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原発と生活に関するono-winのブックマーク (5)

  • ホールボディーカウンター ―― 調べてわかった被ばくの現状 坪倉正治×斗ヶ沢秀俊×早野龍五 | 復興アリーナ WEBRONZA×SYNODOS

    ラジオ福島特別番組「ホールボディーカウンター~調べてわかった被ばくの現状」(2012年7月21・28日放送) 東京電力福島第一原子力発電所の事故で、福島県民は絶えず「放射線への不安」を抱えながら生きてゆくことを余儀なくされました。そして、事故から1年4ヵ月。様々な調査がなされ、少しずつ被ばくの現状が見えてきました。データから読み解く被ばくの現状と福島で暮らす上でのヒントや注意点などを、3人のスペシャリストに伺いました。(ラジオ福島HPより http://www.rfc.co.jp/program/details.php?id=128 ) ■自己紹介 ――去年の3月に東京電力福島第一原子力発電所で事故が発生しました。あの瞬間から、福島県民は放射線、放射能と共存して生きていかなくてはいけなくなりました。そのためにも私たちは放射線や放射能についてきっちり理解して、これからを考えていかなくてはいけ

    ono-win
    ono-win 2012/10/15
    今の福島では内部被曝は地域差より家庭差が大きい。あと内部被曝より外部被曝のリスクの方が高い、と。
  • 朝日新聞デジタル:自主避難への理解-マイタウン福島

    「こういう人たちが、県外で風評被害をまき散らしているんです」 県総合計画の見直しで、県が各地で開いている地域懇談会で出た発言だ。総合計画審議会委員の一人が、母子だけで自主避難している人についてそう言い放った。 「経済的にも余裕がある人たちです」「正しい知識をもってもらいたい」 二重生活の出費に耐えられる、という点では「余裕がある」かもしれない。だが、取材した限り、出費を切り詰め、ギリギリの生活を続けている家庭が大半だ。前向きに新天地で暮らす人たちがいる半面、「風評被害をまき散らす」どころか、いじめや嫌がらせを恐れ、 「福島から来た」とも言えず、身を隠すように暮らし、福島を思って涙する。そんな人も多い。 県総合計画は来年度から8年間、復興計画も含めて県の施策の指針となる。この委員がどの程度、見直しにかかわるか知らないが、県は人選をもう少し考えた方がいい。(西村隆次)

  • 【玄海原発】全面停止から10カ月 岸本英雄・玄海町長が激白!「玄海を福島第1と同列で語るな」+(1/3ページ) - MSN産経ニュース

    東日大震災と福島第1原子力発電所事故から1年半。震災前、九州全域の電力の25%をまかなってきた九州電力玄海原発では昨年12月以降、4基の原発がすべて稼働できないまま。地域経済への影響も深刻化している。立地自治体として誇りを持って原発を支えてきた佐賀県玄海町の岸英雄町長(59)が苦しい胸中を明かした。(田中一世)     ◇ 一日も早く再稼働してほしい。心からそう願っています。今は震災からの復興に向け、日経済が元気に前進しなければいけない時でしょ。それには安価で安定した電力供給が不可欠なんですよ。現時点では原子力が一番じゃないですか。 もちろん原発再稼働は、玄海町のためにも必要です。町は収入の6割を原発関連の交付金や税収でまかなっており、原発や関連会社で働いている町民は人口(約6400人)の1割強を占めているんですよ。その他、原発の従業員相手に商売している飲店や宿泊施設、タクシーなど

  • ほぼ日刊イトイ新聞 - 書きかけてやめていた、 福島のことを、もう一度。

    震災からようやく1年が過ぎようとしていた 今年の3月5日、案内されて、 福島県の海沿いにあるいくつかの町を訪れた。 もう、4ヵ月以上が経ってしまった。 取材を終えた日、 見たこと、聞いたこと、感じたことを 大急ぎで原稿にまとめて、 一週間後にせまる「3月11日」に掲載しようと思った。 そうでもしないと書けない、と直感したからだ。 けれども、できなかった。 落ち着いてからゆっくりまとめよう、と、 ずっと思っていたけれど、 それもうまく運ばなかった。 何度も書きかけてやめた、 あの日の福島でのこと。 なんのきっかけがあるわけでもないけれど、 やっぱり書くことにする。 冒頭にそうでも書かないと、書きはじめられない。 2012年3月5日。 震災からようやく1年が過ぎようとしていたころ。 福島はまだまだ寒く、 雪ともみぞれともつかない冷たいものが 朝からずっと降っていた。 糸井重里がツイッターを通じ

  • 東京のアパートを引き払い、南相馬で暮らして見えたこと:日経ビジネスオンライン

    5月中旬、私はイスタンブールで開かれた北コーカサス国際会議に招かれていた。チェチェンの人権問題についての発表をしないといけないのだが、私は前日まで原稿が書けずにいた。なぜなら、私の心はこの一年、ずっと東北にあったからかもしれない。 イスタンブールへ旅立つ前に、私は東京で借りていたアパートを引き払った。そして、帰国後は、南相馬市内の福島原発から20.5キロ地点で生活を始めた。旧警戒区域は歩いてすぐのところにあり、裏手には津波で被災した地域が広がっている。震災前まで見えなかった海が国道沿いからも見えるくらい、広大なエリアが被災していた。 一年前はまだ、がれきでいっぱいだったけれど、今ではすっかり片付いてしまった。日中は作業をしている重機の音がうるさいが、その音のせいで、私は以前、足しげく訪れていたチェチェンへと引き戻されたかのような気分を味わう。ちょうど私がチェチェンに通っていた頃は、街の復旧

    東京のアパートを引き払い、南相馬で暮らして見えたこと:日経ビジネスオンライン
    ono-win
    ono-win 2012/07/26
    チェチェンを通して見る被災地福島。
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