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2012年4月22日のブックマーク (35件)

  • 諏訪頼重 (戦国時代) - Wikipedia

    諏訪 頼重(すわ よりしげ)は、戦国時代の武将。信濃国の戦国大名。諏訪氏の第19代当主。諏訪大社大祝(おおほうり)。上原城城主。諏訪頼隆の子。武田勝頼の外祖父にあたる。信濃四大将のひとり。 生涯[編集] 上原城居館跡の石碑 永正13年(1516年)、諏訪頼隆の嫡男として生まれる。幼少時には大祝を務めた。のちに大祝職は弟の諏訪頼高に譲っている。 享禄3年4月18日(1530年5月15日)、父の頼隆が死去したので、頼重は祖父の頼満から嫡孫として後継者に指名された。 天文8年(1539年)12月9日、頼満が死去したので、諏訪家の家督を継ぐ[1]。 諏訪氏は頼満・頼隆の頃に甲斐の武田氏と抗争し、反武田氏の国人衆と結び甲斐国内へ侵攻していたが、天文4年(1535年)に信虎と頼満は和睦し、天文9年(1540年)11月、武田信虎の三女・禰々を娶り、武田家と婚姻関係を結んでいた[2]。 天文11年(154

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  • 島津義久 - Wikipedia

    島津 義久(しまづ よしひさ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。薩摩国の守護大名・戦国大名。島津氏第16代当主。 島津氏の家督を継ぎ、薩摩・大隅・日向の三州を制圧する。その後も耳川の戦いにおいて九州最大の戦国大名であった豊後国の大友氏に大勝し、また沖田畷の戦いでは九州西部に強大な勢力を誇った肥前国の龍造寺氏を撃ち破った。 義久は優秀な3人の弟(島津義弘・歳久・家久)と共に、精強な家臣団を率いて九州統一を目指し躍進し、一時は筑前・豊後の一部を除く九州の大半を手中に収め、島津氏の最大版図を築いた。しかし、豊臣秀吉の九州征伐を受け降伏し、領である薩摩・大隅2か国と日向諸県郡を安堵される。豊臣政権・関ヶ原の戦い・徳川政権を生き抜き、隠居後も家中に強い政治力を持ち続けた。 生涯[編集] 幼少時[編集] 天文2年(1533年)2月9日、第15代当主・島津貴久の嫡男として伊作城に生まれ、幼名

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  • 北条時政 - Wikipedia

    北条 時政(ほうじょう ときまさ、平時政[1](たいらの ときまさ))は、平安時代末期から鎌倉時代初期の日の武将。鎌倉幕府初代執権。北条氏の一門。伊豆国の在地豪族の北条時方もしくは北条時兼の子。北条政子、北条義時の父。得宗家初代当主。 家系は桓武平氏平直方流を自称する北条氏であるが、直方流は仮冒で伊豆国の豪族出身という説もある。 名称[編集] 北条時政ではなくもっぱら「北条四郎」を名乗り、「北条殿」と呼ばれ、正治2年(1200年)4月の任官後は「遠州」と呼ばれている(『吾鏡』)[1]。ただし「北条四郎」の呼称は当時の史料に基づくものだろうが、「北条殿」は鎌倉後期の『吾鏡』編纂時にすでに覇権を確立していた北条氏の祖の呼称として工夫したものだろうとの見解もある。源頼朝の生前には無位無官だった時政は官位を有する御家人[注 2]より序列が下であり、通称である「北条四郎」の名が官位を有する御家

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  • 北条政子 - Wikipedia

    北条 政子(ほうじょう まさこ、平政子[1](たいらの まさこ)、保元2年(1157年) - 嘉禄元年7月11日(1225年8月16日))は、平安時代末期から鎌倉時代初期の女性。鎌倉幕府を開いた源頼朝の御台所。子は頼家、実朝、大姫、三幡。 周囲の反対を押し切り、伊豆の流人だった頼朝のとなった。夫の死後に落飾して尼御台(あまみだい)と呼ばれた。法名は安養院(あんにょういん)[2]。 頼朝亡きあと征夷大将軍となった頼家、実朝が相次いで暗殺された後は、鎌倉殿として京から招いた幼い三寅(後の藤原頼経)の後見となって幕府の実権を握り、世に尼将軍(あましょうぐん)と称された。 生涯[編集] この節は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。(このテンプレートの使い方) 出典検索?: "北条政子" – ニュース · 書籍 · スカラー 

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  • 斯波氏 - Wikipedia

    斯波氏(しばうじ、しばし)は、武家・華族だった日の氏族。室町幕府将軍足利氏の一門で細川氏・畠山氏と交替で管領に任ぜられる有力守護大名であった[2]。越前・尾張・遠江などの守護を世襲したが、戦国時代になると越前は守護代朝倉氏に、遠江は今川氏に奪われ、尾張の織田氏に擁されるも戦国末期に織田信長に放逐されて滅亡した[3]。明治になると斯波氏の末裔と称する加賀藩士の津田氏が斯波に改姓して男爵に叙された[4]。 足利尾張家[編集] 嫡子から庶子へ[編集] 斯波氏は、鎌倉時代に足利泰氏の長男家氏が陸奥国斯波郡(しわぐん、現・岩手県盛岡市の一部および紫波郡)を所領とし、宗家から分かれたのに始まる[2]。家氏の同母弟兼氏(義顕)は、室町時代に九州探題を世襲する渋川氏の祖である。 家氏の母は、執権北条氏の有力一門名越氏の出身で、当初は泰氏の正室であった。しかし、兄の名越光時らが嫡流の北条得宗家に反乱を起こ

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  • 源義仲 - Wikipedia

    源 義仲 (みなもと の よしなか)は、平安時代末期の信濃源氏の武将。河内源氏の一族、源義賢の次男。源頼朝・義経兄弟とは従兄弟にあたる。木曾 義仲(きそ よしなか)の名でも知られる[3][4][5]。『平家物語』においては朝日将軍[6][7](あさひしょうぐん、旭将軍とも)と呼ばれている。 以仁王の令旨によって挙兵、都から逃れたその遺児を北陸宮として擁護し、倶利伽羅峠の戦いで平氏の大軍を破って入京する。連年の飢饉で荒廃した都の治安回復を期待されたが、治安の回復の遅れと大軍が都に居座ったことによる糧事情の悪化、皇位継承への介入などにより後白河法皇と不和となる。法住寺合戦に及んで法皇と後鳥羽天皇を幽閉して征東大将軍(征夷大将軍とも)[注釈 1]となるが、源頼朝が送った源範頼・義経の軍勢により、粟津の戦いで討たれた。 生涯[編集] 「大日六十余将」より『信濃 旭将軍源義仲』、大判錦絵 生い立

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  • 橘氏 - Wikipedia

    有良朝臣 広岡朝臣 薄家(公家) 武者小路家(公家)[1] 青山家(地下家) 深井家(地下家) 和田家(地下家) 袖岡家(地下家) 角田家(地下家) 橘氏 (筑後国)(武家) 岩室氏(武家) 渋江氏(武家) 中村氏(武家) 牛島氏(武家) 中橋氏(武家) 𡈽橋氏(武家) 楠木氏?(武家、伝承) 石見領家氏(武家)など 橘氏(たちばなうじ)は、日の氏族のひとつ。姓(カバネ)は宿禰、のち朝臣。 飛鳥時代末期に県犬養三千代(橘三千代)および葛城王(橘諸兄)・佐為王(橘佐為)を祖として興った皇別氏族[2]。姓の代表的なものの一つとして源氏・平氏・藤原氏とともに「源平藤橘」(四姓)と総称されている[3]。 平安時代中期まで複数の議政官を輩出したが以降は振るわず、中世以降の武家政権では武士にその姿を変えていった。橘姓を称した武家としては、鎌倉幕府創設期に源頼朝の側近となった橘公長・公業親子や、南北

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  • 北条氏康 - Wikipedia

    北条 氏康(ほうじょう うじやす)は、戦国時代の武将。相模国の戦国大名。後北条氏第2代当主・北条氏綱の嫡男として生まれる。後北条氏第3代当主。母は氏綱の正室の養珠院[1]。姓名は平氏康[2]。 関東から山内・扇谷両上杉氏を追うなど、外征に実績を残すと共に、武田氏・今川氏との間に甲相駿三国同盟を結んで関東を支配し、上杉謙信を退け、後世につながる民政制度を充実させるなど、政治的手腕も発揮した[3]。後北条氏当主として19年間、隠居後も後継者である第4代当主北条氏政との共同統治を12年間続け、30年以上にわたって後北条氏を率いた[4]。 生涯[編集] 家督相続まで[編集] 出生[編集] 後北条初代として扱われる伊勢宗瑞(北条早雲)が存命中の永正12年(1515年)、第2代当主・北条氏綱(当時は伊勢氏綱)の嫡男「伊勢伊豆千代丸」として生まれる[5]。氏康が生まれた当時は早雲が当主であり、相模の統一

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  • 北条早雲 - Wikipedia

    北条 早雲 / 伊勢 宗瑞(ほうじょう そううん / いせ そうずい)は、室町時代中後期(戦国時代初期)の武将。戦国大名となった後北条氏の祖・初代である。「北条早雲」の名で広く知られているが、実際は存命中には「伊勢」の姓を名乗っていた。 名前[編集] 伊勢氏の一族であり、号は、早雲庵宗瑞(そううんあんそうずい)。伊勢から姓名を変えて北条を称したのは早雲の死後、嫡男・氏綱の代になってからである。後世では、一般に「北条早雲」の名で知られるが、人自ら北条早雲と名乗ったことはなく、生前の署名も「伊勢宗瑞」や「伊勢新九郎」などであった。 後述の新九郎という名であることは古くから判明していたものの、諱は長らく不確定で、長氏(ながうじ)を筆頭に、氏茂(うじしげ)・氏盛(うじもり)などとも伝えられてきたが、現在では盛時(もりとき)が定説となっている[3]。盛時が定説となる以前は長氏が最有力であったため、

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  • 平重盛 - Wikipedia

    『紫宸殿の橘』(尾形月耕『日花図絵』)平重盛と源義平 平 重盛(たいら の しげもり)は、平安時代末期の武将・公卿。平清盛の嫡男(長男)。 保元・平治の乱で若き武将として父・清盛を助けて相次いで戦功を上げ、父の立身に伴って累進していき、最終的には左近衛大将、正二位内大臣にまで出世した。嫡男ではあったが継室の時子の子である宗盛や徳子とは母が異なり有力な外戚の庇護はなく、正室が藤原成親の妹・経子であったため、成親失脚後は一門のなかでは孤立気味であった。政治的には平氏一門の中で最も後白河法皇に近い立場にあった。清盛の後継者として期待されながらも、清盛と後白河法皇の対立では有効な対策を取ることができないまま、父に先立ち病没した。 六波羅小松第に居を構えていたことから、小松殿ないし小松内大臣とも、またその邸宅に48の灯籠(灯篭)を建てていたことから灯籠大臣とも称された。 生涯[編集] 歌川国芳画「

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  • 平清盛 - Wikipedia

    平 清盛(たいら の きよもり、旧字体:平󠄁 淸盛󠄁)は、平安時代末期の日の武将、公卿、貴族、棟梁。 伊勢平氏の棟梁・平忠盛の嫡男として生まれ、平氏棟梁となる。保元の乱で後白河天皇の信頼を得て、平治の乱で最終的な勝利者となり、武士としては初めて太政大臣に任じられる。日宋貿易によって財政基盤の開拓を行い、宋銭を日国内で流通させ通貨経済の基礎を築き、日初の武家政権を打ち立てた(平氏政権)。 平氏の権勢に反発した後白河法皇と対立し、治承三年の政変で法皇を幽閉して徳子の産んだ安徳天皇を擁し政治の実権を握るが、平氏の独裁は公家・寺社・武士などから大きな反発を受け、源氏による平氏打倒の兵が挙がる中、病没した。 生涯[編集] 伊勢平氏の嫡男[編集] 永久6年1月18日[注 1](1118年2月10日)、清盛は伊勢平氏の棟梁である忠盛の嫡男として生まれる。出身地は伊勢産品[1](現在の津市)とい

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  • 平氏 - Wikipedia

    平氏(たいらうじ、へいし、へいじ たいらし)は、日の皇別氏族で、平(たいら)の姓を賜姓された氏族。姓(カバネ)は朝臣。 平安時代前期に創設された氏族であり、桓武平氏を含め4つの流派がある。家紋は揚羽蝶を中心に使用した。 概説[編集] 姓の代表的なものの一つとして源氏・藤原氏・橘氏とともに「源平藤橘」(四姓)と総称されている。ただし、平氏は他の三姓と異なり、氏長者が存在した記録はない[1]。 平姓を受けた流れは、大きく分けて桓武天皇から出た桓武平氏、仁明天皇から出た仁明平氏、文徳天皇から出た文徳平氏、光孝天皇から出た光孝平氏の四流がある。特に著名なのが桓武平氏であり、このうち平高望の子孫は武士として、平高棟の子孫は堂上家として活躍した。 起源[編集] 「平」という名称の由来は諸説あるが[注釈 1]、有力な説は太田亮が唱えて藤木邦彦・佐伯有清らが発展させた説で、最初の平氏であった桓武平氏の祖

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  • 平将門 - Wikipedia

    平 将門(たいら の まさかど、旧字体:平󠄁 將門、延喜3年〈903年〉? - 天慶3年2月14日〈940年3月25日〉)は、平安時代の関東の豪族。 日の第50代桓武天皇四代の皇胤であり、平氏の姓を授けられた高望王の三男の鎮守府将軍平良将の子。 下総国・常陸国に広がった平氏一族の抗争から、やがては関東諸国を巻き込む争いへと進み、その際に国府を襲撃して印鑰を奪い、京都の朝廷 朱雀天皇に対抗して「新皇」を自称して東国の独立を標榜。朱雀天皇の朝敵となった。 しかし即位後わずか2カ月たらずで藤原秀郷・平貞盛らにより討伐された(承平天慶の乱)。 死後は怨霊になり、日三大怨霊の一人として知られる。 後に御首神社・築土神社・神田明神・国王神社などに祀られる。 生涯[編集] この節は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。(このテン

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  • 竹内家 - Wikipedia

    竹内家(たけのうちけ)は清和源氏平賀氏庶流の公家・華族の家。公家としての家格は半家、華族としての家格は子爵家[1]。 概要[編集] いわゆる堂上源氏で家系は清和源氏の一家系・河内源氏傍流の信濃源氏平賀氏の一族の流れである。大内惟信の系統である竹内信治(左近将監)・氏治(竹内大夫)父子が竹内を称したのに始まる。家業は弓箭と笙と和歌。 久我家の諸大夫だった氏治の子孫の正三位大膳大夫・竹内季治(1518年 – 1571年)の時代、将軍・足利義輝の執奏によって竹内家は堂上家に加えられた。しかし、季治は織田信長のことを「熟したイチジクの如く木より地上に落ちるだろう」と評したために信長の逆鱗に触れ、元亀2年(1571年)9月18日に近江永原で斬首された[2]。 竹内惟庸は冷泉派の歌人で歌道の名人として知られた。その継嗣・惟永以後は冷泉家一門の藤谷家からの養子が続き、冷泉派の和歌の家となった。 極位極官

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  • 益田氏 - Wikipedia

    益田七尾城 三宅御土居跡 須佐益田家邸宅 萩市須佐にある益田家墓所 益田藤兼坐像 益田元祥像(狩野松栄作) 益田氏(ますだし)は、武家・華族だった日の氏族。石見益田を拠としていた武家。姓は藤原氏といわれる。はじめ浜田の御神に居館を構えたことから御神氏(みかもとし)を称した。後に毛利氏に臣従し、関ヶ原の戦い後は長門須佐を領した。維新後華族に列し男爵に叙される。一族の通字は「兼」。家紋は「上り藤に久の字」。 歴史[編集] 初代は藤原忠平の9世の子孫、石見守藤原国兼といわれる。国兼の先祖は藤原実頼とも藤原真夏とも(この場合は藤原実綱の孫)される[2]。国兼の父は、有隆とも久通とも有定ともされる[3]。永久2年(1114年)、石見に赴任するために下向。任期終了の永久6年(1118年)以降も石見に留まり続け、そのまま土着豪族化した。その際、石見上府(浜田御神)に拠点を構え、御神氏を称し

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  • 高畠藩 - Wikipedia

    高畠藩(たかはたはん)は、出羽国(後の羽前国)置賜郡(現在の山形県東置賜郡高畠町)に存在した藩。ただし、現在の高畠町の全域を領地としていたわけではなく、町の中心部にあった高畠村、小郡山村、泉岡村、塩森村、相森村、柏木目村の6村のみであった。高畠城は上杉氏が管理していたが、織田氏は無城大名格のため、高畠陣屋を藩庁とした。上杉氏は織田領以外の町域を高畠城で統治した。嘉永元年(1848年)から米沢藩領の上杉氏の預り地は、織田氏高畠藩領より広大で、屋代のみでも最大で3万7千石、ほかに村山郡があった。 藩史[編集] 藩主家は織田氏である。明和4年(1767年)8月、上野国小幡藩主織田信邦が明和事件に連座したため、信邦は幕命により強制隠居の上、蟄居を命じられた。家督は弟の信浮が相続し、小幡から高畠への移封を命じられた。封地としては、上述の高畠の六村と天童など村山郡の一部、信夫郡の一部。なお、この時にそ

  • 久世家 - Wikipedia

    久世家(くぜけ)は、村上源氏久我家庶流の公家、華族の家。公家としての家格は羽林家、華族としての爵位は子爵[1]。 家の歴史[編集] 久我家19代当主の久我敦通(権大納言)の次男通式(右少将)に発する[2][3]。通式が一家を立てて久世と号するようになった[3]。公家としての家格は羽林家、新家、外様[2]。江戸時代の家禄は200石[2][注釈 1]。家業は有職故実[4]。 代々近衛府の役に任じられ、5代通夏以後はいずれも権大納言に昇進した[4]。幕末の通煕は公武合体派として活動して議奏を務めた[4]。 明治2年(1869年)6月17日の行政官達で公家と大名家が統合されて華族制度が誕生する久世家もに旧公家として華族に列し[5][6]、明治17年(1884年)7月7日の華族令の施行で華族が五爵制になると、同月8日に大納言直任の例がない旧堂上家[注釈 2]として通煕の子通章に子爵位が授爵された[8

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  • 今川義元 - Wikipedia

    今川 義元(いまがわ よしもと)は、戦国時代の武将。駿河国および遠江国の守護大名・戦国大名。今川氏第11代当主。姉妹との婚姻関係により、武田信玄や北条氏康とは義理の兄弟にあたる。「海道一の弓取り」の異名を持つ東海道の広大な地域の支配者[2]。姓名は源義元。 寄親・寄子制度を設けての合理的な軍事改革等の領国経営のみならず、外征面でも才覚を発揮して今川氏の戦国大名への転身を成功させた。所領も駿河・遠江から、三河や尾張の一部にまで領土を拡大させた。戦国時代における今川氏の最盛期を築き上げるも、尾張国に侵攻した際に行われた桶狭間の戦いで織田信長軍に敗れて毛利良勝(新助)に討ち取られた。 生涯[編集] 太平記英勇伝三:今川治部大輔義元(落合芳幾作) 内乱と家督相続[編集] 永正16年(1519年)、今川氏親の三男として生まれる[注釈 2]。母は父の正室である中御門宣胤の娘(寿桂尼)。ただし、義元は

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  • 細川護熙 - Wikipedia

    細川 護熙(ほそかわ もりひろ、1938年〈昭和13年〉1月14日 - )は、日政治家、陶芸家、茶人。第79代内閣総理大臣。 朝日新聞記者を経て、政治家となり、参議院議員(3期)、熊県知事(第45・46代)、衆議院議員(2期)、内閣総理大臣(第79代)、日新党代表(初代)、フロム・ファイブ代表(初代)、学校法人瓜生山学園京都造形芸術大学学園長(2011年 - 2014年)を歴任した。熊県出身で総理大臣に就任した2人目の人物。 概要[編集] 旧肥後熊藩細川家の第18代当主。 上智大学法学部卒業。学位は法学士。朝日新聞社の記者を経て第9回参議院議員通常選挙に自由民主党公認候補として全国区から立候補し初当選。その後、熊県知事に転じ、2期8年務めた。知事退任後、日新党を結成して代表に就任、1992年参院選で参議院議員として再び国政に戻る。 1993年7月の第40回衆議院議員総選挙に

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  • 細川藤孝 - Wikipedia

    細川 藤孝(ほそかわ ふじたか) / 長岡 藤孝(ながおか ふじたか) / 長岡 幽斎(ながおか ゆうさい) / は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将、戦国大名、歌人。幼名は熊千代(くまちよ)。元服して藤孝を名乗りその後長岡に改姓。雅号は幽斎。法名を玄旨という。なお幽斎は1573年に長岡に改姓し[4]、1582年に幽斎を名乗り、細川姓に復したのは幽斎死後の忠興の代である[5]。 初め室町幕府13代将軍・足利義輝に仕え、その死後は織田信長の協力を得て15代将軍・足利義昭の擁立に尽力した。後に義昭が信長に敵対して京都を追われると、信長に従って名字を長岡に改め、勝竜寺城主を経て丹後国宮津11万石の大名となった。能寺の変の後、信長の死に殉じて剃髪して家督を忠興に譲ったが、その後も豊臣秀吉、徳川家康に仕えて重用され、近世大名肥後細川家の礎となった。また、二条流の歌道伝承者三条西実枝から古今伝

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  • 佐竹義宣 (右京大夫) - Wikipedia

    太田城址 佐竹 義宣(さたけ よしのぶ)は、戦国時代から江戸時代前期にかけての武将、大名。佐竹氏の19代当主。 出羽国久保田藩(秋田藩)初代藩主。佐竹義重の長男。母は伊達晴宗の娘。伊達政宗は母方の従兄にあたる[1]。官位は従四位上・左近衛中将、右京大夫。 生涯[編集] 幼少期[編集] 元亀元年(1570年)7月16日、佐竹義重の長男として常陸国太田城に生まれた[1]。義宣が誕生した頃、父の義重は那須氏を攻めていたが、元亀3年(1572年)に那須氏と和睦した。この和睦は那須氏当主・那須資胤の娘を義宣のに迎えること等が条件となっていた。当時、義宣は3歳であった[2]。 天正13年(1585年)4月、佐竹氏が宇都宮氏と共に壬生氏を攻めた際に初陣を行ったと伝えられているが、当時の壬生氏は佐竹氏の傘下で、同年の暮れに北条氏に寝返っていることから、実際の戦いは翌年である天正14年(1586年)4月の

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  • 武田信玄 - Wikipedia

    竹松、信玄、犬千代、信繁、信基、信廉、信顕、一条信龍、宗智、松尾信是、河窪信実、信友、定恵院、南松院殿(穴山信友正室)、禰々、花光院(浦野友久室)、亀御料人(大井信為正室)、女(下条信氏正室)、女(禰津常安室)、女(葛山氏室)、菊御料人(菊亭晴季室) 武田 信玄(たけだ しんげん) / 武田 晴信(たけだ はるのぶ)は、戦国時代の武将、甲斐の守護大名・戦国大名。甲斐源氏第19代当主。武田氏の第16代当主。諱は晴信、通称は太郎(たろう)。正式な姓名は、源 晴信(みなもと の はるのぶ)。表記は、「源朝臣武田信濃守太郎晴信」。「信玄」とは(出家後の)法名で、正式には徳栄軒信玄。 甲斐の守護を務めた武田氏の第18代当主・武田信虎の嫡男。先代・信虎期に武田氏は守護大名から戦国大名化して国内統一を達成し、信玄も体制を継承して隣国・信濃に侵攻する。その過程で、越後国の上杉謙信(長尾景虎)と五次にわたる

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  • 足利尊氏 - Wikipedia

    足利 尊氏(あしかが たかうじ)は、鎌倉時代末期から室町時代(南北朝時代)前期の日の武将。室町幕府初代征夷大将軍[2](在職:1338年 - 1358年)。鎌倉幕府の御家人。足利貞氏の次男。足利将軍家の祖。姓名は源 尊氏(みなもと の たかうじ)。正式名称は足利又太郎源尊氏(あしかがまたたろうげんたかうじ)。 概要[編集] 河内源氏義国流足利氏宗家の8代目棟梁。足利貞氏の次男として生まれる。歴代当主の慣例に従い、初めは得宗・北条高時の偏諱を受け高氏「たかうじ」(源高氏)と名乗っていた。佐々木道誉も同時期に同様にして名乗った佐々木高氏(源高氏)[3][4]と姓(源氏)名前ともに同姓同名。共に鎌倉幕府を打倒した新田義貞は同族である。正慶2年(1333年)に後醍醐天皇が伯耆国船上山で挙兵した際、その鎮圧のため幕府軍を率いて上洛したが、丹波国篠村八幡宮で幕府への反乱を宣言、六波羅探題を滅ぼし

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  • 源義家 - Wikipedia

    源 義家(みなもと の よしいえ)は、平安時代中期から後期の武将。源頼義の長男。八幡太郎の通称でも知られる。後に鎌倉幕府を開いた源頼朝や室町幕府を開いた足利尊氏などの祖先に当たる。 比叡山等の強訴の頻発に際し、その鎮圧や白河天皇の行幸の護衛に活躍するが、陸奥国守となった時、清原氏の内紛に介入して後三年の役を起こし、朝廷に事後承認を求める。その後約10年間は逼塞状態であったが、白河法皇の意向で院昇殿を許された。 その活動時期は摂関政治から院政に移り変わる頃であり、政治経済はもとより社会秩序においても大きな転換の時代にあたる。このため歴史学者からは、義家は新興武士勢力の象徴ともみなされ、後三年の役の朝廷の扱いも「白河院の陰謀」「摂関家の陰謀」など様々な臆測がされてきた。生前の極位は正四位下。 生涯[編集] 源頼義の長男として、河内源氏の拠地である河内国石川郡壺井(現・大阪府羽曳野市壺井)の香

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  • 新田義貞 - Wikipedia

    新田 義貞(にった よしさだ)は、鎌倉時代後期から南北朝時代にかけての御家人・武将。姓名は源 義貞(みなもと の よしさだ)。河内源氏義国流新田氏宗家の8代目棟梁。父は新田朝氏、母は不詳(諸説あり、朝氏の項を参照)。官位は正四位下、左近衛中将。明治15年(1882年)8月7日贈正一位。建武の元勲の1人。 概要[編集] 上野国新田荘の御家人であったが、元弘の乱(1331年 - 1333年)では後醍醐天皇に呼応して、足利高氏の名代・足利千寿王(後の足利義詮)を総大将とする鎌倉討伐軍に参加する。義貞の軍はいち早く鎌倉に侵攻し、東勝寺合戦で鎌倉幕府・北条得宗家の隊を滅ぼすという軍功を立てた。 後醍醐天皇による建武の新政樹立の立役者の一人となった[3]。しかし、建武の新政樹立後、同じく倒幕の貢献者の一人である足利尊氏と対立し[4]、尊氏と後醍醐天皇との間で建武の乱が発生すると、後醍醐天皇により事

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  • 源氏 - Wikipedia

    宇多源氏: 佐々木道誉 乃木希典 村上源氏: 源通親 北畠親房 岩倉具視 清和源氏: 源頼朝(河内源氏) 木曾義仲(木曾源氏) 源義経(河内源氏) 足利尊氏(足利氏) 武田信玄(武田氏) 明智光秀(土岐氏) 徳川家康(新田氏)(自称) 細川護熙(細川氏) その他は源氏の人物一覧を参照 源氏(みなもとうじ/げんじ)は、日の天皇の皇子・皇孫の中から臣籍降下し、「源(みなもと)」の姓を授けられた氏族を指す。嵯峨天皇以降に現れた。 姓(カバネ)は朝臣(源朝臣(みなもとのあそん))。新撰姓氏録や華族の宗族制度における分類は皇別。 概説[編集] 皇族が臣籍降下(臣下の籍に降りること)の際に「源」の賜姓を受けたもので、嵯峨天皇から分かれた嵯峨源氏や清和天皇からの清和源氏から、江戸時代に成立した正親町源氏に至るまで数百年間にかけて二十一の系統(二十一流)があるとされている。文献によってはこの他に淳和源

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  • 大友義鎮 - Wikipedia

    大友 義鎮(おおとも よししげ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将・大名。キリシタン大名でもある。大友氏の21代当主。宗麟(そうりん)の法号で知られている。洗礼名は、ドン・フランシスコ。豊後の王と称された。 父は20代当主・大友義鑑。母は公家の坊城氏の娘とする説がある。 弟に大内義長、塩市丸、親貞など[注釈 1]。子に義統(吉統)、親家、親盛など。 中国明朝への遣明船の派遣をはじめ、琉球、カンボジア、ポルトガルを相手とした海外貿易による経済力、優れた武将陣、巧みな外交[注釈 2][注釈 3]により版図を拡げ、大内氏や毛利氏をはじめとする土豪・守護大名などの勢力が錯綜する戦国時代の北九州東部を平定した。 当初は禅宗に帰依していたが、後にキリスト教への関心を強め、ついに自ら洗礼を受けた。最盛期には九州6か国を支配して版図を拡げた。しかし、薩摩から北上した島津義久に敗れ、晩年には豊臣秀吉

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  • 斎藤道三 - Wikipedia

    斎藤 道三 / 斎藤 利政(さいとう どうさん / さいとう としまさ、明応3年〈1494年?〉- 弘治2年4月20日〈1556年5月28日〉)は、戦国時代の武将、美濃の戦国大名、道三流斎藤氏初代当主。 名としては、長井規秀(新九郎)・長井秀龍(新九郎)・斎藤利政(新九郎)・道三などが伝わるが、書状などに現れているのは、藤原(長井)規秀・斎藤利政・道三などのみである。現在では坂口安吾「信長」や山岡荘八「織田信長」といった小説の影響により、美濃の蝮という綽名でも知られる。(ただしこの異名は同時代の資料には一切記録されておらず、小説の創作である) 父は松波庄五郎または松波基宗(後述)、子に義龍[注釈 2]・孫四郎(龍元[3]、龍重[4])・喜平次(龍之[3]、龍定[4])・利堯(利堯・玄蕃助)[注釈 3]、長龍(利興・利治)・日饒(妙覚寺19世住職)・日覚(常在寺6世住職)。また、長井道利[注

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  • 伊達政宗 - Wikipedia

    伊達 政宗(だて/いだて[3][4][5] まさむね)は、出羽国(山形県)と陸奥国(宮城県・福島県)の武将・戦国大名。伊達氏の第17代当主。近世大名としては、仙台藩(宮城県・岩手県南部)の初代藩主である。 生涯[編集] 小室達作(第2代)伊達政宗騎馬像(仙台市・仙台城丸、2004年10月撮影) 出生から初陣まで[編集] 永禄10年8月3日(1567年9月5日)[1]、出羽国米沢城で、伊達氏第16代当主・伊達輝宗(てるむね)と、正室である最上義守の娘・義姫(最上義光の妹)の嫡男として生まれた。幼名は梵天丸[6]。生誕地は通説では米沢城であるが館山城とする学説もある[7]。 天正5年(1577年)11月15日、元服して伊達藤次郎政宗と名付けられる。諱の「政宗」は父・輝宗が伊達家中興の祖といわれる室町時代の第9代当主・大膳大夫政宗にあやかって名づけたもので、この大膳大夫政宗と区別するため藤次郎

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  • 上杉謙信 - Wikipedia

    上杉 謙信(うえすぎ けんしん) / 上杉 輝虎(うえすぎ てるとら)は、戦国時代に越後国(現在の新潟県)など北陸地方を支配した武将・大名[1]。 江戸時代から現代に至るまで私利私欲に拘泥しない[注釈 3]「義の武将」という印象が強い。一方で、現代では利害を冷徹に判断しながら、領土拡大に努力した戦国大名として捉える研究者も多い[注釈 4](「後述」)。 生涯[編集] 出生から初陣まで[編集] 春日山城 林泉寺 享禄3年(1530年)1月21日[3]、越後守護代・長尾為景[4](三条長尾家)の四男(または次男、三男とも[4])として、春日山城に生まれる。母は同じく越後栖吉城主・長尾房景(古志長尾家)の娘・虎御前。主君・上杉定実から見て「の甥」であり、「娘婿(長尾晴景)の弟」にあたる。幼名の虎千代は、庚寅年生まれのために名づけられた[4][5][6]。 天文5年(1536年)8月、長尾為景は

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  • 上杉憲政 - Wikipedia

    上杉 憲政(うえすぎ のりまさ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての上野国の大名。室町幕府の関東管領(1531年-1561年)。山内上杉家15代当主。北条氏康に敗北した後、長尾家の長尾景虎(のちの上杉謙信)を養子とし、上杉家の家督と関東管領職を譲った。謙信の死後、上杉家の家督相続をめぐり争われた御館の乱で戦死した。 ※憲当(読み同じ、旧字体:憲當)、光徹とも名乗っているが、よく知られた憲政の名で統一する。 生涯[編集] 家督相続[編集] 大永3年(1523年)、上杉憲房の子として生まれる。大永5年(1525年)に父が死去したとき、まだ3歳という幼少であるため、父の養子である上杉憲寛(古河公方・足利高基の子、初名:足利晴直)が家督を継いで当主となった。家臣の古幡良家(畑将監)の娘を養女とする。 享禄4年(1531年)、関東享禄の内乱の結果、先代実子の憲政を擁立する成田氏・安中氏・藤田氏・小

  • 藤原頼長 - Wikipedia

    藤原 頼長(ふじわら の よりなが)は、平安時代末期の公卿。藤原北家、摂政関白太政大臣藤原忠実の三男。官位は従一位・左大臣、贈正一位、太政大臣。 通称は宇治左大臣。兄で関白・忠通と対立し、父・忠実の後押しにより藤原氏長者・内覧として旧儀復興・綱紀粛正に取り組んだが、その苛烈で妥協を知らない性格により悪左府(あくさふ)の異名を取った[1]。後に鳥羽法皇の信頼を失って失脚。政敵の美福門院・忠通・信西らに追い詰められ、保元の乱で敗死した。男色始め当時の風俗を克明に記した日記『台記』でも有名。 生涯[編集] 摂関家の才子[編集] 幼名は菖蒲若(あやわか)。大治5年(1130年)、藤原敦光が持参した複数の名字の中から中御門宗忠が「御堂(道長)宇治殿(頼通)御名字なり」という理由で選び、「頼長」と命名された(『中右記』正月3日条)。元服して正五位下に叙せられ侍従・近衛少将・伊予権守に任官。同年、右近衛

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  • 藤原不比等 - Wikipedia

    藤原 不比等(ふじわら の ふひと)は、飛鳥時代から奈良時代初期にかけての公卿・政治家。諡号は淡海公(たんかいこう)で近江国に封じられた。正史以外で文忠公を記す史料もある。 草壁皇子と持統から元正に至る4代の天皇に仕え、大宝律令や日書紀の編纂に関わり、文武から元正に至る3代の天皇の擁立に貢献した。 藤原鎌足の次男だが、『興福寺縁起』『大鏡』『公卿補任』『尊卑分脈』では、天智天皇の落胤と記されている(#天智天皇の皇胤説)。名を史(ふひと)と記す文献もある(#姓名について)。 生涯[編集] 中臣鎌足の次男として生まれたため、少年時代はまだ中臣氏を名乗っていた。11歳の時、父・鎌足が死去。鎌足が亡くなる直前に藤原氏に改姓した際に不比等がこれを継承している。父の生前の関係から、近江朝に近い立場にいたが、壬申の乱の時は、数えで14歳であったために何の関与もせず、近江朝に対する処罰の対象にも天武朝に

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  • 藤原鎌足 - Wikipedia

    藤原 鎌足 / 中臣 鎌足(ふじわら の かまたり / なかとみ の かまたり)は、飛鳥時代の貴族・政治家。中臣御子の子。母は大伴智仙娘。日歴史における最大氏族「藤原氏」の始祖。 大化の改新の中心人物であり、改新後も中大兄皇子(天智天皇)の腹心として活躍し、藤原氏繁栄の礎を築いた。『藤氏家伝』には「偉雅、風姿特秀」と記されている。字は仲郎。 名称[編集] 元々は中臣氏の一族で初期の頃には中臣 鎌子(なかとみ の かまこ)と名乗っていた(欽明天皇朝で物部尾輿と共に排仏を行った中臣鎌子とは別人)。その後、鎌足(かまたり)に改名。そして臨終に際して大織冠とともに藤原姓を賜った。つまり、生きていた頃の彼を指す場合は「中臣鎌足」を用い、「藤原氏の祖」として彼を指す場合には「藤原鎌足」を用いる。青木和夫の研究によれば、鎌子から鎌足へと「改名」したというのは後世の解釈であり、来の名は“鎌”一文字

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  • 藤原氏 - Wikipedia

    藤原氏(ふじわらし、旧字体:藤󠄁原氏)は、日の氏族。 姓(カバネ)は朝臣。略称は藤氏(とうし)。 飛鳥時代の藤原鎌足を祖とする神別氏族で、多くの公家が輩出したほか、日各地に支流がある。1200年以上もの間、廷臣の一大勢力であった。 概要[編集] 姓の代表的なものの一つとして源氏・平氏・橘氏とともに「源平藤橘」(四姓)と総称された。 中臣鎌足が大化の改新の功により天智天皇に賜った「藤原」の姓が、子の藤原不比等の代に認められたのに始まる。鎌足が中臣氏の出身であるため、祖は中臣氏と同じく天児屋命と伝える。 奈良時代に南家・北家・式家・京家の四家に分かれ、平安時代には北家が皇室と姻戚関係を結んで摂関政治を行った。北家の中でも権勢を誇った藤原道長の嫡流子孫(摂家)は院政期以降も摂政・関白をほぼ独占し、臣下としては最高の家格を保った。藤原氏の一族は、奈良時代から平安時代までは姓の「藤原」を称し

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