江戸時代から近現代までの姐御たちを、史実とエンタメ(浮世絵・浄瑠璃・歌舞伎・小説・宝塚・女剣劇・時代劇映画・任侠映画etc.)からひもとく、ちょっと変わった女性史本です。
![あたらしい女性史の本が出ます💐](https://cdn-ak-scissors.b.st-hatena.com/image/square/61701aa102d1dc6a0dad624bcb79a09dc2553438/height=288;version=1;width=512/https%3A%2F%2Fcdn.amebaowndme.com%2Fmadrid-prd%2Fmadrid-web%2Fimages%2Fsites%2F436354%2Fd47d6b5a48916ba37871b2a89d15df45_95b73bdbaf1725170d999b5f7c21716c.jpg)
幕末。鎖鎌を携え、夜道を歩くひとりの女性がいました。……なんのために? 出産のために。 彼女の名前は、津久井磯(つくい いそ)。助産師の元祖であり、産院を設立して後進の育成にも力をつくした人物です。 *江戸の職業婦人の代表格 磯が生まれたのは、文政12(1829)年の前橋(群馬)。以前ご紹介した奈良のゴッドハンド女医・榎本住(えのもとすみ)は、ひとつ年下の文政13年生まれです。 当時、江戸では庶民が担い手となった文化が爛熟期を迎えていました。 画業や商業で名を成したり、寺子屋・三味線の師匠として職をもったりと、自活する女性も増えていました。 町娘であっても歌舞音曲の腕を磨けば奥女中として働くこともでき、奥勤めは結婚に際してかなりの箔になるのでおっかさんから無理やり習わされてうんざり……なんて娘も(式亭三馬『浮世風呂』)。こうした風潮から、とくに踊りと三味線はブームになっていました。 幕府・
*『西郷どん』に描かれない薩摩おごじょの帝大生 鹿児島はいまなお男尊女卑が根強いと指摘されますが、その要因のひとつが「武士の国」ならではの精神的風土でしょうか。明治政府で薩摩閥は海軍を形成したことから、出世するには軍人か政治家でなければ、といった風潮があり(長州でも似たようなものだと思う)、古くから薩摩では自然科学が育ちにくい、などともいわれてきました。 そんな鹿児島で、化学者として大成した丹下ウメという女性がいます。鹿児島のデパート「山形屋」の入り口には、彼女の銅像が建っています。 ウメは、ビタミンなど栄養学を専攻した日本人女性でふたりめの農学博士。女子初の帝大生としても知られる人物です。鹿児島は明治維新の拠点なので銅像が多いのですが、陸軍大将・西郷どんをはじめ、やはり軍人軍人政治家軍人軍人政治家軍人……ばかり。だから、山形屋のウメの銅像は、女性であるうえに学位帽をかぶった姿で、とても珍
★大正~昭和初頭、ジャーナリストとして活躍した北村兼子が、雑誌『雄弁』昭和4(1929)年2月号に寄稿したエッセイです。 ★関西大学法学部に在学中、スカウトされて大阪朝日新聞記者となった兼子は、当時から多くの雑誌にも評論や随筆を寄稿していました。この雑誌では流行のモダンボーイについて論じていますが、注目すべきは紙面に落書きされた兼子への憎悪の文句です。 ★兼子へのバッシングは3年前から本格化していました。通俗紙などに兼子に関する性的デマ記事が載るようになり、約2年で退社に追い込まれてしまいます。しかしその後も、兼子へのオファーは相次ぎ、民政党幹部に請われて応援演説を行なったり、弁護士を務めたりとますます多忙に。 ★さらに、この記事が掲載された昭和4年には、第11回万国婦人参政権大会(ベルリン)に参加、英語とドイツ語で演説をしたほか、各国代表女性らとラジオ演説も行っています。初夏から盛夏にか
結婚式当日に置手紙を残し、逃出す――。 そんなドラマみたいな話、実際にもあるようですが、あくまでも現代でのこと。親が決めた相手と結婚するのが普通だった明治の女性がやってのけたとしたらどう思いますか? しかも、理由が「私はよそに出て、もっともっと勉強がしたい」だったら? *この支配からの卒業 その女性とは、明治6(1890)年に熊本県・牛深に生まれた宇良田唯(うらた ただ)。日本人女性では初めて、ドイツで医学博士の学位を取得した人物である。 唯は幼いころから聡明で活発、「男の子みたい」と言われて育った。成人してからは165㎝の高身長に大股で歩き、ますます「男の子みたい」に。医学生時代は男装がハマっていて、人力車の車夫に「旦那、どちらまで?」と言われると喜んだという話が残っている。 18歳で決まった縁談の相手は同じ土地の豪商の若旦那。当時としては申しぶんのない「女の幸せ」だった。 唯の出奔につ
民権ばあさんa.k.a楠瀬喜多(くすのせ きた) いま話題の「badass grandma」――タフでヤバいばあさんが大好きです。 そういうばあさんの話だとだいたい欧米の映画や巷の名物婆さんがニュースになったりしますが、もちろん日本にもいます(自撮りばあちゃんでおなじみ西本喜美子さんとか)。 私は、女性史からロールモデルを発掘して広めたいと思っているので、ここでは昔の日本からBadassな婆を紹介していきます。 世界で2番目に女性参政権が実現した土佐 明治10年前後から、国会開設や選挙権獲得などをもとめる自由民権運動がもりあがるなか、各地の政談演説には女性の姿も見られるようになります。 板垣退助ら民権運動の先駆者を多く輩出した高知では、女性活動家も現れます。それが、のちに「民権ばあさん」と呼ばれるようになる楠瀬喜多でした。 喜多は21歳で結婚した楠瀬実(元・土佐藩剣術指南)と38歳で死別し
★大正~昭和初頭、ジャーナリストとして活躍した北村兼子が、「優生学」にもとづく産児制限・強制断種に対し、人道上・医学の将来性の観点から、反対意見を述べた文章です。『社会事業研究』昭和4年刊に所収。 ★社会事業の先駆者である生江孝之は、同じ誌面で強制断種を強く支持。生江らの主導もあり、日本はのちに国民優生法、戦後には優生保護法制定へと動いていきます。兼子の批判は、優勢思想が広まるなかでのものでした。 ★婦人運動界隈では家庭に「花柳病」を持ち込む夫から母体を守るため、優生学が支持されていました。これは女性の権利要求のひとつで、戦後の優生保護法には加藤シヅエ(日本社会党)らの働きかけがありました。 ★近年、ようやく法律上では優勢思想が撤廃されましたが、以上のような歴史をみると、両義性のある問題だったことがわかります。兼子の意見も、女性の権利運動家とも距離をおいた独自のものであり、彼女の持ち味であ
★大正~昭和初頭、ジャーナリストとして活躍した北村兼子の文章です。大正15(1926)年刊『ひげ』(改善社)に所収。 ★関西大学法学部に在学中からすぐれた才知が評判となり、大阪朝日新聞記者に抜擢された兼子は、それから1年の間に『婦人』『週刊朝日』などに多くの評論や随筆を寄稿。そのなかから評判の文章を抜粋し、1冊にまとめたのが『ひげ』です。兼子初の著書『ひげ』は売れに売れ、発売1か月弱で四版が発行されました。このとき、兼子23歳。 ★明快かつ鋭い論旨にユーモアを交えた小気味いい文章が魅力で、とくに女性の権利問題を扱った文章は現代にそのままもってきても通用するものばかり。普遍的かつラディカルな思想、強い信念に改めて気づかされます。この文章でも「男ばかりがよってたかって作った法律」に対し、法学の知見を活かして袈裟懸けに斬りまくっています。 ★現代仮名遣いに直し、一部の漢字は常用/ひらがなに直して
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