被災地より、子供達の未来の為に。◆東日本大震災を乗り越える親子の記録「三陸こざかなネット」Blogです。 ◆2011.3.11〜約1年間の記録は、記事一覧よりご覧下さい。 仮設住宅に入居し まず嬉しかった事は 家族専用の“お風呂”があり 自由に好きな時間に入浴ができるということでした 追い焚き機能はついていませんが シャワーが設置されています ガス給湯で台所から湯温の調整をすることが出来ます 炎天下のなか外遊びから帰ってきた子供達の泥や汗も すぐに洗い流すことができました ところがここ最近 朝晩の気温が下がり 娘と主人から シャワーだけではなく「お風呂(浴槽)に浸かりたい!」との注文がありました 子供達と主人が一緒に入浴する日はなく 主人も子供達が寝てからしか帰宅しませんので 光熱費がかかるのではないか?と悩んでしまいました そこで!ふと思いついたのが “泡風呂”でした 出張先のビジネスホ
◎町孤立、数字独り歩き/住民散り散り、確認難航 「南三陸1万人不通」。人口約1万7600人の宮城県南三陸町で、約1万人と連絡が取れない。宮城県の発表として、3月13日の朝刊はそんな見出しで報じた。被害の全容が把握できず、一時は町民の半数以上が犠牲となる最悪の事態も心配された。町職員の被災、交通・通信の途絶、避難所に押し寄せる住民…。混乱を極めた現地には、情報を発信するすべもなかった。 南三陸町を大津波が襲ったのは、3月11日午後3時半ごろ。大津波は高さ5メートルの防潮堤を越え、町の中心部に迫った。 町職員の佐藤勉さん(47)は、同町志津川の町海浜センターで大きな揺れに見舞われた。住民を高台の町道へ誘導し、避難所となる町総合体育館へ向かった。 体育館には既に約100人の町民が避難していた。夕方には避難者は1000人近くに膨れあがった。無線などの連絡手段がなく、6人ほどの町職員で食料の
避難場所だった体育館と校庭が津波にのまれたにもかかわらず、児童を含め学校に避難した全員が助かった石巻市の谷川小=18日 石巻市の牡鹿半島にある谷川(やがわ)小は、宮城県で最も海に近い小学校だった。2階建ての校舎は津波にのまれ、避難場所の体育館は跡形もなく破壊された。だが、津波襲来を警戒した住民の機転と、背後に山が迫り「逃げ場」を確保しやすい地形のおかげで、児童、教職員や避難してきた近隣住民は全員助かった。 ◎津波警戒、見張り配置/大声で連絡児童ら守る 校舎に荷物を取りに戻った千葉幸子校長(58)がふと校庭を見ると、児童が一目散に駆け出していた。後を追った千葉さんが次に目にしたのは、校舎と体育館の間から押し寄せる津波だった。 谷川小は児童14人の小さな学校。すぐ脇は鮫浦湾で、海抜十数メートルの切り立った崖の上に立つ。 3月11日の大地震発生後、児童と7人の教職員は校庭で余震が収まるのを
昨年2月のチリ大地震津波で、地区を通る国道45号が渋滞した釜石市両石地区では東日本大震災の直前、自主防災組織が避難時の車の利用を制限する方針を固めていた。具体的な内容の周知は間に合わなかったものの、住民に考え方は伝わっていた。援助が必要な高齢者らを運ぶ人以外は車での避難を自主的に控え、人的な被害の低減につながった。 ◎教訓生かし、徒歩避難/自主防災会の方針浸透 「悪夢のようだ」 釜石市両石町自主防災会会長の瀬戸元さん(66)は3月11日、避難した高台で、津波の襲来をビデオカメラに収めながら思った。 両石地区に津波の第1波が到達したのは午後3時10分ごろ。続けて襲った第2波は、両石漁港の高さ10メートルの防潮堤を軽々と越えて押し寄せた。 国道45号には津波襲来の直前まで、避難者の車が往来していた。両石漁港の防潮堤が視界を遮り、ドライバーは津波に気付かない。多くの悲劇が目の前で起きた。
津波が押し寄せる前に列車を降り、線路伝いに避難する高校生たち=3月11日、気仙沼市岩月千岩田(内藤周司さん撮影) 倒壊した家々の残骸の中で、列車が斜めにねじれる。気仙沼市岩月千岩田の住宅地。3月13日付の朝刊に、津波に流されたJR気仙沼線の車両の写真が掲載された。その時点で安否が分からない乗客も少なくなく、関係者は気をもんだ。乗客約30人は津波が襲来する直前、乗務員の指示で車内を脱出していた。 ◎「そっちは危険」叫ぶ声/誘導的確、乗客命拾い 帰宅途中の高校生の笑い声が響く。お年寄りはうとうとと居眠りしている。3月11日。午後の列車内には、いつもと変わらぬ光景があった。 2両編成の気仙沼発小牛田行き上り列車。松岩駅(気仙沼市松崎片浜)を午後2時45分の定時に出発し、その約1分後のことだった。列車を突然、跳ね上げるような衝撃が襲った。 「脱線?」。気仙沼高3年の小野寺晴海さん(18)は、
海上保安庁のレスキュー隊に救助される石巻みづほ第二幼稚園の園児ら=3月12日午前11時40分ごろ、石巻市新館2丁目(海上保安庁提供) 現在は他の施設を利用し、使われていない石巻みづほ第二幼稚園。煙突のあるボイラー室(中央)の上に脚立を立て、園児らが園舎の屋根に逃げた=8月3日 石巻市の石巻工業港に近い石巻みづほ第二幼稚園(同市新館2丁目)では、東日本大震災による津波が園舎2階まで達した。津波の襲来前、周囲の道路は避難しようとする車で渋滞し、近くに高い建物もない。児童と職員は園に残るしか、すべがなかった。園にあった一つの脚立が園児ら全員の命を救った。 ◎園児の命 脚立が救う/2階まで濁流、間一髪 ラジオは床に落ちて壊れた。防災無線や携帯電話のワンセグで情報を得ようにも、断片的な言葉しか伝わってこない。「津波」「午後3時○○分」「鮎川」「9メートル」…。 3月11日、地震の発生時、園には預
東日本大震災は、地震や津波が発生した際の避難行動に多くの教訓を残した。想定をはるかに超えた津波とはいえ、多くの人が犠牲になったのはなぜか。命からがら助かった人は、どう逃げたのか。「ドキュメント大震災」のシリーズ第5弾「逃げる その時Ⅱ」は、第2弾に続き、人々の避難行動を検証する。 ◎津波の記憶 足止める/「2度大丈夫、今回も」 大きな被害をもたらした過去の津波を語り継ぐ三陸海岸では、住民の津波への警戒意識は決して低くない。訓練も盛んだ。だが、津波にのまれて犠牲になった住民の中には、大津波警報を知りながら逃げなかった人もいるとされる。大震災から約1年前のチリ大地震津波と、わずか2日前の小規模な津波の実体験が、油断を生んだ。 「早く高台に上がれ」 3月11日の本震後、大船渡市川原地区町内会長の菊地武雄さん(65)は近所を駆け回って叫び続けた。だが、住民はなかなか逃げようとしない。必死に説
昨年2月のチリ大地震津波で、岩沼市は宮城県内で最も公的避難所への避難率が高かったにもかかわらず、ことし3月の東日本大震災では184人もの死者・行方不明者が出た。歴史的に津波の経験が少なく、チリ大地震津波でも大きな被害がなかったという油断に加え、情報通信網の断絶などが複合的に重なり、多くの人が逃げ遅れる結果となった。 ◎避難呼び掛けに障害/防災無線は整備の途上 「避難だよ」。3月11日午後3時20分ごろ、岩沼市相野釜地区の町内会長中川勝義さん(72)は隣家に住む兄熊雄さん(83)に呼び掛けた。 1階の茶の間で散乱した家財道具を片付けていた熊雄さんは、逃げるそぶりを見せない。中川さんの家族が数分後にも再度注意したが、やはり動かなった。熊雄さんは妻ちよさん(82)とともに津波の犠牲になった。 相野釜地区では、市沿岸6地区の中で最も多い43人が亡くなった。消防団員、消防協力隊のメンバー6人も
女川町の3階建て仮設1ヵ月遅れ 県の建築許可に時間 完成がひと月ずれ込むことになった2~3階建ての仮設住宅建設現場=女川町女川浜 宮城県女川町が建設を進めている2~3階建て仮設住宅の完成が予定より1カ月遅れ、10月中旬にずれ込むことが24日、分かった。3階建て仮設住宅は前例がなく、県の建築許可を得るのに時間がかかったのが理由という。 町内に平地が少なく適地が見つからないため、町は敷地が狭くて済む2~3階のコンテナ型仮設住宅を建設する方針を全国で初めて打ち出した。町営野球場に、1DK~3Kの計189戸を整備する計画を立てた。 町は7月12日、12億4200万円で都内の企業と随意契約。9月13日に引き渡しを受け、10月初旬までには避難所で生活する全員が入居できるはずだった。 町と企業側は6月、県と事前協議を行った。契約直後に建築許可を得てコンテナ製作を中国の工場に発注する方針だったが、県
アマゾン ジャパンは、東日本大震災の約1カ月後から「ほしい物リスト」を使った物資提供サービスを始めている。被災地のニーズと善意をつなぎ合わせ、被災地の人が必要なものを必要な数だけ、送り届けられるのがメリットだ。「広くあまねく」を基本ルールとする公的な機関の物資提供を補完するものとして受け入れられている。サービス立ち上げから約3カ月で、売り上げ実績は9000万円に達したという。 東日本大震災が起こってしばらくして、社内で「ほしい物リスト」を使って何かできないか、という声が上がりました。従来からあるこのサービスを、被災地向け物資提供に使えることは分かっていました。最初の課題は「現場のニーズをどうやって聞き出すか」でした。 そこで被災地の県庁の担当者にコンタクトをとり、県単位で欲しいものリストを作ってもらえないかという提案をしました。ただ、この時点では水や食料が不足していた時期だったので、「もし
日本ケーブルテレビ連盟は、東日本大震災による被災地域をサービスエリアとする三陸ブロードネット、気仙沼ケーブルネットワーク、宮城ケーブルテレビのケーブルテレビ事業者3社による震災関連映像を収録したDVD「被災ケーブルテレビ局が捉えた魂の記録映像」を制作・販売する。地震発災時から現在までの映像コンテンツを活用し、被災地の復興を応援・サポートすることを目的としている。 地域に根ざすケーブルテレビ局ならではの取材力を生かした記録映像を使い、発災直後から被災後3カ月を迎えるまでの様子を紹介する。DVDには被災地ごとに制作した30~45分の番組を複数収録する。行政団体に設置された災害対策特別機関の対応動向/避難所での生活環境などの災害発生時・被災直後の実録映像や、被災から3カ月後の市街地の整備状況/生活インフラの回復状況/災害に屈せず復興に取り組む人々の表情など、被災地域の住民目線で取材した映像を収録
4月7日深夜、宮城県沖を震源とするマグニチュード(M)7.1の地震が発生し、宮城県沿岸部に津波警報が出された。東日本大震災の最大余震だった。そのとき、仙台市太白区四郎丸など国道4号仙台バイパスの東側は、内陸部へと避難する住民の車で大渋滞となった。3月11日の津波で、壊滅的な被害を受けた名取市閖上に隣接する地域。「今度はここまで到達するのでは」。住民は不安に駆られていた。 ◎最大余震、津波恐れる/「一刻も早く」内陸へ殺到 4月7日午後11時32分すぎ。仙台市南東部の住宅街で、車のエンジンの始動音が一斉に上がった。 東四郎丸小の近くに住む無職阿部健二さん(68)は揺れが収まった後、不安になった。「閖上が震災でやられ、遮るものがない。今度はここまで津波が押し寄せるかも」 避難を決め着替えていると、近所の車が次々と走り去った。ラジオは津波警報の発令を伝えていた。阿部さんは妻(64)、次女(3
リリース、障害情報などのサービスのお知らせ
最新の人気エントリーの配信
j次のブックマーク
k前のブックマーク
lあとで読む
eコメント一覧を開く
oページを開く