タグ

ブックマーク / tkshhysh.hatenablog.com (4)

  • 市場は非合理的主体を淘汰するか? - Metaeconomics

    経済学はなぜ合理的な主体を想定するのか?という問いについて、Friedmanによる有名な答えがある。それは、「非合理的な主体は間違った投資選択をするので長期的には損を被り、市場から淘汰される。したがって、非合理的な主体は長期的な経済の挙動に影響を及ぼさないと考えられ、合理的な主体を想定しても分析上失うものはない」というものである。これをFreedman仮説と呼ぶことにしよう。*1 これは決して自明ではないし、なおかつ解釈に注意を要する命題である。というのは、長期的将来において淘汰を勝ち抜き市場をdominateすることと、何がしかの目的に照らして合理的に振舞うこととは全く別物だからである。 例えば、割引効用選好をもつ人々からなる経済では、最も割引率の低い=最もpatientで将来に重きを置く個人以外は、長期的な将来においては所得がゼロに収束することが知られている(Becker (1980)

    市場は非合理的主体を淘汰するか? - Metaeconomics
  • 限定合理性研究の2つのジレンマ - Metaeconomics

    人間が通常の経済学が想定するような意味で合理的ではない、という主張は受け入れたとして、それでは社会科学における人間行動の研究はいかなるものであるべきだろうか? 異なる主観的価値の貫徹あるいは充足(最大化とは言わないまでも)を目指す異なる個人が社会においてどう折り合うかあるいはどう相克するか、という社会科学の基(唯一とは言わぬが)テーマを離れて、合理性を全く問わずに行動あるい心理の現象的な法則性のみを追求することは、事実分析のあり方として現実的ではないし、また少なくとも社会科学をやる上では意味がないと筆者は思っている。これは経済学における共通見解でもあると思う。首尾一貫的でないながらもそれなりの価値基準を持った個人が、完全でないながらもそれなりの推論能力を以って行動を選択する限定合理性の研究が追求されているのもその故にであろう。 そうした限定合理性の研究は2つのジレンマを抱えている。よく知

    限定合理性研究の2つのジレンマ - Metaeconomics
  • 資源配分の公平性(2) - Metaeconomics

    生産経済における資源配分の公平性について述べる。 能力の差異がない場合 人々の間に能力の差異がないならば、交換経済における議論をそのまま容易に拡張できる。選好の対象に「余暇」を含めるだけである。そのうえで「原始状態」においては、交換経済と同じく、人々は自分の選好以外のものには責任を持たないと考えられる。つまり、ここで許容される「格差」=異なった労働時間によって異なった消費が人々の間でなされることは、純粋により多く時間を余暇に回したいか労働に回したいかの選好によってのみ説明される範囲に限られる。 よりフォーマルに、個人の消費と余暇の組み合わせをと書き、彼の余暇へのそれを含んだ選好をと書こう。このとき、個人が個人を羨むとは、たることを言う。つまり、が自分の消費・余暇よりもの消費・余暇を好む状態を指す。そして、消費と余暇の配分が無羨望であるとは、誰もが誰もを羨まないことを言う。 この意味での無羨

    資源配分の公平性(2) - Metaeconomics
  • 効率性と厚生比較 (1) - Metaeconomics

    「効率」という言葉が言論において出てくるのはたいてい、「効率優先」を慨嘆するような文脈においてである。もう一方で、「効率」概念が積極的肯定的に用いられる場面においては、「これに同意できないのはバカだ」と言わんばかりに、あたかもそれが「科学的」な基準であるかのごとく言及されている。いずれにしても、こうした形で登場する「効率性」はある一元的な基準として用いられており、肯定も反発もそこに向けられているように見受けられる。 しかし、経済学においては来、効率性それ自体はそんなに強い含意を持っていない。むしろ含意が弱すぎることの方が問題だと言っていいくらいである。*1もしこの効率性が何がしか一元的な基準に見えるようであるならば、それは「効率性 plus something」が語られているのであり、語っている当人がこの something に気づいていないかあるいは意図的に触れていないかのどちらかの理

    効率性と厚生比較 (1) - Metaeconomics
  • 1