オウム事件とその余波についてはこれまでも書いてきたし、あらためて書くこともないような気がしていたが、このところまた多少気になることがあり、その無意識のひっかかりにぼんやりと思いに沈んでいた。うまく書けることではないし、黙っているほうが賢いのだろうが、この問題のとてもタッチーな部分で書くことを促すものがある。いや、促されるものがあるというべきだろう。あるブロガーの力でもあるが。 ひっかかりは、こういう言い方も誤解を招くだろうが、とりあえず島田裕巳問題としよう。もう古い話になるのかと思うが、宗教学者島田裕巳が当時上九一色村のオウム施設を見てその陰謀を看破できず結果としてオウムは安全だとお墨付きを与えたかのようなできごとがあった。このため彼は社会的なバッシングを受けることになった。私はこのバッシングに与するものではない。また、率直に言って島田裕巳を宗教学者としてはそれほど評価はしていない。が、こ
(藤原書店・7140円) ◇「調和」を求めた感性の変容を捉える試み 十七歳の森鴎外には思いをよせた娘がいたという。古道具屋の半分締まった障子(しょうじ)の口に娘が立っている。それほど美人というわけではないが、なんともいえない愛敬(あいきょう)がある。一週間に一度往(ゆ)き帰りに前を通るだけなのだが、その姿を見ないと一週間がなんとも物足らなく感じるほどだった。 ただそれだけのことだったが、彼が洋行するまで五年間もつづいたというから、半端ではなかった。ところが後年この娘の正体を聞くことになる。近所の寺の住職が仕送りをして囲っていたらしい(『ヰタ・セクスアリス』より)。 アラン・コルバンはフランス社会史研究、とりわけ感性史研究の旗手としてきわだっている。本書の序「日本の読者へ」によれば、彼が描くのは主として「ラテン的でカトリック的な」西欧であり、官能の規範とエロティックな実践が当時の日本のものと
リリース、障害情報などのサービスのお知らせ
最新の人気エントリーの配信
処理を実行中です
j次のブックマーク
k前のブックマーク
lあとで読む
eコメント一覧を開く
oページを開く