ブックマーク / nagaichi.hatenablog.com (5)

  • 「微レ存」漢文説の謎を追う - 枕流亭ブログ

    ネットに長く入り浸っていると、「微レ存」というネットスラングをどこかで聞いたことがあるかもしれません。これは(可能性が)「微粒子レベルで存在する」を略して作られたことが解明されています。 略しすぎて何だか分からなくなったシリーズ 「微レ存」ってどういう意味?(ねとらぼ) http://nlab.itmedia.co.jp/nl/articles/1307/24/news132.html ネットで見かける「微レ存」ってコトバ…どんな意味なの?(NAVERまとめ) http://matome.naver.jp/odai/2138267066332571201 ところが、「微レ存」の「レ」が漢文訓読の返り点の「レ」に見えなくもないことから、「微レ存」漢文説も根強く囁かれているのです。そもそもレ点を除いた「微存」という漢文の語句はあるのでしょうか。 『隋書』巻76列伝第41 文学 潘徽伝 「且文訛

    「微レ存」漢文説の謎を追う - 枕流亭ブログ
    omi_k
    omi_k 2014/02/18
    "びれぞん"だとネタ意識が強い感じだけど"あることかすかなり"だと一気にビリーバーよりになる感じ
  • 隋の煬帝の墓が出土 - 枕流亭ブログ

    ご無沙汰ぶりのブログで、わりとビッグニュースの紹介です。隋の煬帝の墓が江蘇省揚州市邗江区西湖鎮司徒村曹荘で出土したとのことです。 ↑今回発見の墓 揚州市は長江下流域の北岸に位置している古くからの都市ですが、隋のころには江都と呼ばれていました。南朝の文化を愛した煬帝は、たびたびこの江都に来ておりまして、最期を迎えたのもここでのことです。煬帝は江都に宮殿を建てて趣味全開の遊興三昧。晩年に華北の情勢が怪しくなると、江都から離れようとせず、そのために部下の宇文化及に殺害されております。 さてこのたびの出土品ですが、鎏金銅鋪首や金瓖玉腰帯といった文物が出ているようですが、やはり決定的だったのは、墓誌の発見ですね。 「隨故煬帝墓誌」(隨は隋と通字)というようです。墓誌中に「隨大業十四年」とか「帝崩于揚州」とかあって、決め手になってるようです。 ↑鎏金銅鋪首 ↑発見された墓誌 あと今回発見の墓の東側の墓

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    omi_k 2013/04/16
    陳舜臣の「弥勒乱入」田中芳樹の「風よ、万里を翔けよ」あたりが読みたくなる / 当然イッチーのもね
  • 『世本』にみえる2字の氏 - 枕流亭ブログ

    日経のWEB記事で次のようなものが出ていました。 中国韓国はなぜ1文字? 世界の「名字の謎」(日経済新聞) http://www.nikkei.com/article/DGXBZO46851290T01C12A0000000/ 全体として1文字の名字が圧倒的に多い(司馬、欧陽など2文字の名字もまれには存在する)。森岡さんによると、中国人の名字は少数民族も含めて4000程度とされ、10万から30万はあるとされる日人の名字に比べるとかなり少ない。 「中国の漢民族は世界でも最も早く名字ができた民族といわれるが、伝統的に漢字1字の単姓を基としており、日のように自分で地名などから名字を名乗ったり、分家した際に名字を変えたりすることがなかった。だから、名字の種類も増えなかったのではないか」と推測する。 「伝統的に漢字1字の単姓を基として」いたのは確かなんですが、事情はもう少し複雑ではないか

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    omi_k 2012/10/06
  • 嫁曼荼羅 - 枕流亭ブログ

    「嫁曼荼羅」というのがごく一部にたいへん流行ってるらしいので作ってみました。 白眉の先行作品については、こちらをご参照ください。↓ 俺の嫁一覧表(Danas je lep dan.) http://d.hatena.ne.jp/Mukke/20120904/1346742509 嫁曼荼羅(文章の殺陣...「御神楽」) http://d.hatena.ne.jp/Mikagura/20120904/1346780339 俺の嫁を表にしてみた。(nix in desertis) http://blog.livedoor.jp/dg_law/archives/51716998.html さて拙作↓ 以下は解説のようなものですが、読まないほうがいいでしょう。↓ ▼最上段左から ソシエ・ハイム(∀ガンダム)ディアナは氏ねばいいと思います。 戦場ヶ原ひたぎ(物語シリーズ)立て板に水で罵られたい。 景王

    嫁曼荼羅 - 枕流亭ブログ
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    omi_k 2012/09/18
    トレスは歌う船になってからが本番
  • 秦末の「楚人」意識 - 枕流亭ブログ

    『史記』項羽紀に范増の発言として見える「楚の南公曰く『楚は三戸といえども、秦を亡ぼすは必ず楚ならん』と」。予言だか後付けだか知れないが、はたしてこの謡言は実現した。 実際に秦を滅ぼしたのは、楚のノイエラントの連中だ。 陳勝は陽城(現・河南省登封市)の人。 呉広は陽夏(現・河南省太康県)の人。 項羽は下相(現・江蘇省宿遷市)の人。 劉邦は沛豊邑中陽里(現・江蘇省徐州市豊県)の人。 かれらは戦国も下った時期に楚領となった東方地域の出身者たちだ。楚の古くからの領土である湖北・湖南の出身者は秦末での活躍が見られない。 戦国の楚は西方の秦の圧迫を受けて紀元前278年に湖北荊州の郢を奪われ、河南淮陽の陳に遷都しており、さらには紀元前241年に安徽寿県の寿春に遷都している。代わりにというわけではないが、楚は紀元前286年に宋を滅ぼし、紀元前256年に魯を滅ぼして東方での領土は拡大している。むろん西方で

    秦末の「楚人」意識 - 枕流亭ブログ
    omi_k
    omi_k 2011/11/27
    劉邦が魏の信陵君を尊敬していたというエピソードはだからか。/被占領国の国民意識についての興味深い示唆
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