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ブックマーク / asmodeus-db.hatenablog.com (2)

  • 東北関東大震災で義心を感じる人へ 持続不可能な感情と継続可能なシステムについて - じゃがめブログ

    突然ですが、ほんの少しだけ私語りを。 今から16年前の1995年1月17日、私は阪神淡路大震災を経験しました。 当時の我が家は尼崎市にあり、最も損壊の大きかった地域からはやや遠かったのですが、それでも家は半壊しライフラインは完全に寸断されました。最も復旧が早かった電気でも数日、遅かった水道・ガスは数ヶ月間停止したままでした。 学校に行くために自転車で訪れた神戸の街は散々な様子で、倒れるところを想像したこともない高速道路が横転し、ビルが横倒しになる。当然のごとく交通網は完全に寸断され、大阪−神戸間を結んでいた阪急・JR・阪神は全て不通となりました。また、当時最寄り駅であった阪急伊丹駅駅舎のタミータウン(当時・現在は阪急伊丹リータ)は完全に壊滅し、目にしたときはショックで目眩がしたものです。 その交通網なのですが、これが復旧して開通するまでどれくらいの期間が掛かったか、覚えてる人はいるでしょう

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  • おばあちゃんのテレビと小鉢の塩辛 - じゃがめブログ

    「君って、初対面の人が居ると全然しゃべらないよねえ」と彼女は言った。ああ、人見知りするんだよ、と僕は返す。 周囲の喧騒で少し声を張り上げないと聴こえない。これぞ安居酒屋といった風情なのでムードもあったもんじゃないが、一応はデートのつもりだ。 彼女は、ふーん、確かに初めて逢ったときは無口だったもんねえ、と言った。仲良くなったら普通なのに、とも。 彼女の箸は小鉢の塩辛をクリクリとかき混ぜていた。なにやってんの、それ納豆じゃないんだから、と言いかけて、飲み込んだ。 僕が人見知りになったのは、中学生の時だった。 我が家は両親共働きだったので、学校の給が出ない週末はおばあちゃんの家でお昼ご飯をべて両親の帰宅を待つ、というのが習慣だった。それは中学生になっても変わらず、なんとなく週末はおばあちゃんの家で過ごしていた。 おばあちゃんは常に穏やかで無欲な人で、早朝の読経と内職を日課に地味に生活していた

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