北村薫『街の灯 (文春文庫)』より引用する。 「この間、横浜の裁判所で、実家に逃げ帰った妻に、慰謝科百五十円を払えという判決が出ました。夫が《けしからん》と訴え出たのです」 「ああ……」 そういうことは、わたしには関係ないと思って、また、不快そうな記事だったので、あまり気にとめていなかった。 「賭事にふける夫に、悪い病気まで移され、たまりかねて逃げ出したのです。それでも、裁判官は、《仕えるべき夫が若気の至りでそのようなことをしても、妻たるものは従うのが当然である》といった。《実家に逃げたのは、自らの務めを放棄し、夫を侮辱する行為である。女の道を踏み外したことは許し難い》――という、お上の判決でした」 「………」 子供の頃、ミス・へレンと読んだ、ビアトリクス・ポターの小さな絵本を思い出した。子描のトムが鼠の夫婦に捕まり、練り粉で体を丸められ、食べられそうになる。恐ろしくてたまらなかった。その