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副島種臣の検索結果1 - 13 件 / 13件

  • 桐野作人 on Twitter: "最近のある学会誌に載った明治期の自由党についての研究書への書評を読んだ。評者も驚いているが、岩波文庫版ではない親本の『自由党史』上巻冒頭に自由民権運動を担った人物の肖像画の口絵があり、トップが何と、西郷隆盛。以下、板垣退助、後藤象二郎、副島種臣、江藤新平、福岡孝弟、由利公正……"

    最近のある学会誌に載った明治期の自由党についての研究書への書評を読んだ。評者も驚いているが、岩波文庫版ではない親本の『自由党史』上巻冒頭に自由民権運動を担った人物の肖像画の口絵があり、トップが何と、西郷隆盛。以下、板垣退助、後藤象二郎、副島種臣、江藤新平、福岡孝弟、由利公正……

      桐野作人 on Twitter: "最近のある学会誌に載った明治期の自由党についての研究書への書評を読んだ。評者も驚いているが、岩波文庫版ではない親本の『自由党史』上巻冒頭に自由民権運動を担った人物の肖像画の口絵があり、トップが何と、西郷隆盛。以下、板垣退助、後藤象二郎、副島種臣、江藤新平、福岡孝弟、由利公正……"
    • 大久保利通が台湾出兵を決断し、自ら清国との談判に臨み賠償金を獲得したこと

      明治六年(1873年)十月に大久保利通、岩倉具視が、西郷隆盛を韓国に特使として派遣する太政大臣三條實美の決定を覆したことから、西郷隆盛、板垣退助、江藤新平、後藤象二郎、副島種臣らが辞表を提出して下野し、彼らに近い官僚・軍人の約六百人が職を辞した(明治六年の政変)のだが、大久保利通は、西郷らが職を辞したわずか四ヶ月後の明治七年(1874年)二月に台湾出兵を計画し、五月に出兵している。教科書などでは大久保が征韓論に反対したのは、国内改革を優先したなどと書かれているのだが、内治を優先する方針であるならば、台湾出兵についても反対でなければ筋が通らない。なぜ、大久保は台湾出兵を行ったのか。今回はその間の事情について書くこととしたい。 明治初期の台湾問題 そもそも明治初期において台湾と日本との間にどのような問題が起きていたのだろうか。木戸孝允の伝記に明治四年(1871年)に那覇港を出帆した宮古島の船が

        大久保利通が台湾出兵を決断し、自ら清国との談判に臨み賠償金を獲得したこと
      • 明治四年一月に廣澤眞臣を暗殺した黒幕は、政権中枢にいた人物ではなかったか

        明治十七年(1884年)に山崎之人が著した『維新元勲十傑論』という本がある。この本において著者は明治維新に尽力した志士の十人として、西郷隆盛、木戸孝允、大久保利通、江藤新平、横井平四郎(小楠)、大村益次郎、小松帯刀、前原一誠、廣澤兵助(眞臣)、岩倉具視を挙げて、それぞれの伝記を記している。これらのメンバーのうち横井、大村、廣澤の三人は明治の初期に相次いで暗殺されており、そのうち大村、廣澤は長州藩の人物である。 廣澤眞臣 (Wikipediaより) 明治二年(1869年)に起きた横井小楠暗殺事件、大村益次郎の暗殺事件についてはすでにこのブログで書いたのだが、この二件については暗殺された事情も一通りわかっていて、その下手人も捕らえられ処刑もされている。しかしながら、明治四年(1871年)の一月に起きた廣澤眞臣(ひろさわ さねおみ)の暗殺事件については、彼が何のために暗殺され、下手人が誰であった

          明治四年一月に廣澤眞臣を暗殺した黒幕は、政権中枢にいた人物ではなかったか
        • 江藤新平と佐賀の乱~~戦争煽動責任は政府にあるのではないか

          前回の「歴史ノート」で、明治六年十月に大久保利通や岩倉具視が征韓論に大反対して、西郷隆盛、板垣退助、江藤新平、後藤象二郎、副島種臣らは辞表を提出して下野し、彼らに近い官僚・軍人の約六百人が職を辞した政変について書いたが、今回はその後の江藤新平に焦点を当てて書くこととしたい。 明治六年の政変直後の情勢 維新以来、明治新政府に対して不満を持つ者が少なくなくなかったのだが、征韓論が破裂したことで、各地で不満が爆発しそうな不穏な情勢となっていた。 渡辺幾治郎 著『大隈重信 : 新日本の建設者』には、政変直後の情勢についてこう解説されている。 征韓論の破裂で、朝野に於ける新旧主義の衝突は到底免れぬ勢いとなった。維新以来、明治新政府に対する不平の徒、西洋文明の輸入を嫌った保守主義者、攘夷の流れをくむ国権論者、封建制度が撤廃から浮かぶ瀬もなくなった不平士族、薩長専制に対する閥外の不平家等々、総て現制度、

            江藤新平と佐賀の乱~~戦争煽動責任は政府にあるのではないか
          • 佐賀県☆彡偉人モニュメント『大隈重信 副島種臣像』☆彡 - mika旅❣ぐるっと🚙★Collection★blog

            佐賀市中央通りに設置されている偉人モニュメント 11名の偉人の一つ 『弘道館で学んだ若き日の賢人たち』 大隈重信 早稲田大学の創設者 副島種臣 『正義の人』として許された外務卿 mika262.com mika262.com mika262.com mika262.com mika262.com mika262.com mika262.com

              佐賀県☆彡偉人モニュメント『大隈重信 副島種臣像』☆彡 - mika旅❣ぐるっと🚙★Collection★blog
            • 明治二年正月の横井小楠暗殺を追う

              前回の記事で奇兵隊が明治二年(1869年)に政府に反旗を翻したことを書いたが、明治の初期には政府の要人が相次いで暗殺されている。同じ明治二年の一月に参与の横井小楠(よこい しょうなん)が暗殺され、九月には兵部大輔の大村益次郎、明治四年(1871年)には参議の廣澤真臣(ひろさわ さねおみ)が暗殺された。教科書や通史には、この時期に相次いで政府の要人が暗殺されたことに触れていない本が大半なのだが、なぜこのような重要事件について書かないのであろうか。 横井小楠 今回は、三人の中で最も年長であった横井小楠がどのような人物であり、彼が暗殺された経緯についてまとめておくことと致したい。 横井小楠と『国是三論』 横井小楠は文化六年(1806年)八月十三日に熊本藩士の次男として生まれ、通称は平四郎で実名は時存(ときひろ)といい、後に小楠、沼山と号した。天保十年(1839年)に江戸に出て、藤田東湖や佐藤一斎

                明治二年正月の横井小楠暗殺を追う
              • 実は米国がでっち上げた嘘だった「南京大虐殺」 記念館の撤去で米中共作の嘘を正し「亡霊」の駆逐を求む | JBpress (ジェイビープレス)

                2019年12月13日、「南京事件」から82年の記念式典。「南京大虐殺」という嘘が大きく掲げられている(写真:新華社/アフロ) 日本(軍)の疑心暗鬼 日本は性善説に立つ国で、下記のように人権や人道、国家主権などを重んじる数少ない国である。明治以来のこうした積善が認められ、世界で尊敬される国の上位にランクされ続けてきた。 その第1は奴隷の釈放である。 アブラハム・リンカーン米国大統領は1862年9月に奴隷解放を宣言したが、大陸横断鉄道建設などで依然として奴隷を使っていた。 ペルー船「マリア・ルス号」が横浜港に立ち寄った折に中国人苦力(クーリー)を輸送していることを知った副島種臣外務卿(外務大臣)は、奴隷運搬船と判断し国際裁判で勝利する。 奴隷解放宣言から10年しか経っていない時である。 第2は人種差別撤廃である。 第1次世界大戦後の1919年、パリ国際会議に参加した日本代表団は国際連盟規約に

                  実は米国がでっち上げた嘘だった「南京大虐殺」 記念館の撤去で米中共作の嘘を正し「亡霊」の駆逐を求む | JBpress (ジェイビープレス)
                • 「幕末雄藩列伝」③土佐藩と肥前佐賀藩 - 厚狭吉亭日乗・神戸残日録

                  明治維新政府を構成した主要な旧藩を薩長土肥(さっちょうどひ)と呼びならわすことが多い。 薩摩長州は言うまでもないほど取り上げられているが土佐(高知県)山内家、と肥前(佐賀県)鍋島家は前二藩ほど取り上げられる機会が多くなく敢えてここに書かして貰うことにした。 土佐と肥前はどちらも幕末に英明を知られた藩主が出たことで表舞台に出てきたことで共通している。 土佐は第15代藩主山内豊信(とよしげ・容堂)で自ら「鯨海酔侯(げいかいすいこう)」と号した酒豪で藩政を吉田東洋に託しその結果後藤象二郎、板垣退助、谷干城などの上士出身の人材を輩出させた。 一方藩の成立時から伝統的に対立が深い下士出身は土佐勤王党を結成し対立しながら中央政局の一翼を担い、公武合体策や大政奉還などで土佐藩は主導権を握り、戊辰戦争にも板垣退助を中心に土佐兵は活躍して新政府に重きをなすことになる。 明治5年山内容堂は過度な飲酒がたたり脳

                    「幕末雄藩列伝」③土佐藩と肥前佐賀藩 - 厚狭吉亭日乗・神戸残日録
                  • 【皇紀】2680年7月9日 - 素人が新聞記事書いてみた

                    今日はマリア・ルス号事件が起きた日だ。「マリア・ルーズ号事件」とも呼ばれている。 明治5年(1872年)、横浜港に入港していたマリア・ルス号(ペルー船籍)から、惨い扱いをうけていた支那人苦力(クーリー)が脱走した。 日本政府は支那人苦力を保護した。これにより、日本は初めて国際裁判の当事者となった。 金色と黄色が「清」の最大領土、金色が本土「支那」で黄色は侵略地、出典:Wikimedia 17世紀初頭から20世紀初頭、東アジア大陸には「清(しん)」という国が存在していた。中華人民共和国はまだない。 上の画像の金色の部分が漢民族の居住地で「支那」と呼ばれる地域。ここに存在する国や王朝も「支那」と呼ぶ。 支那という呼称は「支那の呼稱を避けることに關する件」により、現在ではあまり使われなくなった。 苦力(クーリー)とは、19世紀から20世紀初頭にかけての、支那人やインド人を中心とするアジア系の出稼

                      【皇紀】2680年7月9日 - 素人が新聞記事書いてみた
                    • 血と涙を流し歩んだ20余年。「明治憲法制定」と「統帥権独立」で何が起きなかったか | 和樂web 美の国ニッポンをもっと知る!

                      はじめに 明治元年3月、まだ江戸開城交渉が妥結していなかったとき、明治天皇は 「広く会議を興し、万機公論に決すべし」 と、天地神明に誓いました。このとき撒いた種が芽生え、育ち、花開き、実を結ぶまで20年以上をかけて数々の段階を踏んできました。 それが現実のものとなったのが、明治憲法の制定と国会の開設です。 多くの血と涙を流しながら歩んできた20年余の足取りを、たどってみましょう。 やっと「公議」が実現したけれど まず明治新政府は明治元年閏4月21日(1868年6月11日)に政体書を公布、「天下ノ権力総テコレヲ太政官ニ帰ス」ことを宣言しました。今後は政令すべて太政官(ダジョウカン)から発せられるということです。そして、太政官制の下で立法、行政、司法の三権を分立すべきことを政体書に盛り込んでいました。このとき江戸開城で戊辰戦争は終結すると期待していたんじゃないかと思われますけれど、東北・北越戦

                        血と涙を流し歩んだ20余年。「明治憲法制定」と「統帥権独立」で何が起きなかったか | 和樂web 美の国ニッポンをもっと知る!
                      • 9月12日 新橋ー横浜間鉄道開業 - 日刊  おっさんの人生これから大逆転だぜえ!(日本史+史跡+旅情報)

                        JR新橋駅前にあるSL。1972年昭和47年)10月に鉄道開業100周年を記念して設置されたものです。 1872年(明治5年)旧暦の9月12日、新橋ー横浜間での我が国初の鉄道の運行が始まりました。 当日、新橋駅では式典が催され、明治天皇を乗せたお召し列車が新橋駅から横浜駅に 向けて出発しました。 (鉄道は近代化の動脈) 江戸幕府を倒し誕生した明治政府は近代的な産業を育てることで「富国」を実現使用と考え、そのために殖産興業に取り組み交通の整備が始まります。 それの1つが日本初の鉄道、新橋―横浜間の開業です。 (2日がかりで歩いた距離を53分で通過) このとき開通した、新橋―横浜間の総距離は29キロで平均時速はおよそ32キロ。 所要時間は53分でした。 ちなみに、江戸時代、馬車でこの区間を走った場合には4時間は、かかります。 また徒歩だと1泊2日を要します。それが列車だと1時間弱で行けるように

                        • 大久保利通が征韓論に反対したのは政敵つぶしが目的 - ウェブ1丁目図書館

                          明治6年(1873年)。 征韓論争に敗れた西郷隆盛、江藤新平、副島種臣らが、官を辞して新政府を去りました。 征韓論は、武力をもって朝鮮を開国させようとするものであり、現在では考えられない外交手段です。しかし、明治初年の日本では、大多数の人々が征韓論に賛成の立場であり、議会で征韓論を反対した大久保利通や木戸孝允も、基本的には武力によって朝鮮を開国させるべきだと考えていました。 それなのに大久保利通は、征韓を主張する西郷隆盛と対立しました。 神功皇后の三韓征伐を信じていた 朝鮮を武力をもって開国させることを正しい行いだと、当時の日本人が信じていた背景には、神宮皇后の三韓征伐によって新羅が日本に服属したという神話があります。 現在では、三韓征伐は事実ではないと考えられていますが、三韓征伐を事実だと信じていた明治の政治家は、朝鮮は無礼だとし、武力を背景に開国させるべきだと考えます。 一体、何が無礼

                            大久保利通が征韓論に反対したのは政敵つぶしが目的 - ウェブ1丁目図書館
                          • 琉球の朝貢と冊封の歴史 - Wikipedia

                            琉球の朝貢と冊封の歴史(りゅうきゅうのちょうこうとさくほうのれきし)では、三山時代の1372年、明の洪武帝の招諭を受けて行われた中山王察度の入貢、1402年の武寧の冊封から、1866年の尚泰の冊封、そして1875年に明治政府によって清への進貢が禁止されるまでの歴史を中心に記述する。なお明治天皇による尚泰の琉球藩王冊封、そして進貢禁止後の琉球と清の朝貢、冊封復活への動きについても同記事内で紹介する。 文中の年代については、14世紀の和暦が南朝年号と北朝年号、17世紀の中国が清と南明諸勢力の年号等、3つ以上の元号の併記となる部分があり、煩瑣であると判断して西暦のみで統一した。 概要[編集] 略歴[編集] 14世紀後半、元をモンゴル高原に追って中国の統一を成し遂げた明は、成立直後から周辺諸国に対して積極的に朝貢を呼びかけた。明の呼びかけに応じた国のひとつに琉球があった。14世紀後半、沖縄本島には

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