2007年3月12日のブックマーク (7件)

  • YouTube - Broadcast Yourself

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    planetes
    planetes 2007/03/12
    ぷっすまってエライよなぁ。
  • MEGWINTV「ピタゴラ拷問スイッチ」

    ネットランナー4月号連動企画 http://www.new-akiba.com/ MEGWIN流ピタゴラスイッチ。

    MEGWINTV「ピタゴラ拷問スイッチ」
  • ま、タイプでいうのだけど、私は上祐史浩みたいな人が大嫌い - finalventの日記

    理由は簡単で、嘘つき野郎だから(ちなみ彼自身がそう言っているのだからそう誹謗にもならないと思うのでそう言うのだけどね)。 でも、お前だって、嘘つき野郎じゃないかと言われると、ぎゃふん。ま、そのあたりはどっちもどっちだろうか。 ただ、しいていうと、私は、人を騙すために嘘をつくことはあまりない。というか、もっと言うと、そういうことで利害関係が変わる場というのが好きじゃない。つまり、嘘が意味を持つ場というのを基的に避ける。 もうちょっというと、私は、ドンヅメの時には、すべて聖霊に任してしまう、というとキリスト教徒っぽいけど、イエスが立つことに任せる(比喩ですよ為念)。小細工をしない。自動車にひかれて死んじゃうことだってあるくらいな。 で、と。 上祐史浩みたいな嘘つき人間はうじゃっと世の中にいる。 なるべくそういう人間そのものを避ける。 避けられないことがあるのは、人間力学的な関係の場に置かれた

    ま、タイプでいうのだけど、私は上祐史浩みたいな人が大嫌い - finalventの日記
  • 島本和彦と庵野秀明が大学時代を語った対談記事(Newtype1985年7月号) - 情報中毒者、あるいは活字中毒者、もしくは物語中毒者の弁明

    ヤングサンデーの「アオイホノオ」*1が面白すぎます。 ということで、角川書店Newtype1985年7月号*2に掲載された島和彦と庵野秀明の対談記事を文字起こし。(敬称略) この対談の時点で、島和彦は24歳、庵野秀明は25歳。どちらも名前が広く知られるようになっていた頃です。 註はsoorceが記載。間違い等ありましたらご指摘下さい。リンク切れ等ご容赦の程。 画像ははてなフォトライフを使用。(フォト蔵がおかしいので)*3 最初にパンチをらったオレ!! 「爆発!浪花メーター」 この特集が語らんとする関西とは、パワーあふれる者たちを生んだ土壌である。 生み育てた土地。 そして、様々な出会いとその後の成長への大きな影響をも、この土地は与えてきた。 マンガ家・島和彦。 アニメーター・庵野秀明。 一見、共通するものがないように見える2人だが、大阪芸術大学の同期生*4であり、なおかつ2人は学内

    島本和彦と庵野秀明が大学時代を語った対談記事(Newtype1985年7月号) - 情報中毒者、あるいは活字中毒者、もしくは物語中毒者の弁明
  • 川内康範 - Wikipedia

    川内 康範(かわうち こうはん、1920年〈大正9年〉2月26日 - 2008年〈平成20年〉4月6日)は、日の作詞家、脚家、政治評論家、作家。名は川内 潔(かわうち きよし)。北海道函館市出身。 生涯[編集] 川内は1920年(大正9年)、日蓮宗の寺に生まれた[1]。小学校を卒業後、様々な職業を転々とする。大都映画で大道具だった兄を頼って上京、新聞配達をしながら独学で文学修業を重ね日活のビリヤード場に就職、人脈を広げて日活の撮影所に入社する。 1941年(昭和16年)、川内は東宝の演劇部へ入社した。やがて撮影所の脚部へ転属となり、特撮や人形映画を担当した[注釈 1]。その傍ら舞台の脚なども執筆する。東宝を退社後、新東宝やテレビなどの脚家、浅草の軽演劇の劇作家として格的な活動を開始した。 東宝時代、人形映画『ラーマーヤナ』の脚を執筆した[1]。川内は以前よりマリオネット

    planetes
    planetes 2007/03/12
    『福田赳夫の秘書を務め、鈴木善幸元首相、竹下登元首相のブレーンでもあった。』そうなん?
  • 森進一 - Wikipedia

    山梨県甲府市で、朝鮮半島清津市生まれで引揚者の母・森内尚子と、母の幼馴染の兄で元大日帝国海軍軍人の父・白砂三郎の長男として生まれる。3人で静岡県沼津市へ移転後妹2人が生まれるが、10歳の時に父親のギャンブル癖などが理由で両親が離婚[9]、母と妹とともに母の幼馴染だった父の妹を頼り下関へ移転、母子家庭となり、一寛も新聞配達で家計を支える。その後母の郷里・鹿児島に落ち着き、鹿児島市立長田中学校卒業と同時に集団就職で大阪に出て移住した。金の卵と呼ばれた若年労働者として、最初は寿司店に勤めるも1か月で退職、家族に仕送りするために少しでもいい賃金を求めて17回も職を替えた[10]。 1965年(昭和40年)、フジテレビ系の素人参加歌番組『リズム歌合戦』に出場して優勝。チャーリー石黒にその才能を見出され、渡辺プロダクション(ナベプロ)に所属した。芸名の名付け親はハナ肇であり、名の「森内」と「一寛」

    森進一 - Wikipedia
  • http://www.ec.kagawa-u.ac.jp/~honore/kyusai.htm

    絶対に何もありません。今すぐあきらめなさい。 後期授業の試験が終わり採点時期になると、卒業予定者(と言っても、あくまで「人が」予定しているだけだが)が来て、「就職活動のため、あまり授業に出られなかった。先生の授業の単位がとれないと卒業できない。なんとかしてください。」と言ってくる。 もう関係者はすべて卒業しているはずなので、ここに書いても問題ないだろうから書くが、こうやって来る学生が言うことはいろいろで、そこにはそれなりの人生を感じさせるものがあるのです。 「就職が決まっているんです!!」 「それはオメデトウ!」 「卒業したら結婚することになっているんです・・・!!」 「それはホントにオメデトウ!!」 「・・・実はアタシ、子供が・・・!!」 「それはホントにホントにオメデトウ!!!」 そう言えば数年前には人だけではなく、母親、さらに祖母までが一緒になって研究室を単位乞いしてまわっ

    planetes
    planetes 2007/03/12
    最高。