昭和43年)5月 - 監査法人等松・青木・津田・塚田・青木・宇野・月下部事務所設立。 1968年(昭和43年)12月 - 監査法人丸の内会計事務所設立 1969年(昭和44年)2月 - 監査法人等松・青木・津田・塚田・青木・宇野・月下部事務所から等松・青木監査法人に名称を変更 1969年(昭和44年)8月 - 監査法人西方会計士事務所設立 1973年(昭和48年)3月 - 監査法人サンワ事務所設立 1974年(昭和49年) - 監査法人誠和会計事務所設立 1975年(昭和50年)5月 - 等松・青木監査法人、トウシュ・ロス・インターナショナル(TRI)へ加盟 1975年(昭和50年)12月 - 監査法人丸の内会計事務所 東京事務所が同監査法人から分離独立し、監査法人東京丸の内事務所が発足 1976年(昭和51年)4月 - 監査法人サンワ事務所と監査法人東京丸の内事務所が合併し、

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  • EY新日本有限責任監査法人 - Wikipedia

    EY新日有限責任監査法人(イーワイしんにほんゆうげんせきにんかんさほうじん、英語: Ernst & Young ShinNihon LLC)は、日の大手監査法人。4大会計事務所・アーンスト・アンド・ヤング(EY)の日における統括法人EY Japanに属する。いわゆる「4大監査法人」の一つ。2008年(平成20年)7月1日、日で最初の有限責任監査法人となった。 海外の大手会計事務所を指す「Big4」の一つ、穏健派に属するアーンスト・アンド・ヤング・グローバル・リミテッド(EY)のメンバーファームである。 アーンスト・アンド・ヤングとしては日を4大エリアの一つとして位置づけており、日エリアはEYジャパン合同会社を中核として、監査業務を行う EY新日有限責任監査法人の他、コンサルティング・アドバイザリー業務を行うEYアドバイザリー・アンド・コンサルティング株式会社、税務業務を行うE

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  • 4大監査法人 - Wikipedia

    公認会計士・監査審査会は、 仰星監査法人(NEXIA Internationalと提携) 三優監査法人(BDOインターナショナルと提携) 太陽有限責任監査法人(グラントソントン・インターナショナルと提携) 東陽監査法人(クロウ・グローバルと提携) の4法人を「大規模な監査法人に準ずる規模の監査法人(準大手監査法人)」 とし、その他の中小監査法人や個人開業の会計事務所等と区分している[3]。かつてはこれに加えPwC京都監査法人も準大手とされてきたが、PwC京都は2023年12月に4大のひとつPwCあらた有限責任監査法人と合併し、現在のPwC Japan有限責任監査法人となった。 4大に対する準大手の立ち位置について、準大手が5法人時代の2022年に東陽監査法人理事長の佐山正則(当時)は「実際には4-1-4。太陽有限責任監査法人さんは、準大手の中でも頭一つ抜けています。」「四大と準大手の差は1

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  • 有限責任あずさ監査法人 - Wikipedia

    現在のあずさ監査法人の母体とも言える監査法人朝日会計社の創業者尾澤修治は住友銀行の出身であり、そのため創業以来より住友系のクライアントを多く持ち、大手監査法人の一角を占めていた。海外提携先も当時「Big8」と呼ばれていた会計事務所の一つ、アーサー・ヤングであった。一方、新和監査法人は規模としては準大手であり、中堅のBDOインターナショナル及びグラントソントン・インターナショナルという2つの会計事務所と提携していた。監査法人朝日会計社と新和監査法人は、当時の首相・中曽根康弘内閣の公社民営化による設立企業を受け入れる素地を整えるため、1985年(昭和60年)に合併。当時、国内の監査法人は旧公社クラスの企業の監査に対応できるほどの規模を有していなかったため、監査法人の大小を問わず合併が相次いでいた。中でも朝日と新和はいち早く合併を成功させ、結果としてJR東日NTTをクライアントとして獲得した

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  • 井伊直政 - Wikipedia

    井伊 直政(いい なおまさ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将・大名。井伊氏第20代当主[注釈 4]。 上野国高崎藩の初代藩主。後に近江国彦根藩の初代藩主。 徳川氏の家臣(家臣になった当時は外様)。遠江国井伊谷の出身で、『柳営秘鑑』では榊原氏や鳥居氏と並び、「三河岡崎御普代」として記載されている。また、江戸時代に譜代大名の筆頭として、江戸幕府を支えた井伊氏の手となり、現在の群馬県高崎市と滋賀県彦根市の発展の基礎を築いた人物でもある。 徳川二十八神将、徳川十六神将、徳川四天王に数えられ、家康の天下取りを全力で支えた功臣として、現在も顕彰されている。滋賀県彦根市では、直政が現在の彦根市の発展の基礎を築いたことを顕彰して、「井伊直政公顕彰式」という祭典が毎年行われている。 永禄4年(1561年)2月19日、今川氏の家臣である井伊直親の嫡男として[2]、遠江国井伊谷(現在の静岡県浜松市浜

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  • 榊原康政 - Wikipedia

    榊原 康政(さかきばら やすまさ)は、室町時代後期から江戸時代初期にかけての武将、大名。上野国館林藩の初代藩主。徳川氏の家臣。康政流榊原家初代当主。徳川四天王・徳川十六神将・徳川三傑に数えられ、現在も家康覇業の功臣として顕彰されている。 榊原康政生誕之地碑(愛知県豊田市) 榊原氏は三河仁木氏の一族と自称し、後に伊勢国一志郡榊原に移って榊原を称した。後に伊勢に残った家筋の系統と三河に戻った分家筋の系統があったと称するが、永正15年(1518年)頃の松平家の奉行人の1人には既に「榊原主計忠直」が存在していたことが確認できる。康政の系統は松平氏譜代家臣の酒井忠尚に仕える陪臣の家柄であり、有力な存在とは言えなかった[1]。 天文17年(1548年)、榊原長政の次男として三河国上野郷(現在の愛知県豊田市上郷町)に生まれる。幼い頃から勉学を好み、書を読んで、字も大変上手かったという。13歳の時、松平

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  • 本多忠勝 - Wikipedia

    多 忠勝(ほんだ ただかつ)は、戦国時代から江戸時代前期にかけての武将・大名。徳川氏の家臣。上総大多喜藩初代藩主、伊勢桑名藩初代藩主。忠勝系多家宗家初代。姓は藤原氏。通称は平八郎(へいはちろう)。 徳川四天王・徳川十六神将・徳川三傑として崇められた。 多忠勝誕生地石碑(愛知県岡崎市西蔵前町) 天文17年(1548年)、安祥松平家(徳川家)の最古参の譜代である安祥譜代の多氏で、多忠高の長男として[1][2]、三河国額田郡蔵前(愛知県岡崎市西蔵前町)で生まれた[3]。 天文18年(1549年)、父・忠高が戦死し、叔父・忠真のもとで育った。 幼い頃から徳川家康に仕え、永禄3年(1560年)13歳の時に桶狭間の戦いの前哨戦である大高城兵糧入れで初陣する[1]。このとき、同時に元服した[4]。 永禄6年(1563年)の三河一向一揆に徳川方として参戦している[5]。 忠勝が一次史料に現れ

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  • 酒井忠次 - Wikipedia

    この節は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。 出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。(このテンプレートの使い方) 出典検索?: "酒井忠次" – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL (2022年8月) 酒井忠次の生誕地である井田城址(愛知県岡崎市井田町)。 伝・酒井忠次所用の色々威胴丸(重要文化財、山形県鶴岡市・致道博物館所蔵)[1]。 大永7年(1527年)、徳川氏の前身である松平氏の譜代家臣・酒井忠親の次男として三河額田郡井田城(愛知県岡崎市井田町城山公園)に生まれる。元服後、徳川家康の父・松平広忠に仕え、酒井小五郎、後に左衛門尉と称している。 竹千代(徳川家康)が今川義元への人質として駿府に赴く時、竹千代に従う家臣の中では酒井正親に次ぐ最高齢者(23歳)

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  • 徳川四天王 - Wikipedia

    徳川四天王(とくがわしてんのう)は、安土桃山時代から江戸時代初期に、徳川家康の側近として仕えて江戸幕府の樹立に功績を立てた酒井忠次・多忠勝・榊原康政・井伊直政の4人を武田四天王等と同様に顕彰した呼称。仏教の四天王に準えている。類似の取組みとして更に12人を加えた徳川十六神将がある。 多忠勝・榊原康政・井伊直政の3人は1590年の徳川氏の関東移封から1600年の関ヶ原の戦いまでの時代に徳川氏の家政と関ヶ原の戦いに関わる大名工作・戦後処理に中心となって活躍して幕府の基礎固めに功績があり、特に彼らを指して徳川三人衆もしくは徳川三傑と呼ぶ場合もある。「徳川四天王」の名称はいつから使われたかは定まらない。例えば歴史学者の中村達夫は、「徳川四天王」の名称の使用開始年代は不明とし、「徳川三傑」については『榊原家譜』を出典として1586年9月に使われ始めたとしている。中村によれば、1586年9月に徳川

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  • 明智光秀 - Wikipedia

    明智 光秀(あけち みつひで)は、戦国時代から、安土桃山時代にかけての武将、大名。 通説では美濃国の明智氏の支流の人物で、俗に美濃の明智荘の明智城の出身と言われているが、他の説もある[22]。このため前歴不明。越前国の一乗谷に拠を持つ朝倉義景を頼り、長崎称念寺の門前に十年ほど暮らし、このころに医学の知識を身に付ける[23]。その後、足利義昭に仕え、さらに織田信長に仕えるようになった。元亀2年(1571年)の比叡山焼き討ちへ貢献し、坂城の城主となる。天正元年(1573年)の一乗谷攻略や丹波攻略にも貢献した。 天正10年(1582年)、京都の能寺で織田信長を討ち、その息子信忠も二条新御所で自刃に追いやり(能寺の変)、信長親子による政権に幕を引いた。その後、自らも織田信孝・羽柴秀吉らに敗れて討ち取られたとされるが、当時光秀の首を確認したという文献資料は残されていない(山崎の戦い)。 『続

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  • 滝川一益 - Wikipedia

    滝川 一益(たきかわ かずます / いちます、旧字体:瀧川 一益󠄁)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将、大名。織田氏の宿老であり、主君・織田信長に従い、天下統一に貢献した。 父は近江国甲賀郡の国人・滝川一勝もしくは滝川資清といわれているが、どのような人物であったかは定説を見ない。また、兄として高安範勝が挙げられることもあるが、一族(父の従兄弟)とする系譜もある。また、池田恒興と同族(従兄弟)とされる場合もある[注釈 1]。更に中村一氏は甲賀二十一家の一つ・滝氏の出身ともいわれ一益の同族とする説もある。また、忍者であったという説もあるが、これも明確な根拠があるものではない。甲賀郡に対する文書で「大原」同名中の「滝川氏」として動いているものがある[3][4]。 また、一益以前から滝川氏は尾張国に在住していたとする説もあり、山科言継の日記『言継卿記』に、天文2年(1533年)に言継が飛

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  • 丹羽長秀 - Wikipedia

    長秀はその後も、高屋城の戦い、長篠の戦いや越前一向一揆征伐など、各地を転戦して功を挙げる。さらに長秀は軍事だけではなく、政治面においても優れた手腕を発揮し、安土城普請の総奉行を務めるなど多大な功を挙げている。 天正7年(1579年)、但馬の羽柴秀長とともに、丹波に攻め込み氷上城の波多野宗長に勝利している。 天正9年(1581年)、越中国木舟城主の石黒成綱を信長の命令で近江で誅殺した。越中願海寺城主・寺崎盛永父子も、信長の命令で、長秀が城主をつとめる近江佐和山城で幽閉の後、切腹となった。同年の京都御馬揃えにおいては、一番に入場するという厚遇を与えられている。また天正伊賀の乱にも従軍しており、比自山城の戦いなどで戦っている。 家老の席順としては、筆頭格の佐久間信盛失脚後この位置に繰り上がった柴田勝家に続く二番家老の席次が与えられ、両名は織田家の双璧といわれた[注 1]。 天正10年(1582年

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  • 柴田勝家 - Wikipedia

    ウィキソースに三壺聞書の加賀国尾張衆による柴田勝家評「後尾州衆加州にて物語致しけるは、根柴田権六信行を亡し、信長へ附参らせんとはかり、残るものを謀叛人と反忠を致す所存のほどこそにくけれと悪口を致しけれ共、武勇の者にて越前一国の主となる。然れ共終に秀吉公の為に滅亡せり。偏に信行と其の外の亡霊の憤り成るべしと語りける」があります。 天文21年(1552年)、尾張下四郡を支配する守護代で清洲城主・織田信友との戦いでは、中条家忠とともに敵方の家老・坂井甚介を討ち取り、翌年には清洲城攻めで大将格で出陣し、30騎を討ち取る武功を立てた(萱津の戦い)。 信勝を信秀の後継者にしようと林秀貞と共に画策し織田信長の排除を試み、弘治2年(1556年)8月に勝家は1,000人を率いて戦うが、信長との戦いに敗れて、降伏した(稲生の戦い)。この時は信長・信勝兄弟の生母・土田御前の強い願いで赦免され、信勝・勝家・津々

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  • 織田信長 - Wikipedia

    織田 信長(おだ のぶなが)は、日の戦国時代から安土桃山時代にかけての武将・大名。戦国の三英傑の一人。 尾張国(現在の愛知県)出身。織田信秀の嫡男。家督争いの混乱を収めた後に、桶狭間の戦いで今川義元を討ち取り、勢力を拡大した。足利義昭を奉じて上洛し、後には義昭を追放することで、畿内を中心に独自の中央政権(「織田政権」[注釈 4])を確立して天下人となった。しかし、天正10年6月2日(1582年6月21日)、家臣・明智光秀に謀反を起こされ、能寺で自害した。 これまで信長の政権は、豊臣秀吉による豊臣政権、徳川家康が開いた江戸幕府への流れをつくった画期的なもので、その政治手法も革新的なものであるとみなされてきた[2]。しかし、近年の歴史学界ではその政策の前時代性が指摘されるようになり、しばしば「中世社会の最終段階」とも評され[2]、その革新性を否定する研究が主流となっている[3][4]。 織

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  • 天王寺 (台東区) - Wikipedia

    釈迦如来坐像 堂 かつて存在していた谷中五重塔 天王寺(てんのうじ)は、東京都台東区谷中にある、天台宗の寺院。正式名称は護国山尊重院天王寺である。 開創から日蓮宗時代[編集] 日蓮が鎌倉と安房を往復する際に関小次郎長耀の屋敷に宿泊したことに由来する。関小次郎が日蓮に帰依して草庵を結んだ。日蓮の弟子・日源が法華曼荼羅を勧請して開山した。1641年(寛永18年)徳川家光・英勝院・春日局の外護を受け、29690坪の土地を拝領し、将軍家の祈祷所となる。1648年(慶安1年)日蓮宗9世・日長による『長耀山感応寺尊重院縁起』が唯一の資料である。法華寺から転住した日耀が中興するまでの歴史は不明である。 弾圧と改宗[編集] 開創時から日蓮宗であり、早くから不受不施派に属していた。不受不施派は江戸幕府により弾圧を受けた。日蓮宗15世・日遼の時、1698年(元禄11年)強制的に改宗となり、日蓮宗14世・日饒

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  • 浅草寺 - Wikipedia

    浅草寺(せんそうじ)は、東京都台東区浅草二丁目にある都内最古の寺で、正式には金龍山浅草寺(きんりゅうざんせんそうじ)と号する。聖観世音菩薩を尊とすることから、浅草観音(あさくさかんのん)として知られている。山号は金龍山。 元は天台宗に属していたが、昭和25年(1950年)に独立して聖観音宗の山となった[1]。都内では坂東三十三観音唯一の札所(第13番)、また江戸三十三観音札所の第1番でもある。全国有数の観光地であるため、正月の初詣では毎年多数の参拝客が訪れ、参拝客数は常に全国トップ10に入っている[注釈 1]。 尊真言:おん あろりきゃ そわか ご詠歌:ふかきとが今よりのちはよもあらじ つみ浅草にまいる身なれば 『浅草寺縁起』等にみえる伝承によると、浅草寺の創建の由来は以下の通りである。 飛鳥時代の推古天皇36年(628年)、宮戸川(現・隅田川)で漁をしていた檜前浜成・竹成(ひのくま

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  • 増上寺 - Wikipedia

    2021年11月にチタン瓦葺きで再度落慶した大殿(堂) 大殿の扁額 東京タワーより境内を望む。中央が大殿 境内の鳥瞰図(1901年(明治34年)) 増上寺(ぞうじょうじ)は、東京都港区芝公園四丁目にある浄土宗の仏教寺院。山号は三縁山。三縁山広度院増上寺(さんえんざん こうどいん ぞうじょうじ)と称する。 9世紀、空海の弟子・宗叡が武蔵国貝塚(東京市麹町区を経て現・千代田区麹町および紀尾井町あたり)に建立した光明寺が増上寺の前身だという[2][3]。 室町時代の明徳4年(1393年)、浄土宗第八祖酉誉聖聡(ゆうよしょうそう)の時、真言宗から浄土宗に改宗し、寺号も増上寺と改めた[2][3]。この聖聡が実質上の開山と言える。 聖聡は応永3年(1396年)に小石川(東京市小石川区を経て現・文京区)に草庵を立てて、師匠である了誉聖冏を招いた。これが後の伝通院になったという。 開基聖聡の弟子には、松

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  • 池上本門寺 - Wikipedia

    池上門寺(いけがみほんもんじ)は、東京都大田区池上にある日蓮宗の大山。 寺格は大山、山号を長栄山、院号を大国院、寺号を門寺とし、古くより池上門寺と呼ばれてきた。また日蓮入滅の霊場として日蓮宗の十四霊蹟寺院のひとつとされ、七大山のひとつにも挙げられている[注釈 1]。 弘安5年(1282年)9月8日、病身の日蓮は身延山を出て、湯治のために常陸(茨城県)へ向かう。9月18日に武蔵国池上郷(東京都大田区池上)の池上宗仲の館に到着。生涯最後の20数日間を過ごすこととなる。同年同月に、池上氏館の背後の山上に建立された一宇を日蓮が開堂供養し、長栄山門寺と命名した[要出典]のが池上門寺の起源という。 同年10月13日に日蓮が没すると、池上宗仲は法華経の字数(69,384)に合わせて六万九千三八四坪を寺領として寄進し寺院の基礎が築かれ、以来「池上門寺」と呼びならわされている[1]。その後

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  • 上野恩賜公園 - Wikipedia

    上野恩賜公園(うえのおんしこうえん)は、東京都台東区にある公園。通称上野公園。「上野の森」とも呼ばれ、武蔵野台地末端の舌状台地「上野台」に公園が位置することから「上野の山」とも呼ばれる。面積は約53ヘクタールである[1]。東京都建設局の管轄。公園内には博物館、動物園等、多くの文化施設が存在する。「上野公園」は台東区の町名でもある。 概要[編集] 東京国立博物館、国立西洋美術館、国立科学博物館、恩賜上野動物園などの文化施設が集中して立地している。また彫刻家高村光雲作の西郷隆盛像があることでも知られる[注釈 1]。 高台となっている忍ヶ岡は、近世からソメイヨシノの名所としても有名であり、日さくら名所100選に選定されている。桜の開花時期になると、大勢の花見客が押し寄せることで有名である。また、忍ヶ岡の南に位置する不忍池(しのばずのいけ)は、夏には池の一部を覆い尽くすほどの蓮に覆われ、一面の緑

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  • 江戸四塔 - Wikipedia

    江戸四塔(えどしとう/えどよんとう)は、江戸時代に建立された江戸の五重塔。 寛永寺(現存)・池上門寺(現存)(または、芝増上寺(東京大空襲で焼失))・浅草寺(東京大空襲で焼失、戦後コンクリート造で位置を変えて再建。)・谷中天王寺(放火により焼失)の五重塔のこと。

  • 内藤新宿 - Wikipedia

    この項目では、江戸時代の宿場である内藤新宿について説明しています。東京府豊多摩郡にかつて存在した町については「内藤新宿町」をご覧ください。 内藤新宿の復元模型(新宿歴史博物館蔵)。画像奥が東で、四谷大木戸に至る。手前の分岐点が新宿追分。 内藤新宿(ないとうしんじゅく)は、江戸時代に設けられた宿場の一つ。甲州街道に存在した宿場のうち、江戸日橋から数えて最初の宿場であり、宿場内の新宿追分から甲州街道と分岐している成木街道(青梅街道)の起点でもあった。現在の住所では、東京都新宿区新宿一丁目から新宿二丁目・三丁目の一帯にあたる。 東海道の品川宿・中山道の板橋宿・日光街道(奥州街道)の千住宿と並んで、江戸四宿と呼ばれた[1]。地名から四谷新宿と呼ばれることもある。 慶長9年(1604年)、江戸幕府により日橋が五街道の起点として定められ、各街道で1里(約4km)ごとに一里塚を設けたほか、街道沿いに

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  • 千住宿 - Wikipedia

    千住宿の位置[1] 千住宿(せんじゅしゅく、せんじゅじゅく)は、日光街道(正式には日光道中)および奥州街道(正式には奥州道中)の日橋から1番目の宿場町で、江戸四宿の一つである。 千住宿は、武蔵国足立郡・豊島郡の荒川(現隅田川)曲流部で海抜2メートル前後の沖積低地上、荒川に架けられた千住大橋沿い、隅田川両岸に設置され、南北に延びる奥州街道・日光街道に沿って形成された宿場町である。日光街道および奥州街道の初宿で、水戸街道と下街道がここから分岐していた。現在の東京都足立区千住一丁目 - 五丁目、千住仲町、千住橋戸町、荒川区南千住に相当する(現在の状況は、足立区千住、荒川区南千住を参照)。 文禄3年(1594年)隅田川に千住大橋が架けられ、五街道の整備が進められると、慶長2年(1597年)に奥州街道・日光街道の宿駅に指定された。 千住は、奥州街道・日光街道と荒川が千住大橋にて交差し、荒川・隅田

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  • 板橋宿 - Wikipedia

    『木曾街道 板橋之驛』[注釈 1] 天保6- 8年(1835-1837年)、渓斎英泉筆。 画面の左端、道の中央に「是從板橋(これより いたばし)」と記されているであろう傍示杭[注釈 2]が建っている。中央より若干左手に見える姿のよい旅人は武家の夫婦で、1人の使用人が後に続く。その使用人は、乗っていくよう武家夫婦に声掛けすべく出茶屋から飛び出してきた駕籠かきを、巧みに遮っている。使用人の体の向きから察するに、おそらく3人は茶屋で一服していたのであろう。休憩後の出ばなの誘いを駕籠かきは振り切られてしまったように見える。しかし、武士は声に応えてか頭の向きを変えている。駕籠かきが客をのがしたかどうかはまだ分からない。茶屋の中には客の町人2人がいて、榎(えのき)の陰に隠れて見えないが、飲みいしているはずである。また、店先では馬子が馬のための草鞋を取り替えている。 板橋宿(いたばししゅく)は、日

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  • 品川宿 - Wikipedia

    「品川 日乃出」 歌川広重 『東海道五十三次』 より 御殿山の麓を通過する大名行列の最後尾を描いている。 品川宿(しながわしゅく、しながわじゅく)は、東海道五十三次の宿場の一つ。東海道の第一宿であり、中山道の板橋宿、甲州街道の内藤新宿、日光街道・奥州街道の千住宿と並んで江戸四宿と呼ばれた[1]。 慶長6年(1601年)に、中世以来の港町として栄えていた品川湊の近くに設置され、場所は、現在の東京都品川区内で、北は京急線の北品川駅から南は青物横丁駅周辺までの旧東海道沿い一帯に広がっていた。 品川宿は五街道の中でも重要視された東海道の初宿であり、西国へ通じる陸海両路の江戸の玄関口として賑わい、他の江戸四宿と比べて旅籠屋の数や参勤交代の大名通過の数が多かった[2]。 目黒川を境に区分され、それより北が北品川宿、南が南品川宿、北品川の北にあった宿を歩行新宿(かちしんしゅく)と呼んだ[3]。 歩行新

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  • 江戸四宿 - Wikipedia

    江戸四宿(えどししゅく)、または単に四宿は、江戸時代に五街道の各々について江戸・日橋(北緯35度41分2.5秒 東経139度46分28秒 / 北緯35.684028度 東経139.77444度))に最も近い宿場町の総称で、五街道の起点である日橋から2里(約8 km)以内のところにあった[1]。江戸と地方を結ぶ各街道の最初の宿場町であり、江戸の出入り口として重要な役割を担い[1]、人・物資・情報・文化の集散地として機能し、周辺地域と異なった街並みや風格をもっていた[2]。 各々に岡場所と呼ばれる非公認の遊廓があり、飯盛女(めしもりおんな)という名目で遊女を置いていた。

  • 毘沙門天 - Wikipedia

    毘沙門天(びしゃもんてん、梵名: ヴァイシュラヴァナ[注釈 1](またはヴァイシュラマナ)、サンスクリット: वैश्रवण, Vaiśravaṇa[2]、パーリ語: Vessavaṇa)は、仏教における天部の仏神で、持国天、増長天、広目天と共に四天王の一尊に数えられる武神である。多聞天[3]または北方天[3]とも呼ばれる。また四天王としてだけでなく、中央アジア、中国など日以外の広い地域でも、独尊として信仰の対象となっており、様々な呼び方がある。種子はベイ(वै , vai)[4]。日においては、「五穀豊穣、商売繁盛、家内安全、長命長寿、立身出世」[5]といった、現世利益を授ける七福神の一柱として信仰されている。 バールフットのクヴェーラ像[6] 前2世紀~前1世紀 カルカッタ、インド博物館蔵 仏塔の周りには四人のヤクシャが石柱に浮き彫りとして表現されていたが、19世紀になって再発見さ

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  • 広目天 - Wikipedia

    広目天(こうもくてん、梵名: ヴィルーパークシャ、梵: विरूपाक्ष, Virūpākṣa、巴: Virūpakkha)または西方天は、仏教における天部。持国天、増長天、多聞天(毘沙門天)と共に四天王の一尊に数えられる。ヴィルーパークシャとは来サンスクリット語で「種々の眼をした者」あるいは「不格好な眼をした者」という意味だが、「尋常でない眼、特殊な力を持った眼」さらに千里眼と拡大解釈され、広目と訳された。又は毘楼博叉とも称する。三昧耶形は三鈷戟、羂索(両端に金具を付けた捕縛縄)。種子はビ(vi)。 広目天は四天王の一体、西方を護る守護神として造像されることが多い。仏堂内では尊の向かって左後方に安置するのが原則である。その姿には様々な表現があるが、日では一般に革製の甲冑を身に着けた唐代の武将風の姿で表される。 持物は、古くは筆を持ち巻物に何かを書き留めている姿で表現された。しかし

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  • 増長天 - Wikipedia

    増長天(ぞうじょうてん、ぞうちょうてん、梵名: ヴィルーダカ、梵: विरूढक, Virūḍhaka、巴: Virūlhaka、訳: 成長あるいは増大した者)または南方天は、仏教における天部の仏神。持国天、広目天、多聞天(毘沙門天)と共に四天王の一尊に数えられる。又は毘楼勒叉とも名称する。三昧耶形は刀剣、戟。種子はビ(vi)。 増長天は、四天王の一体、南方を護る守護神として造像される場合が多い。仏堂では尊の向かって左手前に安置するのが原則である。その姿には様々な表現があるが、日では一般に革製の甲冑を身に着けた唐代の武将風の姿で表される。 持物は戟の場合が多い。例えば胎蔵界曼荼羅では体色は赤肉色、右手は右胸の前で剣を持ち、左手は拳にして右腰に置く姿で描かれる。そして増長天の前には鬼形の従者がいて両手で剣を持ち跪いている。 また、中国の民間信仰においては青い顔で宝剣を持った姿で表される。

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  • 持国天 - Wikipedia

    持国天(じこくてん)、梵名: ドゥリタラーシュトラ、梵: धृतराष्ट्र, Dhṛtarāṣṭra、巴: Dhataraṭṭha、訳: 国を支える者)または東方天は、仏教における天部の仏神。増長天、広目天、多聞天(毘沙門天)と共に四天王の一尊に数えられる。又は提頭頼吒とも称する。三昧耶形は刀。種子はヂリ(𑖠𑖴、dhṛ)。 持国天は四天王の一体、東方を護る守護神[1]として造像される場合が多く、仏堂内部では尊の向かって右手前に安置されるのが原則である。その姿には様々な表現があるが、日では一般に革製の甲冑を身に着けた唐代の武将風の姿で表される。 持物は刀の場合が多い。例えば胎蔵界曼荼羅では体色は赤く、右手を拳にして右腰に置き、左手に刀を持つ姿で描かれる。また、中国の民間信仰に於いては白い顔で琵琶を持った姿で表される。右図は鎌倉時代作の四天王像のうちの持国天像で、足下に邪鬼を踏みつ

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  • 四天王 - Wikipedia

    この記事は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。 出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。(このテンプレートの使い方) 出典検索?: "四天王" – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL (2017年10月) 四天王(してんのう[注釈 1]、梵: Caturmahārāja[2][チャトゥル・マハーラージャ])は仏教における神々であり、六欲天の第1天、四大王衆天(しだいおうしゅてん、四王天、梵: Cāturmahārājika[3] [チャートゥル・マハーラージカ])の主[1]。四大王(しだいおう)ともいう[4]。 東方の持国天(じこくてん)、南方の増長天(ぞうちょうてん)、西方の広目天(こうもくてん)、北方の多聞天(たもんてん)の四神[1]。それぞれ須弥山・中腹に

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  • 徳川四天王 - Wikipedia

    徳川四天王(とくがわしてんのう)は、安土桃山時代から江戸時代初期に、徳川家康の側近として仕えて江戸幕府の樹立に功績を立てた酒井忠次・多忠勝・榊原康政・井伊直政の4人を武田四天王等と同様に顕彰した呼称。仏教の四天王に準えている。類似の取組みとして更に12人を加えた徳川十六神将がある。 多忠勝・榊原康政・井伊直政の3人は1590年の徳川氏の関東移封から1600年の関ヶ原の戦いまでの時代に徳川氏の家政と関ヶ原の戦いに関わる大名工作・戦後処理に中心となって活躍して幕府の基礎固めに功績があり、特に彼らを指して徳川三人衆もしくは徳川三傑と呼ぶ場合もある。「徳川四天王」の名称はいつから使われたかは定まらない。例えば歴史学者の中村達夫は、「徳川四天王」の名称の使用開始年代は不明とし、「徳川三傑」については『榊原家譜』を出典として1586年9月に使われ始めたとしている。中村によれば、1586年9月に徳川

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  • 小山田虎満 - Wikipedia

    小山田 虎満 / 小山田 昌辰(おやまだ とらみつ / おやまだ まさたつ)は、戦国時代の武将。甲斐国武田氏の家臣。岩殿城の小山田信茂とは同姓だが、別氏族の石田小山田氏。 諱は『甲陽軍鑑』(以下『軍鑑』)『甲斐国志』では「昌辰」としているが、文書上に見られる実名は「虎満」であることが確認されている[1]。出家名は玄怡。文書上では上原伊賀守、小山田備中守としても見られ、『軍鑑』『国志』においても伝えられている。子は昌成(藤四郎、菅右衛門尉)、大学助。 人物の特定[編集] 甲斐国では郡内領主で武田家中においては譜代家老衆の小山田氏がいるが、虎満は別系統の石田小山田氏と称される一族で、石田(甲府市)の地に所領があったため小山田姓を名乗り、「石田の小山田」と称されたという。 父は小山田備中守(諱不明、後述の平林説では「古備中」)という人物で、代々、備中守という受領名を世襲していたようである。この人

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  • 飯富虎昌 - Wikipedia

    飯富 虎昌(おぶ とらまさ)は、戦国時代の武将。甲斐武田氏の重臣。 武田信虎の時代から武田家の譜代家老衆として仕え、信濃国佐久郡内山城を領した。信虎追放後は、信玄に仕えた。信玄の信任厚く、嫡男武田義信の傅役や赤備えを率いる大任を務めたが、義信事件に連座し、切腹させられた。名は虎昌とされるが、義信側近が連署した「二宮祭礼帳」にその名は見当たらず、検討の余地がある[3]。 飯富氏は甲斐源氏の一族で、源義家の四男・源義忠の子・飯富忠宗の末裔と言われる。別説に古代の多氏の末裔説がある。戦国時代の甲斐国では武田信虎家臣に飯富道悦がおり、『勝山記』によれば永正12年(1515年)10月17日に道閲は西郡の国人・大井信達との戦いにおいて子息とみられる「源四郎」と共に戦死している。この飯富源四郎が虎昌・山県昌景兄弟の父親にあたると考えられている。 永正元年(1504年)に生まれたとされているが、生年には諸

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  • 甘利虎泰 - Wikipedia

    甘利 虎泰(あまり とらやす)は、戦国時代の武将。甲斐武田氏の家臣で譜代家老。後代には武田二十四将、信虎時代の武田四天王の一人とされる。 甘利氏は甲斐源氏・一条忠頼の流れをくむ武田氏の庶流にあたる一族。平安時代後期には甘利荘が設置された、甲斐国巨摩郡甘利郷[2]を領していたと考えられている。 板垣信方、飯富虎昌、原虎胤らと共に武田信虎時代から仕え[3]、天文10年(1541年)の晴信による信虎追放の主導的役割を果たし、武田家の宿老で、『甲斐国志』に拠れば最高職位「両職」を務めた譜代家臣とされるが、信虎期の来歴や「両職」としての活動を示す史料は少ない。 史料上の初見は天文9年(1540年)11月20日で、高野山成慶院においての母「妙善禅尼」の供養を行っている[1]。天文10年(1541年)4月3日にもの父とみられる「善由上座」の供養を成慶院で行っている[1]。 『高白斎記』によれば、天文

  • 板垣信方 - Wikipedia

    板垣 信方(いたがき のぶかた)は、戦国時代の武将。武田信虎、晴信(信玄)の2代に仕えた。武田二十四将、武田四天王の一人。家紋は「花菱(裏花菱)」、馬標は「三日月」。 武田晴信が父信虎を追放して家督を継ぐと家臣団の筆頭格となる。晴信が諏訪氏を滅ぼすと諏訪郡代(上原城城代)となり、諏訪衆を率いて信濃経略戦で戦功をあげた。村上義清との上田原の戦いで先陣となり初戦で村上勢を破るが、逆襲を受けて討死した。戊辰戦争で武勇を馳せた板垣退助は信方の嫡男・信憲の末裔[1]。 信方は武田氏の宿将として信虎の代から活躍し、武田家の嫡男・晴信の傅役となる。天文9年(1540年)の信虎の信濃国佐久郡侵攻の際に敵城十数を落とす活躍をした[5]。 拠は於曽郷(山梨県甲州市塩山下於曽)と見られ、天文16年(1547年)に、郷内の所領を向岳庵に寄進した記録が残っている[6]。 天文10年(1541年)には信虎嫡男晴信(

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  • 武田四天王 - Wikipedia

    武田四天王(たけだしてんのう)は、甲斐国の武田信玄・勝頼期の重臣のうち、馬場信房(馬場信春、以下家臣の名は『甲陽軍鑑』等編纂物に見られるもので、括弧内は文書から確認される確実な実名)、内藤昌豊(昌秀)、山県昌景、高坂昌信(春日虎綱)を指す総称。別称に武田四名臣。 いずれも信玄に登用され壮年・晩年期に活躍した主要家臣である。山県昌景、内藤昌豊は譜代家老家の次男以下で、馬場信房は身分の低い甲斐衆、春日虎綱は百姓身分であるなど、他国衆は含まれないが出自は多様である。信玄期の領国拡大に伴い、馬場信房は信濃(現・長野県)牧之島城、内藤昌豊は上野国(現・群馬県)箕輪城、山県昌景は駿河国(現・静岡県静岡市)江尻城、高坂昌信は信濃(現・長野県)海津城のそれぞれ城代となり、城代領を支配した。 馬場信房、山県昌景、内藤昌豊の3人は天正3年の長篠の戦いにおいて討死しているが、高坂昌信は勝頼後期まで存命しており、

  • 春日虎綱 - Wikipedia

    春日 虎綱(かすが とらつな)は、戦国時代の武将。高坂(香坂) 昌信(こうさか まさのぶ)、逃げ弾正の名で知られる甲斐武田氏家臣で譜代家老衆。幼名は春日源五郎(かすがげんごろう)。武田晴信 (信玄)・勝頼に仕え、武田四天王の一人として数えられる。 一般に「高坂昌信」の名前で知られるが、姓については「高坂」または「香坂」姓を用いたのは最も長くて弘治2年(1556年)から永禄9年(1566年)9月までの11年間である。この「高坂」または「香坂」姓は信濃国更級郡牧ノ島の香坂氏の家督を継承していることに由来する。香坂氏は武田領と反武田の北信濃国人・上杉謙信との境目に位置しつつ唯一武田側に属しており、虎綱が養子に入った背景にも香坂氏の川中島地域における政治・軍事的立場が考慮されたと考えられている[2]。 香坂氏に養子に入った時期は『甲陽軍鑑』によれば、永禄4年に香坂氏が上杉謙信に内通し成敗された時点

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  • 山県昌景 - Wikipedia

    山県 昌景/山縣 昌景(やまがた まさかげ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての日の武将。甲斐武田氏の家臣で、譜代家老衆。後代には武田四天王の一人に数えられる。 生涯[編集] 武田家の譜代家老の飯富虎昌の弟とされているが、甥であるとも言われている(詳細は後述)。 戦国時代の飯富氏の一族では武田信虎家臣の飯富道悦の息子とみられる「源四郎」が永正12年(1515年)10月17日に西郡の国人の大井信達との合戦で死去している[1]。この「源四郎」は山県昌景の仮名と一致するため、「源四郎」は虎昌・昌景の父親にあたると考えられている[1]。 『甲陽軍鑑』に拠れば、昌景ははじめ武田信玄の近習として仕え、続いて使番となる。『甲陽軍鑑』では晴信期の信濃侵攻における伊奈攻めにおいて初陣を果たし、神之峰城攻めで一番乗りの功名を立てたとし、天文21年(1552年)、信濃攻めの功績により騎馬150持の侍大将に抜

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  • 内藤昌豊 - Wikipedia

    内藤 昌豊(ないとう まさとよ)は、戦国時代の武将。武田氏の家臣で武田四天王の一人。「内藤昌豊」の名で伝わるが、1977年に服部治則が正しい実名は「内藤 昌秀(まさひで)」であると指摘している[2][注釈 2]。 『武田三代軍記』によれば、大永2年(1522年)、武田信虎の重臣・工藤虎豊(下総守)の次男として生まれたという[3]。父・下総守の事跡は不明であるが、永正5年(1508年)に武田信虎に反乱して敗北し、郡内地方の小山田平三とともに伊豆国韮山の伊勢宗瑞(北条早雲)を頼って逃れた人物に「工藤殿」がおり、これが下総守に相当するとも考えられている[4]。 初見史料は永禄2年(1559年)6月12日で、「工藤源左衛門大尉」を名乗り信玄の側近として活動していることが確認される[3]。永禄6年頃から永禄13年頃まで信濃国深志城を守備している。『甲陽軍鑑』によれば、永禄4年(1561年)の第4次川

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  • 馬場信春 - Wikipedia

    信玄が武田氏の当主となり、その直後から諏訪・伊那(いずれも信濃国)攻めが始まると、これに参加して武功を挙げた。このため信玄から、天文15年(1546年)に信虎時代に信虎に当主・馬場虎貞が殺害されたために名跡が絶えていた、甲斐武田氏譜代の名門である馬場氏を継ぐことを許された。このとき、同時に50騎持の侍大将となり、名も景政から信房と改めた。 その後も信玄の信濃攻めに参加して武功を挙げたため、永禄2年(1559年)に120騎持に加増され、譜代家老衆の一人として列せられた。永禄4年(1561年)の川中島の戦いでは、上杉軍の背後を攻撃する別働隊の指揮を任されたと言われている。永禄5年(1562年)には前年に隠退した原虎胤にあやかって美濃守の名乗りを許され、馬場美濃守信春と改名する。 永禄11年(1568年)の駿河侵攻にも参加する。永禄12年(1569年)の三増峠の戦いでは、先鋒として北条軍と戦い、

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