猪熊事件(いのくまじけん)は、江戸時代初期の慶長14年(1609年)に起きた、複数の朝廷の高官が絡んだ醜聞事件。公家の乱脈ぶりが白日の下にさらされただけでなく、江戸幕府による宮廷制御の強化、後陽成天皇の退位のきっかけともなった。 経緯[編集] 天下無双の美男・猪熊教利[編集] 猪熊家は知行200石を有した公家で山科家の分家であった。その猪熊家の当主左近衛少将・猪熊教利は、天下無双と称えられるほどの美男子で、『源氏物語』の光源氏や平安時代の在原業平にもたとえられた。また、当時流行したかぶき者の精神を汲んだ彼の髪型や帯の結び方は「猪熊様(いのくまよう)」と称され、京都の流行になるほどだったという。しかし、猪熊はかねてより女癖が悪い人物で、人妻や宮廷に仕える女官にも手を出し「公家衆乱行随一」と称されていた。 その一方で、猪熊は若年の頃は高倉家を継いでいたが、朝廷および一族内部の事情から山科家の当