タグ

2007年11月13日のブックマーク (1件)

  • 坂のある非風景 愛という無によって

    純粋なセックスは、空想への耽溺を支える現実のパートナーを相手にしたマスターベーションである。それに対して、われわれが<現実的な他者>(<他者>の<現実界>)に到達できるのは、あくまで愛によってなのである。 したがって、愛とセックスの対立は、魂と肉体の対立ではなく、ほとんどその逆なのだ、という話を読みながら、コーヒーを飲んでいるところだ。コーヒーを飲みながら読んでいるとしてもいい。そういう夜の秋である。 いぜんとして、どうしてまだ見ぬわが子に向かって「愛している」などと語れるのかといった問いに立ち止まっていて、嘘であるがゆえに主張はさらに精密に強硬になるという事例を思い出せば、そこに愛がないからじゃないかと思い至った。「愛している」という発話は愛の欠如によって生み出されるわけだが、愛がないというより、じつは「愛という無」がそこにはあって、その「無」が語っているのではないかと思った。だから現実

    noharra
    noharra 2007/11/13
    どれほど社会的な擬制が賛辞で覆い隠そうとしても、モテルこと、愛し合う恋人がいること、結婚すること、子どもを授かることなどは、それ自体では何の意味も持たない、ひとつの欠如なのである。