艶噺の一つ。今はなぜか演目が「二階借り」となっています。
鬼気迫る「芝浜」この日の「芝浜」は、後日(同年12/21)立川談志自身が、 『先日の「芝浜」は不思議なくらい旨く出来た。』 『あれは神様がやらせてくれた最後の噺だったのかも知れない』 と、語ったほどの「真迫の芝浜」だった。 東京生まれの人間だったら12月は「第九」じゃない、「芝浜」だね。 2007年12月18日、念願の談志の「芝浜」を聞く事ができた。 12月の談志の高座に誘ってくれる人がいたので、東京よみうりホールへ行って来た。(一階の前から2列目、中央付近の上席だったよ。) ====================================================================== とうとう壊れたんじゃねえか? この日の「芝浜」は、家元らしい「語り」迄削ぎ落としたような、面白い出来だったね。 毎度のように、話し出しが億劫な風情で、とりとめもない枕から入り、
日本テレビ系の演芸番組「笑点」の司会などで知られた落語家の三遊亭円楽(さんゆうてい・えんらく、本名・吉河寛海=よしかわ・ひろうみ)さんが、29日午前8時15分、肺がんで亡くなった。76歳だった。 東京都台東区の寺に生まれ、1955年に六代目三遊亭円生に入門。全生を名乗り、58年に二つ目、62年の真打ち昇進と共に五代目三遊亭円楽を襲名した。 端正な顔立ちと博識で人気を得て、60年代の演芸ブームでは立川談志、古今亭志ん朝、橘家円蔵と「寄席四天王」と呼ばれた。78年に円生とともに落語協会を脱退、翌年の円生の死後も一門を率い、円楽一門会の名で活動を続けた。 また、テレビ番組に積極的に出演し、「笑点」は初回から参加。いったん落語に専念するが、82年に司会者となり、2006年5月に勇退するまで、老舗番組の看板として活躍した。 晩年は、腎不全、脳こうそく、胃がんなどの病気と戦い、07年には落語家を引退。
柴村仁が嫌いである。 いやまあ、本人は「会えばいい人」なのかもしれないが、彼女の書いたものはことごとく嫌いなものが多い。 ぼくが読んだ限りにおいて、彼女の小説のスタイルについては次のような印象を持っている。つまり誰かが死んだこと、または何かが失われたことがまず強烈なインパクトとして存在していて、その事実を中心に物語が回っていく*1。『プシュケの涙』がまさに典型的だが、『我が家のお稲荷様』もそうで、あの話の構造は要するに死んだ母親の縁で胡散臭い奴らがわらわらやってきて、死んだ母親の話をして帰っていくというものだろう。死んだ母親が物語の中心にあって、ことあるごとに母親が死んでいるということが思い出さされるのだ。 それで、なぜそういった喪失を中心とした物語(くーきょなちゅうしん、とか言いたければ言えばいい)が嫌いかというと、そうした物語はたいてい「見下ろす視線」というものを構造として保有している
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