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ブックマーク / kajipon.sakura.ne.jp (3)

  • チェ・ゲバラの生涯

    ★爆走!闇タクシーでゲバラに巡礼 2000年12月4日午前10時。僕はキューバの首都、ハバナにいた。 キュ-バ革命の英雄であり、圧政への世界の抵抗運動の象徴だったチェ・ゲバラの墓を探し出し、墓参を果たすという大いなる野望を持って。 しかし、この悲願の成就を阻む大きな壁が2つあった。“時間”そして“お金”だ。 AM8時に船でハバナ港に入港し、翌日の昼過ぎに同船が出港するため滞在時間は約30時間。 「ハバナは大都会だけど、30時間もあれば楽勝じゃん」 僕は国民的英雄ゲバラの墓は首都ハバナにあると始めから信じ込んでいた。 ところが! 観光局の職員に墓所を尋ねてみると、首都にあるどころかハバナから約300キロも離れた地方都市サンタクララに眠っているというではないか!300キロといえば東京~名古屋間に匹敵する距離。 “そんな遠くまで行って明日の出港に間に合わなかったらどうしよう”…頭を抱え込んだ。

    okome_chan
    okome_chan 2012/03/23
    「1965年、37歳になった彼は突如失踪した。キューバにおける自分の役目は終わったと判断し、貧困と搾取に苦しむ新たな国へ、再び一人のゲリラとして向かったんだ」SUGEEEEEE
  • 伊藤若冲の生涯

    別号、斗米庵(とべいあん、絵を米一斗と交換したから)。八百屋や魚屋が軒を連ねる京の胃袋、錦小路の青物問屋の長男として生まれる。海の幸や山の幸に囲まれて過ごしたことは、若冲の原体験として後の作品に反映されている。22歳で父が没し家業を継ぐ。 若冲と親しかった京都相国寺の禅僧によると、若冲は「人の楽しむところ一つも求むる所なく」と評されている。彼には絵を描くことが人生の喜びの全てで、芸事にも酒にも女遊びにも興味がなく、こうした世間の雑事のみならず、商売にもあまり関心がなかったらしい。とにかく、頭の中は絵筆を握りたいという思いしかなかった。 何がきっかけで絵に目覚めたのか不明だが、家業のかたわら、30歳を過ぎてから絵を格的に学び始めた。最初は他の画家と同じ様に、当時の画壇の主流だった狩野派の門を叩いたが、「狩野派から学ぶ限り狩野派と異なる自分の画法を築けない」と考え、画塾を辞めると独学で腕を磨

  • 文芸ジャンキー・パラダイス

    「芸術を生むために日々努力をしている人に感謝します。僕は芸術なしでは生きられない」(S・ソダーバーグ監督、アカデミー賞受賞式にて) 「人間性への信頼を失ってはならない。人間性とは大海のようなものである。ほんの少し汚れても海全体が汚れることはない」(ガンジー) 「私は祖国を愛している。だが、祖国を愛せと言われたら、私は遠慮なく祖国から出ていく」(チャールズ・チャップリン) 「後世に残るこの世界最大の悲劇は、悪しき人の暴言や暴力ではなく、善意の人の沈黙と無関心だ」(マーティン・L・キングJr) 「私は貴方の意見には反対だ。しかし、貴方がそれを言う権利を、私は命にかけて守る」(ヴォルテール/S・G・タレンタイア)

    okome_chan
    okome_chan 2008/02/26
    スゴイ情報量!
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