★大正~昭和初頭、ジャーナリストとして活躍した北村兼子が、「優生学」にもとづく産児制限・強制断種に対し、人道上・医学の将来性の観点から、反対意見を述べた文章です。『社会事業研究』昭和4年刊に所収。 ★社会事業の先駆者である生江孝之は、同じ誌面で強制断種を強く支持。生江らの主導もあり、日本はのちに国民優生法、戦後には優生保護法制定へと動いていきます。兼子の批判は、優勢思想が広まるなかでのものでした。 ★婦人運動界隈では家庭に「花柳病」を持ち込む夫から母体を守るため、優生学が支持されていました。これは女性の権利要求のひとつで、戦後の優生保護法には加藤シヅエ(日本社会党)らの働きかけがありました。 ★近年、ようやく法律上では優勢思想が撤廃されましたが、以上のような歴史をみると、両義性のある問題だったことがわかります。兼子の意見も、女性の権利運動家とも距離をおいた独自のものであり、彼女の持ち味であ