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ブックマーク / freezing.blog62.fc2.com (3)

  • 坂のある非風景 情動は浮遊する

    うろ覚えだがどこかのブログで定額給付金に国民の多くが反対しているにもかかわらず、法案が通るとこぞって受け取るのは国民のモラルが低下しているのではないかと進歩的新聞のコラムに書いてあったとのこと。そんなの当たり前じゃないか。もらうんじゃないよ。もともと国民から収奪した金じゃないか。受け取った上で選ばないというのが大方の普通の感覚だろう。嫌だねえ、進歩主義者っていうのは。思い通りになるわけないじゃないかというのが、我々下層庶民の知恵ってもんだ。それは進歩的マスコミや政府に対してもそうだという意味。私はこの政策を批判したが、当然受け取って普通に使うよ。 ちょっと前まで定額給付金というものの存在などまったく知らなかった。テレビも新聞もないということはニュースがないということだが、知っても知らなくてもプラスもマイナスもないという不幸からは遠ざかっている。残念ながら、政治は<大方の普通の感覚>とのずれ

    noharra
    noharra 2009/03/29
    ハイデガーのナチスへの加担、セリーヌの反ユダヤ感情、ギュンター・グラスがナチの親衛隊員だったこと、レヴィナスのシオニズムなどが問題にならない<大方の普通の感覚>!彼らの高度な知性!自明な認識!
  • 坂のある非風景 ニーチェの復讐

    現在、実務の思想、実効性の思想があたり一面を制覇しており、また社会政治思想のうちもっとも優れたものが現象学や構造主義の成果のうえに大きな内的遡及力を手に入れて、詩や文学にも深い洞察をとどかせているので、詩的言説にはもはやいかなる固有の領土も残されていないように見える。たしかに詩をめぐる文章はさまざまに生産されているし、詩作品も月々いくつか生産されてはいるが、一群の未知数で不穏な部分をのぞけば、それらはアカデミックな、あるいはジャーナリスティックな意味での詩の社会的な分け前を満たしているのであって、なにかを「発言」しているのではない。つまり社会的なもの、政治的なものの基底に向かって働きかける力を持たないのだ。 ということで、私自身の直接性は無力であるようだ。詩をアートに置き換えてみれば、アート(といってもそこはあまりにもアカデミックな世界だったが)を見限って、力のある(ようにみえるジャーナリ

    noharra
    noharra 2008/07/10
    ジャンルとしての詩をこえるために!:それらはジャーナリスティックな意味での詩の社会的な分け前を満たしているのであって、何も「発言」していない。つまり社会的な政治的なものの基底に働きかける力を持たない。
  • 坂のある非風景 愛という無によって

    純粋なセックスは、空想への耽溺を支える現実のパートナーを相手にしたマスターベーションである。それに対して、われわれが<現実的な他者>(<他者>の<現実界>)に到達できるのは、あくまで愛によってなのである。 したがって、愛とセックスの対立は、魂と肉体の対立ではなく、ほとんどその逆なのだ、という話を読みながら、コーヒーを飲んでいるところだ。コーヒーを飲みながら読んでいるとしてもいい。そういう夜の秋である。 いぜんとして、どうしてまだ見ぬわが子に向かって「愛している」などと語れるのかといった問いに立ち止まっていて、嘘であるがゆえに主張はさらに精密に強硬になるという事例を思い出せば、そこに愛がないからじゃないかと思い至った。「愛している」という発話は愛の欠如によって生み出されるわけだが、愛がないというより、じつは「愛という無」がそこにはあって、その「無」が語っているのではないかと思った。だから現実

    noharra
    noharra 2007/11/13
    どれほど社会的な擬制が賛辞で覆い隠そうとしても、モテルこと、愛し合う恋人がいること、結婚すること、子どもを授かることなどは、それ自体では何の意味も持たない、ひとつの欠如なのである。
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