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差別とあとでに関するnpideaのブックマーク (3)

  • 「法に逆らうな、売春婦」 - 地を這う難破船

    ――出典はクリント・イーストウッドの映画『チェンジリング』。映画館でこの台詞を聞いたとき、まことにイーストウッドだなと思った。脚を彼が書いていないことはもちろん知っている。 ⇒排外主義それ自体が暴力です、その2 - モジモジ君のブログ。みたいな。 つまり、そういうことなのだが。そして、そういうことであることがわからない人は、どれだけ説明してもわからないのかも知れないとは思う。以下、mojimojiさんに対する批判ではない。 イーストウッドの映画には、毎度のごとく、法の側、秩序の側に立つ者であることを利用して、他者を抑圧し、服従させて、そのことに快楽を覚える、自身の所持する権力を自身の所持する「男」としての力と混同するサディストが登場する。あるいは偏見を公然と詳らかにする、自らを法を遵守する市民と規定する者が登場する。その、カテゴリーの意図的な反転はイーストウッド監督作の面白さであり、それ

    「法に逆らうな、売春婦」 - 地を這う難破船
  • 差別のアウトソーシング?わかりません>< - よそ行きの妄想

    はてなダイアリー」について。 「差別のアウトソーシングとは、早い話が『差別の責任主体を自分以外の何者かに託し、曖昧にすること』」なのだそうだ。換言すると、「『俺が差別する』を、『差別される』とさらっと言い換える」ということらしい。 「『俺が差別する』を、『差別される』とさらっと言い換える」という文章は普通にわかりづらいが、これはおそらく「『俺があなたを差別する*1』を、『あなたが差別される』と言い換える」という意味だろうと思う。 言い換えるというか、形式的には単に受動態にしただけで、差別の主体が変わっているような気がするのは単に聞き手の解釈の問題だと思うのだが、ここで突如受動態になること自体に不自然さを感じておられ、その不自然さの源泉を「差別の責任主体を自分以外の何者かに託し、曖昧にすること」に見出しているのだとお見受けした。 しかし不自然だろうか。 wikipediaの受身(言語学)と

    差別のアウトソーシング?わかりません>< - よそ行きの妄想
  • 多数派には名前がない(ヤマト人=和人として、その責任を ひきうける)。 - hituziのブログじゃがー

    ヤマト人は にげる。「民族は つくられた概念で、実体は ない」と相対化する。おきなわ人に「ヤマト人」と よばれても、アイヌ人に「和人」と よばれても、そんな実感はないし、民族意識など もっていないと いえてしまう。 国家において、「民族」を 意識させられるのは、いつもマイノリティである。差別制度が、日常的な差別が、マイノリティに「民族」を 意識させるのだ。 それを 指摘し、多数派日人に「ヤマト人」や「和人」という名前を つけてみても、「名前のない多数派」は にげてしまう。「民族意識など、幻想にすぎず、そして わたしは「ナショナリズムに反対する」」のだと。そんな態度が良心的だと、なぜ おもえてしまうのか。 多数派は、名前を つける側である。そして、多数派は名前を もたない。多数派は、名前を つけられるのを いやがる。自分たちは、だれかにたいして、くりかえし やっていることなのにだ。 民族は

    多数派には名前がない(ヤマト人=和人として、その責任を ひきうける)。 - hituziのブログじゃがー
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