ユダヤ人であるフランスのドレフュス大尉がドイツと内通しているとして逮捕され、後に冤罪であることが明らかとなったドレフュス事件が起こったのは一八九四年のことだった。フランス及びヨーロッパ全体の反ユダヤ主義の根深さを表す事件であるとともに、作家のゾラがこれに抗議して立ち上がったように、フランスにおいて「知識人」という存在が大きくなる契機ともなった。 モーリス・ブランショは『問われる知識人 ある省察の覚書』の中で、知識人の一つのあり方としてピカールという人物に注目する。訳注によるとピカールは「参謀本部に勤め、ドレフュスの資料を調査する過程で、アンリ少佐の妨害にもかかわらず一八九六年にドレフュスの無罪を発見。その後、ドレフュス救済のために奔走するも、逆にチュニジア奥地に左遷されてしまう。また、「オロール」誌にゾラの文章「私は糾弾する」が掲載されるや、軍と参謀本部への誹謗の廉で逮捕され、有罪判決を