伊藤博文は1909年に満州のハルビン駅で朝鮮人安重根によって暗殺されたが、ずっと伊藤博文の女好き・芸者狂いを揶揄し続けていた宮武外骨が「滑稽新聞」に掲載した漫画が凄まじい。死んでからもおちょくり続けている。 https://t.co/zQK00LoUxc
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室田義文の証言は何故葬り去られたのか 前回まで二回に分けて伊藤博文暗殺事件について書いてきた。 通説では犯人は安重根ということになっているが、安重根が拳銃を撃ったことは間違いないものの、室田義文の証言によれば、安重根の用いた銃の弾丸と、伊藤の体に残された銃の弾丸とは異なり、また伊藤の体に残された弾丸は、右肩を砕き右乳下に止まった一弾と、右肩関節を貫通して臍下に止まった一弾であったという。このことは、安重根が撃った五発の弾はいずれも伊藤には当たらず、伊藤は別の人物によって上方から狙撃され命中したものが致命傷になったことを意味している。 外交官時代の室田義文 室田義文は詳細な証言記録を残したのだが公式書類から抜き取られて、前回紹介した若狭和朋氏の論文(「伊藤博文暗殺 安重根は犯人ではない」)の表現を借りると、わが国政府はこの事件を「安重根の凶行として幕にした」、ということになる。 伊藤のすぐ後
暗殺時に最も伊藤の近くにいた室田義文の証言 わが国の初代首相であった伊藤博文は、明治四十二年(1909年)十月二十六日にハルビン駅頭で、韓国の独立運動を進めていた安重根によって暗殺されたというのが定説になっている。 安重根(Wikipediaより) 韓国では、安重根は抗日戦争の英雄と評価され、一九七〇年にはソウルに「安重根義士記念館」が建設されるなど、まるで韓国の国民的英雄扱いだ。 しかし、伊藤博文を暗殺した犯人は安重根でないという説が古くから存在する。 『歴史通(2010/7号)』で若狭和朋氏が「伊藤博文暗殺 安重根は犯人ではない」という論文を書いておられるが、その論文に、重要な指摘がある。 …奇妙な事実がある。外務省外交史料館に残された『裁判資料』の目次に、『室田義文の証言』とありながら、『証言』の本文が欠落している。 『歴史通(2010/7号)』p.83 室田義文 外交官の頃 室田義
宮城県が公費で設置した「安重根記念碑の案内看板」を撤去していたことが、13日わかった。 宮城県議会で、自民党の渡辺勝幸県議が「県費での設置は不適切だ」と指摘したことに対して、村井嘉浩(むらい・よしひろ)宮城県知事が撤去したことを明らかにした。 同案内看板については、自民党の和田政宗議員らが異議を唱えていた。 安重根記念碑の案内看板、出典:和田 政宗 on Twitter 安重根記念碑の案内看板は平成12年(2000年)、宮城県により同県栗原市の若柳金成(わかやなぎかんなり)インターチェンジ近くに設置された。 看板の大きさは縦0・8メートル、横2・8メートル。 「安重根記念碑(大林寺)」と日本語とハングルで書かれていた。また、下段に「安重根記念碑」と英語でも小さく書かれていた。 安重根(あん・じゅうこん)、出典:Wikipedia 安重根は大朝鮮国(李氏朝鮮)の反日活動家である。 明治42年
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