米軍による広島、長崎への原爆投下から今年で77年。核兵器の非人道性を証言してきた被爆者が高齢化し減少する中、その惨禍を記録した写真の役割は増している。撮影者の「あの日」の体験や、写された街や人の被害をたどり、その意味を見つめ直す。 【写真】顔にやけど 被爆者の姿 「こんなのを写真に写さにゃいけんのかな、思いまして。命令とはいえあんまり残酷じゃないかと」。尾糠政美さん(2011年に89歳で死去)は自らも被爆した翌日、被爆者のむごたらしい姿を記録に残した。決して自ら望んだわけではない。軍の命令による苦渋の撮影だった。 23歳だった尾糠さんは、陸軍船舶司令部の写真班員だった。1945年8月6日、広島湾に面した宇品町(現広島市南区)の司令部で朝礼中に被爆した。帰宅命令を受けていったんは司令部を離れたが、市内に住む母マキノさん=当時(60)=は見つけられず、より市中心部に近い姉宅には猛火で近づけない
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