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日本史に関するohireのブックマーク (6)

  • 鬼VS人間⁉ リアルに鬼退治された「大獄丸」!その首はなんと平等院の宝蔵に⁉ | 歴史人

    中世において、大江山の酒呑童子(しゅてんどうじ)と並び称されるほど人々に恐れられたのが、鈴鹿山を根城とする大嶽丸(おおたけまる)であった。酒呑童子の身の丈2丈(約6メートル)というのも驚異的だが、こちらはさらにその上、何と10丈(約30メートル)もあったというから恐れ入る。この数値は、室町時代にまとめられた『御伽草子』(室町物語)に記された説話「田村の草子」に登場するもので、もちろん、作り話であることはいうまでもない。それでも、大江山が山陰道の、鈴鹿山が東海道の要所であったことから、そこにはびこる盗賊たちの暗躍に、民衆ばかりか、時の政権までも大いに頭を悩ませていたことは間違いない。その恐れが、盗賊たちを恐るべき鬼としてイメージされ、時代を経るにつれておぞましさが増幅。ついには、奇怪な妖怪にまで変貌して語り継がれたのだろう。 その征圧に、桓武天皇の御代に征夷大将軍として蝦夷(えみし)征伐に功

  • 崇徳院 - ArtWiki

    総合 すとくいん 1119‐1164(46歳) 平安時代後期、第75代天皇。在位1123‐42。 別名:讃岐院 【基情報】 元永2年5月28日生まれ。鳥羽天皇の第1皇子で母は藤原璋子(待賢門院)である。父の譲位により5歳で即位。実は白河法皇の皇子といわれ、院政をしく鳥羽法皇の意向で、3歳の異母弟近衛天皇に譲位させられた。近衛天皇の死後は同母弟の後白河天皇と対立、保元の乱を起こすも敗れ、讃岐(現在の香川県)に流された。長寛2年8月26日讃岐にて死去。死後、都に様々な不幸が起こったので、崇徳天皇の恨みではないかとうわさされ、怨霊としておそれられた。墓は白峯陵(香川県坂出市)にある。諱は顕仁(あきひと)(1)。 【伝説・イメージ】 波乱に満ちた人生の為か、崇徳院にまつわる伝説や説話、ある種のイメージというものが多数存在する。 『古事談』 『古事談』は崇徳院の出生の秘密を扱っている。崇徳院は鳥羽

  • 宮本武蔵の巌流島の決闘、最後は集団リンチに終わった?

    剣豪同士の決闘として名高い「巌流島の決闘」といえば、宮武蔵と佐々木小次郎が一対一で相対している場面を思い浮かべることだろう。ところが実際には、勝利した宮武蔵側が、卑怯な手段で佐々木小次郎を絶命させていたという。『ざんねんな日史』(小学館新書)を上梓した歴史作家の島崎晋氏が、その知られざる顔を紹介する。 * * * 巌流島は、関門海峡に浮かぶ小さな無人島でありながら、宮武蔵と佐々木小次郎が決闘を行なった場所として知られている。 宮武蔵は生涯に六〇余度の立ち合いをしながら、一度も負けたことのない天才武芸者。対する佐々木小次郎は豊前国小倉で兵法と剣術を教えていた人物で、長い大太刀を愛用した。 一般に流布する話では、武蔵は小次郎から平常心を奪おうと約束の時間よりかなり遅れて登場し、武器には舟の櫓を削った、小次郎の大太刀より長い木刀を用い、わずか一撃で小次郎を絶命させた、という。 だが、こ

    宮本武蔵の巌流島の決闘、最後は集団リンチに終わった?
  • なぜ江戸で一番多い飲食店は「うどん屋」から「そば屋」へ変わったのか? | 歴史人

    そば屋の屋台は肩に担いで移動することが可能であった。客に声を掛けられたら屋台を置き、その場で調理したそばを提供したという。『職人盡繪詞』  国立国会図書館蔵 そば屋は寛文4年(1644)に初めての店ができ、以来あれよあれよという間に増殖し、一説によると文政年間(1818~1830)には3000軒になったといわれている。江戸は俗に八百八町(はっぴゃくやちょう)といわれているので1町に1軒はあったことになる。これ以外にも屋台で商うこともあったので、ちょっと小腹がすき何か腹に入れたという時などすぐにべることができた。また、温かいメニューは冬場に体が温まるからと注文する人もいたという。 現在でも大きな駅の構内や駅前などにもあるので、朝や移動中など時間がない時に利用する人もいるだろう。近年になってラーメン屋に抜かれるまで、江戸時代からずっと日でもっとも多い飲店はそば屋であったという。 もっとも

  • 江戸庶民は、なぜ「天ぷら」を好んだのか? | 歴史人

    画像は江戸時代の風俗、職業を描いた「職人盡繪詞」(国立国会図書館蔵)。立ちいは行儀が悪いとされていたから、おいしそうなにおいに誘われてやって来た武士は、顔を見られないようにこそこそとてんぷらをべている。 大阪などで人気の串カツ。気軽にいろいろな種類ネタを串に刺した揚げ物が好きなだけ注文できるところが人気の秘密のようだ。江戸時代にもこれと同じようなべ物があった。 あなご、芝えび、こはだ、貝柱、するめなどといったネタを串に刺した注文を受けてから水と小麦粉で作った衣をまとわせて油で揚げる。現在は衣に水と小麦粉に加えて玉子を入れるのが一般的だが、江戸時代は玉子が高かったので使用しなかった。 揚げたての熱々のところを大根おろしを入れた天つゆにつける。大根にはデンプンの消化を助ける成分が入っているから、胃もたれや胸やけ防止になる。また、当時は今よりも衣が厚かったと考えられているので、天つゆがない

  • 信長と利家はラブラブカップル!? BLで歴史を学ぶ | ダ・ヴィンチWeb

    史の裏側には、実は隠された男同士の恋愛があった! 教科書には載っていない、授業では教えてもらえない。今回は、そんなBLの視点から歴史を学べるを紹介しよう。 まず有名なのは織田信長と小姓・森蘭丸のカップリング。『歴史BL人物伝』(銭形たいむ/光文社)によると、蘭丸は怪しげな術などをかけられないようにするため、信長が切った爪を堀まで捨てに行っていたそうだ。美形でこれほど気遣いのできる小姓なら可愛く思えるのも当然だが、意外なことに2人の関係を示す物は何も残っていないらしい。 しかし、そんな信長が実際に関係を持ち、可愛がっていたという記録も残っているのが前田利家である。なんと信長は宴の席で「若い頃は毎晩利家を抱いたものだ」なんてカミングアウトしていたというのだ! それを聞いた家臣たちは利家を羨み、利家も照れながら、祝の席でよく出されるという鶴の汁を飲んで喜んだそう。このことは、加賀藩の言行録

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