父を情けない、恥ずかしい人と思っていました。ずっと。 化学の技術者で、戦中は小田原の軍需工場にいた。陸軍のために防毒マスクや戦闘機の防水布を開発する仕事です。それだけじゃない。僕は中学の頃、父の当時のスケッチを見つけた。「これ何」と聞くと、「潜水用空気袋。試作を命じられた」。米軍上陸を想定し、波打ち際に少年兵を潜ませて捨て身の突撃をさせるためのものでした。僕にとって「特攻」は神風のことじゃなかった。 さらに。父が技術者を選んだのには理由があった。戦局悪化後に工場に入ったのは、軍の作戦に直結するという計算から。徴兵逃れです。戦争で身内を亡くした友だちには絶対に話せない父の過去だった。 戦後は中学の理科の教師になったけど、「教員に落ちぶれた」と平気で言う。教え子に失礼だと腹が立ったし、現実から常に半歩ひいた、この志のない人生への態度は何なんだろうと子どもながらに思いました。 父の生家は東京・大