東京オリンピックにまつわる一連の不祥事、不手際、不始末を経て残念に思うことは、これまでのオリンピックで人並みに感動し、興奮した思い出ごと汚されてしまったような気持ちになったことだ。平昌のスケート、アテネの体操、シドニーのマラソン、長野のスキージャンプ。どれも苦労せずとも感動した記憶が容易に蘇るものの、その改は今回のような小汚い不正や見苦しい商業主義が蔓延っていたのだと思うとどうしても白けてしまう。まぁ今回のはあまりにも露骨で杜撰だけれども。 よくよく考えればスポーツの一つ一つのプレーが素晴らしいのは当たり前のことだ。一流の人間のパフォーマンスはそもそもどんな舞台であっても卓越している。近所の公園や体育館でも同じ技術をアウトプットすることはできる。ただ見る側が勝手に舞台を作って勝手に感動しているだけだ。だからパフォーマーが素晴らしいからといって舞台装置まで肯定するのは単純に問題を混同している