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三浦義同の検索結果1 - 6 件 / 6件

  • 三浦・油壺諸磯から三崎へ歩く その1 三崎口から浜諸磯 - 散歩の途中

    神奈川三浦半島、三崎口を起点に途中油壺、諸磯などに寄り道しながら三崎へ向かいます。 京急線の終点、三崎[マグ]口駅 久々にやってきました。こちらは何年も前から相変わらず「みさきまぐろえき」です。 〈最近「京急蒲タコハイ」駅を名乗った某蒲田駅はクレームがついて元に戻してしまったとか  それは置いといて〉 駅前の通称三崎街道を南へ歩き出し、まず油壺を目指します。 途中を森と干潟の『小網代の森』経由もありますが、今回はその南側をまわってごく普通の道路を歩いて行きました。 そして意図したわけではないのですが、三浦半島一帯で平安時代頃から有力な豪族であった三浦氏に関連した古跡などをあちこち目にすることとなりました。 帰ってから三浦氏所縁の場所の解説を人力字おこししてついでに歴史の知識として蓄えてしまおうなんて気になり、そんなわけでいつもより文字数多いです。 三崎街道を先に進み、途中の引橋付近 この下

      三浦・油壺諸磯から三崎へ歩く その1 三崎口から浜諸磯 - 散歩の途中
    • <小田原北条氏の防衛戦(その12)>後北条氏の重要拠点 玉縄城 - 歴史ぶらり1人旅

      こんにちわ。rekikakkunです。 前回は小田原城の包囲陣地探訪について、 長々とお付き合いありがとうございました。(__) ここから再度、お城探訪になります。。。 下図のマップは昨年秋探訪しました小田原北条氏 関連のお城等を再表示しています。 今回は下図の④玉縄城をご紹介致します。 実は、④の玉縄城はマップの中では最後に探訪しました。 何も分かっていませんが、何か玉縄城を外してはいけない と感じ、追加で探訪してきた次第です。 (と言うか山中城の次はここでしょうと気が付いた(@_@;)) さて、天正18年1590年4月6日頃、 箱根を突破し、小田原城を包囲した豊臣本軍ですが、 流石に直ぐには小田原城を攻略できないので、 浅野長政を主将とした別動隊を編成し、 約2万の軍勢で相模、武蔵、下総方面の 北条方支城攻略を進めました。 その攻略対象、最初の有力な城が、 玉縄城と言えそうです。 10

        <小田原北条氏の防衛戦(その12)>後北条氏の重要拠点 玉縄城 - 歴史ぶらり1人旅
      • 大森藤頼 - Wikipedia

        大森 藤頼(おおもり ふじより、生年不詳 - 文亀3年11月2日(1503年11月20日)?)は、室町時代から戦国時代の武将。駿河大森氏当主。大森氏頼の次男で大森実頼の弟とされる。扇谷上杉家家臣。相模国小田原城城主。『寛政重修諸家譜』によれば、子に泰頼。 概説[編集] 兄の実頼が早世したため、父の氏頼が没した明応3年(1494年)前後に家督を継いだといわれる。氏頼没後の大森氏については不明確な点が多いため、藤頼の経歴も不明な点が多く、氏頼とかつて家督を争った大森憲頼の一派と内紛状態にあったともいわれる。官位は筑前守とも式部大輔ともされる。 小田原城陥落の時期[編集] 軍記物を通じて広く知られた逸話によると、氏頼の没後に伊勢新九郎盛時(北条早雲)が進物を贈るようになり、友好関係を装い藤頼に接近し、油断した藤頼が箱根山中鹿狩を許してしまったため、勢子に擬装した伊勢軍の奇襲を受け、小田原城を略取

        • 小田原北条氏は、いかにして短期間で発展したのか? その過程を探る(渡邊大門) - エキスパート - Yahoo!ニュース

          今や起業は盛んであるが、短期間で倒産する例は珍しくない。小田原北条氏は伊勢宗瑞(北条早雲)が短期間で権力を築き上げ、以後100年近く続いた。その過程を探ることにしよう。 北条氏の祖は、伊勢宗瑞(北条早雲)である。宗瑞の出自は諸説あったが、現在は備中荏原(岡山県井原市)の出身で、室町幕府の政所の執事を務めた伊勢氏の後裔とされている。 長享元年(1487)、宗瑞は興国寺城(静岡県沼津市)の城主となり、伊豆国の堀越公方の足利茶々丸、小田原の大森藤頼を攻め滅ぼした。三浦義同・義意父子に勝利し、相模国を制圧したのは、永正13年(1516)のことである。 永正16年(1519)に宗瑞が亡くなると、家督を継いだのが氏綱である。北条を姓としたのは、氏綱だった。氏綱は大永2年(1524)に江戸城の上杉朝興を河越(埼玉県川越市)に敗走させ、武蔵国に進出したのである。 氏綱が天文10年(1541)に没すると、氏

            小田原北条氏は、いかにして短期間で発展したのか? その過程を探る(渡邊大門) - エキスパート - Yahoo!ニュース
          • 三浦義同 - Wikipedia

            三浦 義同(みうら よしあつ)は、戦国時代初期の武将。東相模の大名。一般的には出家後の「三浦道寸」の名で呼ばれることが多い。相模三浦氏の事実上の最後の当主である。 生涯[編集] 三浦氏の内紛[編集] 扇谷上杉家から、新井城(三崎城とも)主・三浦時高の養子に入る(先に義同の実父・上杉高救が時高の養子であったとする説もある)。しかし、時高に実子・高教が生まれたため不和となり、初め山内上杉家の上杉顕定次いで祖父・大森氏頼を頼ったが、大森氏領内の足柄下郡の総世寺で出家して道寸と号す(一説には義同の実父・高救とその実兄で扇谷上杉家を継承した定正との不和によって、定正に忠誠を誓っていた時高が義同を実家に送り返したとする説もある)。 そのため三浦氏の被官は両派に分裂してしまう。明応3年(1494年)9月、義同は大森氏の支援を受けて新井城を攻めて時高・高教父子を滅ぼし、三浦家当主の座と相模守護代職(後に守

              三浦義同 - Wikipedia
            • 戦国武将の身長はどれくらい?戦国時代の平均身長と有名武将の身長 - 【戦国BANASHI】日本史・大河ドラマ・日本の観光情報サイト

              戦乱の世で戦いを繰り広げ、多くの歴史を残してきた戦国武将。 歴史を辿るとどの武将も大きな功績を残しており、その時代において圧倒的な存在感を放っていたことが伝わります。 これほどの人物であれば「体も大きかったのでは」と思う方もいると思いますが、実際のところ武将たちの身長はどのくらいだったのでしょうか。 今回は歴史に名を残した方々の身長に加えて、当時の平均身長も紹介していきます。 戦国時代の武将の平均身長は? 昔の人は現代の人よりも低身長だったといわれていますが、どのくらい小さかったのでしょうか。 戦国時代の平均身長は男性が157cm、女性が145cm程度とされており、男性の身長は160㎝にも及びませんでした。 同様に女性も145㎝程度とされており、男性と同じく小柄な印象が見受けられます。ただあくまで平均身長であるため、戦国時代の全ての方が低身長だったかといえばそうではありません。 現に200

                戦国武将の身長はどれくらい?戦国時代の平均身長と有名武将の身長 - 【戦国BANASHI】日本史・大河ドラマ・日本の観光情報サイト
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