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ブックマーク / www.medieviste.org (6)

  • ポルピュリオスの反キリスト教論

    これも昨年末ごろから少しづつ目を通していたものだけれど、Bompianiの対訳シリーズで昨年出たポルピュリオスの『反キリスト教論』(Porfirio, “Contro i cristiani”, trad. Giuseppe Muscolino, Bompiani, 2009)。どういう異論をぶつけるのかと思っていたら、直情的とも言える身も蓋もない反論の数々だった(苦笑)。ま、むしろそれだけに、ある意味面白くもあるのだけれど。ポルピュリオスのこの反キリスト教論は文書として残っているものではなく、例によって証言の数々を収集したもの。ドイツのプロテスタントの神学者だったアドルフ・フォン・ハルナックが10年ほどを要してまとめあげ、1916年に刊行した断片集がそれ。今回の対訳は、ギリシア語部分のみならず、そのドイツ語序文ほかも含めて伊語に全訳したというもの。 それにしても鮮烈なのは内容だ。章立

  • マイモニデスのコスモゴニー

    ケネス・シースキンという人の『マイモニデスによる世界の起源』(Kenneth Seeskinm, “Maimonides on the Origin of the World”, Cambridge, 2005)を読み始める。マイモニデスのコスモロジー系の話なのだけれど、基的には概説書という感じ。長さも200ページちょいだし。 創造神、『ティマイオス』、アリストテレスの世界の永続性、プロティノスなど、創成神話の諸テーマをめぐりながら、マイモニデスのスタンスをそれらとつき合わせて確認・整理するというもので、マイモニデスの合理主義的な立場がいかにそれらのテーマを批判しているかに重点が置かれているように思える。うーむ、正面切ってのマイモニデスのコスモゴニー思想を論じるというのを期待していたので、少し違う感じも(苦笑)。とはいうものの、全体的な整理としてはなかなか有益かもしれないなあ、と気を取り

    マイモニデスのコスモゴニー
  • 「天使」は「隅石」?

    ブログ「ヘルモゲネスを探して」さんのところから、今月23日のエントリに衝撃的な一言が:「天使とは角度のことであったのか?」。うーん、angelusとangulus、確かにラテン語において両者が形の上で混同されそうな感じはする。でもギリシア語まで行くとまた違う……と思いつつ、ふと思い出した。夏前ごろからずっと読んでいるピロポノスの『世界の始まりについて』6巻11章に(この箇所は、世界の支配者は人間ではなく天使だというテオドロスの説への反論を述べているところ)、天使は地上のすべてを統べるのではないが、個別の(みずからの)秩序を統べる、みたいなことが記されていた。この一文、何気なく読んでごく普通にディオニュシオス・アレオパギテスの天使の序列論を思い浮かべていたのだけれど、これを「天使こそが秩序の要(土台)だ」というふうにとると(ちょっと強引か?)、にわかにこれが「角」に結びついていきそうにも思え

    「天使」は「隅石」?
  • 天使の場所

    久々にブログ「ヘルモゲネスを探して」をまとめ読み。「針先で踊る天使たち」というシリーズが続いていて興味深い。ちょうど『中世の哲学的問いにおける天使』(“Angels in Medieval Philosophical Inquiry”, ed. Isabel Iribarren & Martin Lenz, Ashgate, 2008)という論集を読み始めたところで、これに、以前天使論の言語研究とかを出していたティツィアーナ・スアレス=ナニがスコトゥスがらみでの分離実体の場所論(位置論)を寄せていて、その前段部分が天使の場所論についての簡潔な整理になっている。 画域的(circumscriptive)場所と限定的(definitive)場所という概念を導入したのはペトルス・ロンバルドゥスなのだそうで、とりわけ非物体的被造物について言われるこの後者の概念の理解をめぐって、後世の議論が巻き起こ

    天使の場所
  • メレオロジー

    そのタイトルに惹かれて(笑)、中山康雄『現代唯名論の構築 – 歴史の哲学への応用』(春秋社、2009)を読み始める。とりあえず最初の3分の1にあたる3章まで。バリバリの難しい論考なのかと身がまえていると、想定読者に「君」と語りかけるスタイルで、入門書的な雰囲気を漂わせてくる。とはいえ、実際に「一般外延メレオロジー」の話に入っていく段になると、形式論理学っぽさが増してくるので、ちょっと読むスピードが落ちてくる……(苦笑)。同書の基スタンスは、外的世界には個物しかなく、その個物をインスタンス(事例)として上位のクラス(類)を作るのは認識の働き、つまりは形式論理学的操作でしかないというのが出発点(だから唯名論ということになるわけだけれど)。で、部分と全体を形式論理的に考えるメレオロジー(部分論)が、その操作を説き明かすための基体系として用いられる。個物は何かの部分をなし、それらが何らかの全体

    メレオロジー
  • トマスと西田哲学?

    長倉久子『トマス・アクィナスのエッセ研究』(知泉書館、2009)を読み始める。まだ半分ほど。著者の長倉氏は2008年1月に逝去されていて、これは古いものから近年のものまで、トマスに関する論文を編纂した一冊のようだけれど、まさに著者が後の世代に贈った遺書という感じでもある。いやいや単なる遺書という生やさしいものではないかも。これはむしろ挑戦状か。収録論文でおそらく最重要のものは、4章目の「<だ>そのものなる神」。一見するとちょっと変なタイトルに見えてしまうけれど、なんとこれ、西田哲学とトマス思想との対比を試みたもの。著者はトマスにとっての神、あるいは源としてのesseが、西田幾多郎のいう「絶対無」と同じく、現実を支えながらそれ事態はある絶対的な断絶の向こう側にあるものを、なんとか言葉で捉えようとする思想的な試みであるとし、あえて西田哲学はそこに「無」「場所」のような概念を持ち込んでいるせい

    トマスと西田哲学?
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