タグ

ブックマーク / blog.livedoor.jp/easter1916 (3)

  • ララビアータ:ヘーゲルの「否定性」 - livedoor Blog(ブログ)

    カルチャーセンターでヘーゲルについて語る機会があった。ヘーゲルについて1時間で話すというのも無謀な話だが、長々と時間をかけたからといって、わかりにくい話が分かりやすくなるものでもない。問題は、ヘーゲルを誇大な物語としてではなく、今でも十分に活用可能な生きた思考装置として見直すことがいかにして可能かということである。以下、「否定性」ということに焦点を合わせながら、ヘーゲルに通常浴びせられる批判に対して、ヘーゲルが擁護できる合理性を、いくらかなりとも持つかどうかを検討してみることにしよう。 【ライプニッツの「調和」】 ライプニッツは、部分の不調和が全体の調和によって埋め合わされると考えた。 部分における無秩序は、全体における秩序である。(ライプニッツ『弁神論』Ⅱ・128) 部分においていかに不条理に見える所があろうとも、それは全体を創造した神の目から見れば、結局は全体の調和を実現するための不可

    notio
    notio 2017/12/11
  • ララビアータ:『マックス・ヴェーバーとドイツの政治1890〜1920』 - livedoor Blog(ブログ)

    ヴォルフガング・J・モムゼンの『マックス・ヴェーバーとドイツ政治1890〜1920』を読んだので、それについて論じてみる。 書は、第二次大戦後ナチズムの清算の下で、民主的ドイツのファウンディング・ファーザーの一人として列聖されてきたマックス・ヴェーバー像を突き崩し、一人の情熱的なリアリストとしてのヴェーバーを描き出した画期的な仕事である。ヴェーバーは、平和的な自由主義インテリなどではなく、徹底的に帝国主義的国民国家の利益を追求した自覚的なブルジョワ政治家であった。 今日ではこのような見方は、むしろ常識的なものとも言えようが、出版当初(1959)は、大きな議論を巻き起こしたものである。我が国では、いまだにヴェーバーを戦後民主主義と平和主義の思想家と見る向きも多いから、それとは正反対の理解を示す書の意義は少なくないと思われる。 我が国のヴェーバー受容史は、それ自体が興味深い問題を含んでいる

  • ララビアータ:右派の方への返答 - livedoor Blog(ブログ)

    最近、拙論「井上達夫氏の新著と憲法論」2,015 7・7に対して批判をいただいた。 http://eumajapan.blog.fc2.com/blog-entry-150.html ありがたいことである。これに似た立場の方がほかにも多数いると思うので、いくつかの論点について応答してみよう。 もとより、政治的判断については非常に複雑な多数の要素を考慮したり、前提にせざるを得ないため、数学のような確実性は期し難く、また私自身も経験による免れがたいバイアスもあるだろうため、容易に相手を説得できるとも思わないが、自他ともに対して、ある程度の議論の整理や明晰化には資するかもしれないので、以下ざっくばらんに、またラプソディックに論じてみることにする。 批判者は「国民の生命財産を守る国防をどう構築すべきかが最優先の問題であって、…人権や自由や平和主義を守って国土を侵略され国民が死ねば元も子もない」と論

    notio
    notio 2017/09/10
  • 1