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  • 専門性の高いページ②|品田遊(ダ・ヴィンチ・恐山)

    【9月15日の献立】ひらすの照り焼き・ひじきと大豆の煮物・根菜汁・麦ごはん・牛乳・のりふりかけ #関市学校給食センター #2023年9月15日 ★低アレルゲン献立 pic.twitter.com/hmqNPjemV4 — 関市学校給食センター (@sekikyushoku) September 15, 2023

      専門性の高いページ②|品田遊(ダ・ヴィンチ・恐山)
    • マンキン「恐山ル・ヴォワール」を林原めぐみが歌ってみた

      10月21日にニコニコ動画にアップされ話題を呼んでいた、武井宏之「シャーマンキング」の「恐山ル・ヴォワール」の動画内で歌っているのが、恐山アンナ役を演じた林原めぐみ本人であることが明らかとなった。 「恐山ル・ヴォワール」は、同作における同名の人気エピソードに登場した劇中詩。動画がアップされて以来、「林原めぐみ本人が歌っているのではないか」「武井によるイラストではないか」とネット上で話題となり、わずか10日で再生回数70万回を突破していた。 本日ジャンプ改公式サイトにて、「シャーマンキング」復活に際し「何かファンに恩返しが出来ないか」と考えた武井が、林原めぐみの賛同を得て制作されたという経緯が明かされた。楽曲は、以前ファンが「恐山ル・ヴォワール」の詩を初音ミクに歌わせアップしていたものだ。 動画「恐山ル・ヴォワール」は、ジャンプ改公式サイトからも閲覧できるので、気になるファンはアクセスしてみ

        マンキン「恐山ル・ヴォワール」を林原めぐみが歌ってみた
      • 恐山あれこれ日記: 「セレブ」の不安Ⅱ

        「セレブ」の不安Ⅱ 過日死刑の判決を受けた、結婚をちらつかせて、三人の男性を自殺にみせかけ殺害したとされる女性。実は、私は、この事件と被告(控訴したようですので、一応そう呼びます)に関する報道に、かなり注目していました。 というのも、私にはこの事件が、今の時代に特有の、ある自意識の様態をめぐる犯罪に思えたからです。それは以下のようなことです。 いったい自分が何ものであるかを基本的に決めるのは、昔は「身分」とか「家柄」「血筋」というものでした。それは共同体の秩序が配分する「立場」あるいは「役割」で、その秩序の正当性と正統性を最終的に人々に保証していたのは、宗教的理念だったのです。 時代が変わり、貨幣がすみずみまで浸透し、共同体構造の土台が市場経済になると、これら「身分」「家柄」「血筋」は実質的に解体されてしまいます。死と同様、貨幣は人を選ばないからです。誰が持つのかではなく、どれだけ持つのか

        • ・・・〈恐山霊山〉といえば「イタコ」の口寄せ・・・恐山霊山関連記事最終 - クウォーツ(水晶)

          恐山霊場といえばイタコの口寄せ 恐山の祭典へ参加 イタコは、日本の北東北(東北地方の北部)で 口寄せを行う巫女のこと 南東北(東北地方の南部)においては 旧仙台藩領域(岩手県の南側約1/3と宮城県)でオガミサマ 山形県でオナカマ 福島県でミコサマと呼ばれる 福島県・山形県・茨城県ではワカサマとも呼ばれる イタコは、先天的もしくは後天的に目が見えないか 弱視の女性の職業であった 日本の東北地方に多く見られる習俗・民間信仰で 夏の恐山大祭(青森県)で行われるものが特に知られている 盲目や弱視の女性がイタコになったのは かつては生活の糧を得るためという事情もあった 第2次世界大戦の終結、高度成長期などを経て 日本の生活環境も大きく変化していった と同時に、厳しい修行を必要とするイタコに 敢えてなろうとする者も極めて少なくなっていった そのため、現役のイタコのほとんどは高齢者 国の選択無形民俗文化

            ・・・〈恐山霊山〉といえば「イタコ」の口寄せ・・・恐山霊山関連記事最終 - クウォーツ(水晶)
          • 恐山あれこれ日記: 妄想終末論

            妄想終末論 世の中に大きな災難があったり、そうでなくても、なんとなく閉塞感が高まってくると、いろいろなバージョンの人類「終末論」や「滅亡論」がどこからともなく出てくるものです。 聖書の「黙示録」やノストラダムスの「予言」などは、この種のものの「古典」でしょうが、人の思いつきは色々です。 私も中学生の頃、ひとつ思いついたことがあります。 当時の理科の教師が、授業中に大昔の生き物の話をしていたついでに、こんなことを言いました。 「生物のある種が進化し、繁栄した果てに、滅亡する。その滅亡の前には、様々な奇形的形態のものが増えてくる。巻貝であるアンモナイトの巻きが崩れて妙な形態になったり、マンモスの牙が異常に巨大になったり、曲がりがおかしくなったり。恐竜だって、考えてみれば、あれほどの巨大化は、生物としておかしいよな」 およそ、こんなことだったと思います。彼の説の当否はともかくとして、そのとき、私

            • 恐山あれこれ日記: 「栄光なき天才」たち

              「栄光なき天才」たち およそ試験が試験であるためには、次の二つの条件が必要です。 ①試験問題には事前に決められた一定の答えがあること。 ②出題者が受験者ではないこと。 この二つがそろわないと、試験すること自体が無意味です。 すると、受験者とは、あらかじめ答えを知っている者が出す問題を、いかに効率よく解くかの技術を競う人間ということになり、これは基本的な構図として、他人の支配や命令に手際よく従う能力を競うのと同じことになるでしょう。 ということは、試験によって計測するのに最も適しているのは、官僚か官僚的な(あるいは官僚化した)職業の場合です。私が思うに、「秀才」とはそのようなことに長けた「技術者」でしょう。 これに対して「天才」とは、すでにある「答え」を見つけるような人間ではありません。そうではなく、普遍的で根源的な「問い」を、彼の生きる時代と社会の課す条件の下、自ら取り組むべき「問題」とし

              • 恐山あれこれ日記: 「しょうがない」の精神

                「しょうがない」の精神 以下は、さる地方新聞から、正月用の記事にと寄稿を依頼されて書いたものです。 ここでいまさら、昨年がどんな年だったか、事あらためて言うつもりはない。正月とはいえ、おそらく今年の日本人は皆、そう無邪気に「おめでとう」とは言えないのではないか。 あの大震災と原発事故、さらに欧州の金融危機と東アジアの不安定化、さらにはそれらが結果的に露呈した様々な問題に、我々はいよいよ、正面から取り組んでいかなければならない。すなわち、我々は今までよりもっと、がんばらなけれならない新年を迎えたわけだ。 しかし、私がつらつら思い出すのは、震災直後に湧き起こり、ほぼ一年を通じて大合唱になった「がんばろう」に対する、どうも素直になれない自分の気持ちである。 これは私ばかりではなかったようで、たとえば、「被災した人に、あれ以上何をがんばれと言うんだ」と怒っていた知人もいた。だが、私の違和感はそれと

                • 恐山あれこれ日記: 「堕ちるぞ!」のお話

                  「堕ちるぞ!」のお話 善いことをすれば良いところ(天国、極楽など)に行けて、悪いことをすると酷い苦しみだらけの世界(地獄など)に行くという話は、古今東西の宗教や信仰に普通に見られるもので、それによって「倫理」や「道徳」を教えるのだ、というようなことが時々語られますが、それは誤解です。この話は、ただそれだけで終わるなら、宗教の話でも倫理の話でもありません。 善行の結果天国に行け、悪行のせいで地獄行きという話は、要するに正体が脅迫と利益誘導であって、アイデアの基本は損得の問題、世間の取り引きです。なぜなら、この話は何が善行であり、何が悪行なのか一切示していないのですから。 宗教や倫理の話にしたいなら、まず第一に、人間という存在の仕方をどう認識するのかを問わなければなりません。その認識から、次に、何をなすべきこととし、何をなすべきでないこととするのかを明らかにするわけです。そして同時に、得られた

                  • 恐山あれこれ日記: 「幸福」問答

                    「幸福」問答 その1 「幸福感がないんですが、どうしたらよいでしょうか?」 「簡単な方法があります。『あの人たちと比べれば、自分なんか幸せなほうだ』と思うことです」 「なるほど。実に最悪の方法ですな」 その2 「幸せな時は短く、不幸な時は長い。なぜですか?」 「逆なら話になりませんよ。幸せな時間が長くなれば、誰もそれを幸せだとは思わないし、不幸が短ければ、それは娯楽と変わらんでしょう」 その3 「幸せになりたいんです。どうしたらなれるか、教えて下さい」 「それは金儲けの仕方を他人に質問するのと同じです。他人が教える方法は、すべて役に立ちません」 「そんなあ・・・」 「ひとつ、考えがあります。不幸にも、そして幸福にも耐え切る手段を身につけることです」 その4 「幸せって何ですかね?」 「答えるのは無意味でしょう。むしろ、どうして人は幸と不幸を分けたがるのか考えたほうがよいと思います」 「どう

                    • 「苦」と「解脱」 - 恐山あれこれ日記

                      私の知人に、お母さんが認知症の方がいます。その症状が、おそらく前方向性記憶障害と言われているものの一種ではないかと思います。 このお母さんの場合、過去の記憶も家族の認知も確かですし、話の筋も通っていて、日記も書いています。ただ、ある時点(認知症発症の時点でしょう)から以後、まったく記憶が積み上がらず、直近の記憶が2、3分ですっかり消えてしまうのです。 最近では、骨折したことも、入院したことも忘れたんだそうです。 「なんで、こんなとこにいるのかねえ?」 「おばあちゃん、骨折したのよ。ここ病院」 「あれえ、そうなのかい。だから足がぐるぐる巻きなんだね」 しばらくするとまた、 「・・・なんで、こんなところにいるのかねえ?・・・」 こんな調子。短時間の痛みは忘れてしまうので、ずっと同じ痛みが途切れず続いて初めて、「痛い」らしいのです。 日記も、まさに書いているその時に見たり聞いたり感じたりしたこと

                        「苦」と「解脱」 - 恐山あれこれ日記
                      • 無記と空 - 恐山あれこれ日記

                        「机が無い」という認識(言い方)が成り立つのは、机が在ることを前提にしています。そもそも全くないものを「無い」と言うことはできません。つまり無いことそれ自体は認識できず、無いことの認識はあくまでも在ることに依存しているわけです。この、いわば「無い」ことを可能にする「在る」は、当然、普通我々が言うところの「在る」とは、その「在り方」が違うでしょう。 他方、「机が在る」という認識は、それを自分が見ている、触っているなどの経験を通じての認識であることが普通です。では、経験的に認識していないとき、すなわち見ても触ってもいないときに、「机が在る」と言えるのかと問うた場合、即座にイエスと即答できるでしょうか? 見ても触ってもいないものを、「在る」となぜ、どういう理由で言えるのかは、非常に困難な問題です。これは原理的に「在ると信じている」以上のことは言えません(さらに言えば、すべての「在る」は実際には「

                          無記と空 - 恐山あれこれ日記
                        • Kさんに - 恐山あれこれ日記

                          出家したいというあなたのお話はわかりました。まじめな気持であることも、そのとおりだろうと思います。そのうえで、申し上げます。 寺院の跡取りでもなく、親族に寺院関係者もいない、要するにも文字通りの「在家」から僧侶になりたいという人たちに、私はこれまで何度かお会いしましたが、彼らは多くの場合、四つのパターンに別れるように思います。 一つは、今ここでないどこかに行きたい、だから出家というパターン。いわば「ユートピア」型で、私に言わせれば「出家」というより「家出」的行為です。「出家」と言いながら、これまでそれほど強く仏教にコミットしてきたわけでもない。最近思いもよらない難事に見舞われて、狼狽した果てに唐突に思いついたような感じの人が多く、まず間違いなく失敗するパターンです。 こういう人たちは、大抵は、出家後にどういうことが待っているかを具体的に話せば、急速に気持ちが萎えて事なきを得るので、処理は対

                            Kさんに - 恐山あれこれ日記
                          • 恐山あれこれ日記: 悲しみの時

                            悲しみの時 ご家族の皆さん。壇上のご遺影の若々しさを見るにつけ、皆さんのお悲しみは、私にはお察しすることしかできません。まことにご愁傷のことと存じます。 ただ、私はいま、あえて言わせていただければ、故人がご家族の身と心を尽くした努力に看取られ、本日お集まりの、かくも多くの方によって弔われることを目の当たりにしたとき、この場におられる方々のお悲しみには、深い意味があると思わざるを得ません。 昨年の大震災は申すまでもなく、世の中には、突然、まるで引き裂かれるようにして、大切な人を亡くされてしまう方が大勢いらっしゃいます。そういう方々の中には、あまりの衝撃に、悲しむことさえできない人がおられるのです。自分から失われていったものの大きさを、確かに実感する気持ちの余裕も無くしてしまうのでしょう。  思うに、人間の誕生とは、単に子宮から肉体が放出されることではありません。それが「母」となる者の手に抱か

                            • 【祝・シャーマンキング復活】恐山ル・ヴォワールを振り返る - 紫の物語的解釈

                              漫画・ゲーム・アニメ等、さまざまなメディアにひそむ「物語」を抽出して解釈を加えてみようというブログです。 2011年11月10日発売の雑誌『ジャンプ・改』VoL.5において、 『シャーマンキング』の読み切りが掲載されました。 内容的には、『シャーマンキング 0-zero-』ということで、 シャーマンキング本編よりも過去、1995年、主人公・葉が 10歳の頃のお話でした。 シャーマンキング連載終了から、7年…。 完全版刊行から、3年…。 完全版の後日談で魅力的なキャラが多数登場したこともあり、 ファンにとっては続編への期待が非常に高かった作品かと思います。 それだけに、この『ジャンプ改』での復活は歓喜モノ! ネットは沸き、ニコニコ動画では「祝・マンキン復活」として 作中に登場した「恐山ル・ヴォワール」の詩に楽曲をあてた アンナ役の声優・林原めぐみさんそっくりの歌声の持ち主が歌っている動画が

                                【祝・シャーマンキング復活】恐山ル・ヴォワールを振り返る - 紫の物語的解釈
                              • 「恐山ル・ヴォワール」を歌ってみたの林原的真相!めぐさんのコメントが素敵すぎる : 萌えオタニュース速報

                                ゲーム

                                  「恐山ル・ヴォワール」を歌ってみたの林原的真相!めぐさんのコメントが素敵すぎる : 萌えオタニュース速報
                                • 恐山あれこれ日記: その、深き欲望

                                  その、深き欲望 現に違う、別のものが二つ以上ない限り、「同じ」とは言えません。つまり、違うことは事実ですが、同じであることは観念です。 観念ならば、要は考え方であり、考え方であれば、人それぞれで、「最初から絶対に正しいアイデア」なぞ、望むべくもありません。どの考え方を採用するかは、各人の好みと必要です。 アイデンティティー、すなわち「自己同一性」というのも結局はそうです。昨日の「私」と今日の「私」が「同じ」であることの根拠は、「私」自身の中をいくら探っても出てきません。 人間は「私」であることを課せられ強制されて「私になる」のですから、これを維持するのも大変です。事実として無根拠なら、観念で代償しなければ、まずやっていられません。 家族と地域社会が安定している間は、「家族の一員」や「地域社会のメンバー」として、いわば「共同体の一器官」としての「役割」がそれを果たすでしょうが、これが「本人の

                                  • ダ・ヴィンチ恐山さんはモテている!!! - さまざまなめりっと

                                    「自殺は悪いことか?」っていう疑問は、「サッカーのゲーム中に試合を放棄するのはサッカールールに違反しているか?」という質問のようなもので、ルールブックの範疇を超えた出来事だから、要領を得ない回答しか出ない。

                                    • 「業」について - 恐山あれこれ日記

                                      仏教に「輪廻」というアイデアは不要だが「業」は違う。「業」は「自己」の実存理解において、決定的な意味を持つ、というようなことを時々言ったり書いたりしてきたので、ここで私が「業」をどう考えているか、ざっと説明しておこうと思います。 「業」の辞書的理解を紹介しておくと、およそ次のようになります。 サンスクリット語では「カルマン」と言い、「行為」を意味する。「業」思想とは、ある人間のある行為が彼の実存の仕方を規定し拘束することを、善因善果・悪因悪果という倫理的因果関係において理解する思考様式である。仏教では「自業自得」を主張し、その限りでは実存の「自己責任」論を採用している。多くの場合、「業」思想は「輪廻」思想と結び付けられ、過去・現在・未来の三世にわたる教説(「三時業」)として語られてきた。 これに対して、現在の私の「業」理解を簡単に提示します。 現在の「自己」の実存が、その時点での既知未知に

                                        「業」について - 恐山あれこれ日記
                                      • 恐山あれこれ日記: 「罪」と「信」

                                        「罪」と「信」 理解できないものは信じられない、と言う人がいますが、理解できることは信じるまでもなく、理解するだけでよいはずです。理解できないものだから、そこに信じる行為が成り立つというものでしょう。「不合理なるがゆえに我信ず」と昔の賢人が言ったゆえんです。 とはいえ、何がなんだかわからないものを信じるというのは、不可能に近いくらい難しいことです。ですから、そもそも絶対的な理念や絶対神的存在、定義上人間の「理解」を超えた存在性格をもつ何ものかを「信じる」とは、そもそもどういう行為なのかが問われざるを得ません。 このとき、その絶対神的存在が、我々を「審判」したり「救済」するという権能を持つというなら、それを「本当に」「真剣に」「心から」信じているということは、いかにして自分にも他人にも納得させることができるのでしょうか。 熱狂的な礼拝を際限なく繰り返そうと、いかに莫大な供物を奉げようと、それ

                                        • 「藤野くんの家の『あたしンち』」2019年12月27日の日記|品田遊(ダ・ヴィンチ・恐山)

                                          ・動画に出ています。今年いちばん緊張した仕事が今になって来たかもしれない……。それくらい本気でやりました。 ・私はコミックエッセイ、特に子育てエッセイが好きな子どもだった。『あたしンち』は、貸本屋で借りて読んでいた。1週間50円で借りられる貸本屋があったのだ。今はもう潰れてしまったが。 ・動画の中で「あたしンちには『家族は他人』という思想が前提にある」という話をした。どんな人も、実はぜんぜん違った合理性に基づいた行動をしている。だからこそ、人を「理解」するのは恐ろしく難しい。作品タイトルには「私のうちって”こう”なんだ(ちょっと変でしょ? でも、みんなのうちはどう?)」という視点が織り込まれている。家族やそのメンバーを、決して均質なものとして見ない。そんなシビアかつ優しい視線が『あたしンち』という作品を裏から支えている。 ・ややセンシティブなので動画では紹介しなかったが、私のかなり好きなエ

                                            「藤野くんの家の『あたしンち』」2019年12月27日の日記|品田遊(ダ・ヴィンチ・恐山)
                                          • 元も子もない・・・ - 恐山あれこれ日記

                                            人間だろうと物だろうと、存在する何ものかに「意味」だの「価値」が発生するのは、まず第一に、そのものとは別の人間が、それを受容するか、肯定するか、必要とするかによってです。その「意味」「価値」の大きさ・高さは、受容・肯定・必要を行う人間の数ではなく、行為の強度で決まります。 たった一人の人間が必要としているにすぎなくても、その必要の強度が高ければ、数百人が「まあ、あってもいいかな」程度に思うものより、「存在価値」は高いでしょう(およそ何ものかの「価値」が多数決によらないことを思えば、当然の話です)。 ただし、人間の場合、その価値は、当人とは別の人間によって受容されている・肯定されている・必要とされていることを、自ら受容し・肯定し・必要としない限り、「価値」「意味」として機能しません(好きでもない人に好かれても、あまり嬉しくないでしょう)。しかしこのことはあくまで二義的で、価値そのものの発生と

                                              元も子もない・・・ - 恐山あれこれ日記
                                            • Nさんに - 恐山あれこれ日記

                                              Nさん。自分の子供をかわいいと思えない、愛していると言えないというお話を伺って、私は切ない気持ちになりました。そして驚いたのです。 それというのも、10年くらい前から、時々そういうことを言う「お母さん」に出会っていたからです。それは、子育ての条件が厳しく親が疲弊している場合のみではなく、ずいぶん恵まれた環境にある人からも聞いたのです。ただ、その頃は、まだ特殊な事例だと思っていました。 しかし、あなたのお話を伺って、これが決して「例外的な」事例だとは言えないのだと思い知りました。 あなたが産科に入院してみると、同室になった女性たちが、予定日の近づくにしたがって、次から次へと夜中にベッドの中で泣くのだそうですね。訳を訊いてみると、異口同音に「子供が生まれてきても、嬉しいのかどうかどうかわからない」「こんなお母さんでごめんなさい」と嗚咽する。 最初は不思議に思っていたあなたも、出産が間近になると

                                                Nさんに - 恐山あれこれ日記
                                              • 恐山あれこれ日記: それだけのこと

                                                それだけのこと 「あなたは『悟り』を否定しているそうですね」 「違います。巷で『悟り』として語られることは、およそ無意味であり、かといって語られなければ、それは端的に存在しない、と言っているのです」 「では、なぜ、あなたは坐禅しているのですか?」 「一定の身体技法によって、自意識を解体できることを、実感するためです」 「それだけ?」 「そうです。私にはそれこそが重要です。つまり、一定の方法で解体できるなら、『私である』という事態(自意識)は、それとは別の特定の行為様式、あるいは関係形式において構成される制作物だと、実証することになるからです」 「すると、坐禅によって解体した結果現れる心身状態に意味があるとは考えないのですね?」 「考えません。自意識を解体した結果の状態そのものに意味があるというなら、別に坐禅なんて面倒なことをする必要はありません。それは薬物によってでも、セックスによってでも

                                                • 恐山あれこれ日記: 悪態です2

                                                  悪態です2 どうやら誰も真正面から言ってないような気がするので(すでにどこかに記事があったらゴメンナサイ)、オレが言うぞ。 3.11大震災後、被災地の復興は一向に進まず、原発事故は先々の始末を見通せるどころか、汚染水をたれ流しながら、オリンピックなんぞと浮かれている場合か!! 一番おかしな話は、「復興五輪」というお題目だ。東京でやる運動会の大はしゃぎが、被災地の復興の何の役に立つんだ! よもや東京に引っ張り込んでくるためだけの歌い文句じゃあるまいな? そう言う以上は、まさか7年後、被災地に仮設住宅は無いだろうな? 被災者も落ち着いた暮らしの中で運動会見物できるんだろうな? 汚染水の完全処理は当然として、土地の除染も終わり、廃炉に向かって着々と計画は実施されているんだろうな? 1000兆円の借金を抱え、40兆円程度の収入なのに100兆円近い金を毎年使いつつ、子供は減る大人は老いるのこの国に、

                                                  • 【前編】大森時生×品田遊(ダ・ヴィンチ・恐山)『IMONを創る』復刊記念対談「IMONを再起動(リブート)する」|石原書房

                                                    2024年2月17日、いがらしみきお著『IMONを創る』(石原書房)の復刊を記念して行われた大森時生さんと品田遊(ダ・ヴィンチ・恐山)さんの対談「IMONを再起動リブートする」(於・SCOOL)の模様を二回に分けてお届けします。 2023年末、30年の時を経て復刊された『IMONを創る』。デビューから近作『人間一生図巻』に至るまで、人間とその世界の実相を描き続けるいがらしみきおさんの時代をはるかに追い抜いた思想の核心が書き込まれた本書を、大森さんと品田さんとともに読み解きます。 ▼ 外れた予言の書・反省の書/他者の視点を振り切ったもの/一人一冊、『IMONを創る』を書ける 品田 品田遊と申します。よろしくお願いします。 大森 テレビ東京の大森時生と申します。よろしくお願いします。 品田 今回は、いがらしみきお先生の『IMONを創る』が30年ぐらいの時を経て復刊されたということで、著者でもな

                                                      【前編】大森時生×品田遊(ダ・ヴィンチ・恐山)『IMONを創る』復刊記念対談「IMONを再起動(リブート)する」|石原書房
                                                    • 恐山あれこれ日記: 「人でなし」の宗教

                                                      「人でなし」の宗教 「答えのない(または、答えられない)問い」は存在しますが、「問いのない答え」は存在しません。それは「答え」の概念の定義から外れるからです。 たとえば、「私はなぜ存在するのか」という問いは、原理的に答えられません。答えるとすれば、「問い」の水準を切り下げて、一定の視点から言語化の条件を課し、その条件に応じたアプローチ方法によって出てくる「答え」をもって、それ以上問うことを中止する以外にありません。 ということはつまり、我々は自らの存在をそれ自体として肯定する根拠も条件も欠いている、ということになります。 私は、「宗教」と呼ばれるものの根底には、このような人間の存在の無根拠性に対する苛烈な認識があると思います。もっと言えば、「人間」の在り方をそのまま肯定するような宗教は、宗教の詐称に過ぎず、「処世術」と呼ぶべきだと思います。その根源において、「ヒューマニズム」は処世術にはあ

                                                      • 地球はなぜできたか? - 恐山あれこれ日記

                                                        小学校4年生のころだったと思います。夏休みのある日、私は子供向けの科学雑誌のようなものを読んでいると、「地球は宇宙の塵が集まってできた」というような説が紹介されていました。今でいう惑星物理学の初歩の初歩みたいな話だったのでしょう。 「ほ、ほう~」と思った私は、ちょうど庭で草取りをしていた父親に軽い気持ちで声をかけました。 「ねえお父さん、地球ってどうしてできたか、知ってる?」 父親は顔も上げずに、 「なんだあ?」 「地球ってね、宇宙の塵が集まってできたんだよ!」 すると、父親はいきなり立ち上がって、えらい剣幕で怒鳴りました。 「子供が浅知恵で中途半端なことを言うな!(子供はそもそも「浅知恵」でしょ!)」 私はいきなり怒られて、驚くばかり。 「地球が出来た理由なんてのはな、科学的な理由もあれば、哲学的な理由もあれば、宗教的な理由もあるんだ!! わかったような口を簡単にたたくな!!!」 そう言

                                                          地球はなぜできたか? - 恐山あれこれ日記
                                                        • 恐山あれこれ日記: 言葉と体験

                                                          言葉と体験 「仏教とは根本的に言葉の問題だ」という言い方を時々していると、必ず「体験主義者」的人物から、同じような反論を繰り返し聞かされます。いわく、 「あなたは空の青さを言葉で言い尽くせますか? 無理でしょ。仏教の真理や悟りもそれと同じです。体験しない限り決してわからないのです」 たとえ上を向いて空の青さを見ていても、彼がそれきり何も言わなければ、「空の青」を見ていたかどうかさえわかりません。彼が「ああ青いねえ」と言い、別人が「そうだねえ」と言わない限り、「空が青い」かどうか、誰にも(本人にも)わかりません。 何をどう体験しようと、体験それ自体は、徹頭徹尾、無意味なのです。「意味」を作り出すの言語であって経験ではありません。 他方、言語はそれが語ろうとする当の対象に原理的に届きません。「私」という言葉が、自分以外のすべての人物にも使われていることを考えれば、一目瞭然でしょう。「今」「ここ

                                                            恐山あれこれ日記: 言葉と体験
                                                          • 霊場恐山~心霊現象なし!宿坊や温泉もある極楽パワースポット②宿坊編~ - ゆずいろ幸福論

                                                            一流旅館のような豪華な宿坊があって、湯ったり温泉に浸かったり、お坊さんの法話を聞いたり、普段と違う体験ができたらちょっとおもしろそうだと思いませんか? こんにちは、ユズリハです。 前回、2019年のGWに女一人旅 in 恐山で1泊したときの夜の湯小屋体験をお伝えしました。 湯小屋も宿坊も恐山境内にありますが、建物は別です。 今回は、1泊した宿坊編となります。 仏教に興味無いな~という方にもおすすめです! 【①基本情報&温泉編はひとりで夜の湯小屋に行ってみた話です】 yuzuriha-pursued.hatenablog.com 【③恐山菩提寺編では境内のさまざまな見どころを紹介します】 yuzuriha-pursued.hatenablog.com 【もくじ】 1.宿坊とは 2.宿坊 吉祥閣(きっしょうかく)について 宿泊を決めた理由 宿泊予約 3.吉祥閣の良かった点 ① 客室が広い・きれ

                                                              霊場恐山~心霊現象なし!宿坊や温泉もある極楽パワースポット②宿坊編~ - ゆずいろ幸福論
                                                            • 恐山あれこれ日記: 「終活」ファンタジー

                                                              「終活」ファンタジー 「就活」「婚活」という言葉に続いて、このところ「終活」なる言葉が流行っています。最初の二つは「就職活動」「結婚活動」の略語でしょうから、「終活」はてっきり「臨終活動」だと思っていたら、これは略語ではなく、死をめぐる準備活動全体の意味のようです。こんな言葉が流行る前から、ひとは職に就き、夫婦となり、死んでいきました。なぜ今さら、「活動」が要るのでしょう。 一つは、就職・結婚・臨終が以前と比べて著しく困難になったことです。 経済と人口が拡大を続け、それなりに地域社会に活力が残っていたバブル期までの経済成長時代なら、就職口も、出会いの機会も多く、また、就職・結婚・臨終などの「人生の節目」には、地域や職場の「世話焼き」的人物がいて、時期がくれば、それなりにカタをつけていました。そういう社会状況が今や失われてしまっているのです。 二つ目は、「世話焼き」がいなくなったと同時に、こ

                                                                恐山あれこれ日記: 「終活」ファンタジー
                                                              • 恐山あれこれ日記: 僧の立ち位置

                                                                僧の立ち位置 命は大切なものだ、と最初から決まった話ではないでしょう。最初から決まった話なら、それを大声で言いながら、人類始まって以来、こうも互いに殺し合いを続けるはずがありません。そうではなく、誰かが命を大切にするから、それが大切なものになるのでしょう。 このとき、命とは生きていることと、死ぬことを意味します。つまり、命を大切にするとは、生きることと死ぬことを大切にすることなのです。 さて、昨今、臓器移植法という法律が「改正」されて、「脳死」が「人の死」にされ、家族のみの同意で臓器が摘出され、その提供に年齢制限もなくなりました。 私がここで言いたいことは、「脳死」を「人の死」と定めることや、そのほか、法律の内容の是非についてではありません。 しょせん「人の死」の判定なんぞは、「大人」と「子供」の区別と同じで、時と場合によって、必要に応じて適当に判断する以外に方法はなく、だからこそ「法律」

                                                                • イタコを横目に地獄観光。日本三大霊場恐山と釜臥山にいってきた | ちょっとそこまでいってきたぶろぐ

                                                                  青森旅行記その4。イタコで有名な日本三大霊場のひとつ・恐山へいってきました。日本最強レベルのパワースポットで地獄をうろつきイタコの口寄せをチラ見した後は、自衛隊のハイテク防衛施設・ガメラレーダーに遭遇。恐山はスピリチュアルとハイテクの2大巨塔をいっぺんに見られるお得スポットだった…!そんなお得感にわくわくした夏の2泊3日青森旅行2日目後半の記録です。 (八甲田温泉とみそカレー牛乳ラーメンに舌鼓を打った青森旅行記その3はこちら) イタコを横目に地獄観光。日本三大霊場恐山と釜臥山にいってきた 目次とルート あの世とこの世の境をうろうろ。霊場恐山にいってきた 三途の川はゆでたまごのかほり イタコさん発見!お祭り期間外でも口寄せしてた 地獄のおさんぽタイム開始 綺麗すぎてここはあの世?宇曽利湖と賽の河原に到着 ハイテク防衛施設・釜臥山のガメラレーダーと、陸奥湾を見下ろす展望台にいってきた 青森旅行

                                                                    イタコを横目に地獄観光。日本三大霊場恐山と釜臥山にいってきた | ちょっとそこまでいってきたぶろぐ
                                                                  • 恐山あれこれ日記: 言葉と意味

                                                                    言葉と意味 普通我々は、何かを実際に話す前に言いたいことがあって、それを言葉として相手に伝えるのだと思うものです。これは書き言葉でも同じです。まず言いたいこと(意味)がそれ自体としてあり、しかる後にそのとおり言う・話す・書く言語行為(言葉)がある、というわけです。 しかし、これは実際とは違うでしょう。実際は、意味と言葉は同時に成立するはずです。つまり、言語行為(言葉)が意味を生成するのです。言語行為の外に意味がそれ自体で存在するわけではありません。言われたこと・書かれたことが意味なのです。 実際の発話以前に、意味は文字通り「言いたいこと」として、すでに言葉の内部に胚胎しています。「沈黙」とは、潜勢態で遂行される言語行為なのであり、その過程で意味は形成されつつあるのです(沈黙と、言いたいことの欠如である無言とは違う)。この沈黙が発話となった刹那、意味は意味として発現するということです。  大

                                                                    • 恐山あれこれ日記: 「即」にご用心

                                                                      「即」にご用心 仏教用語で時々持ち出される言葉に「煩悩即菩提」「生死即涅槃」というのがあります。仏教に多少興味のある人で、はじめてこの語を見たり聞いたりすれば、我々の心の迷いや欲望と仏の悟りがイコールだとか、人間の生き死にの現実が、そのまま仏教の究極の境地とされる涅槃と同じだとする理屈は、何のことだかわからないでしょう。 これらは普通、次のような解説をされます。大乗仏教の「空」の教えによれば、すべての存在にはそのものとしての実体はない(無我)のだから、それは煩悩も菩提も同じくことで、共に空で無我という意味で等しい。つまり、両方とも「空の現れ」として同じである、というわけです。 もう一つの理屈には、煩悩が有ればこそ、悟りも有るし、悟りがあるから煩悩も煩悩として自覚できる。お互い不即不離の関係だ、というようなパターンのものもあります。 この二つのアイデアは、根本的なところで「空」の考え方を誤解

                                                                      • 「自己」をめぐる闘争、または「疲労」的実存 - 恐山あれこれ日記

                                                                        あちこちで何度か述べたように、「自己」が「他者」から課せられたものであるとすると、最初から一方的な「お仕着せ」なのですから、なんとなく「居心地」が悪いのは当たり前のことで、「本当の自分」などという無いものねだりをしたくなるのも、無理からぬ話です。 その上さらに困難なのは、課せられた「自己」は、その後も「他者」によって「自己として認められ、自己にされ続けなければならない」という事実です。それは言葉を換えれば、「他者」から欲望され続けなければならない、ということであり、それはすなわち、欲望されるに足るものを持たねばならない、ということになります。それこそブッダもキリストも、「自称ブッダ」や「自称キリスト」ではありえません。 「欲望されるに足るもの」とは、まずは金、職業、地位、名声、さらに容姿、才能、学歴、家柄など、そうでもなければ「やさしさ」「器量」「人徳」までに及ぶでしょう。 欲望されるもの

                                                                          「自己」をめぐる闘争、または「疲労」的実存 - 恐山あれこれ日記
                                                                        • 日本一周 まるで死後の世界 青森県の恐山菩提寺

                                                                          ども Zackey98ですやっと梅雨が終わりそうですね 家のない生活なので雨は大敵です かと言って暑いのも嫌だ 寒いのも嫌い 花粉が飛ぶ前の春が一番好きです 青森県下北半島 霊場 恐山いよいよ日本一周編スタートです!! まずは青森県内から攻めます かねてから行きたかった恐山 イタコの口寄せが有名ですが お祭り時期にしかいません 入山料500円 立派な門構え 本社 境内がとても広くて グルっと周ることが出来ます 火山性ガスの吹き出る岩場は火気厳禁 賽銭のお金がガスに反応して 青黒くなってました 辺り一帯は死後の世界に見立てられ 賽の河原や三途の川 極楽浜等の名称が付けられています 賽の河原の石積み 親より先に亡くなった子は 賽の河原で石を積み仏塔を造ります 完成しそうになると 鬼に崩されるアレです 極楽浜 典型的なカルデラ湖 とてもキレイな景色でまさに極楽 水も澄んでいます 参拝者が他に数名

                                                                            日本一周 まるで死後の世界 青森県の恐山菩提寺
                                                                          • 恐山あれこれ日記: やはり言っておこう。

                                                                            やはり言っておこう。 この先を思うと、やはり今の時点で一度言っておこうと思います。 憲法といえども所詮法律ですから、状況に応じて適宜変えていくことは勿論否定しませんが、現政権のやり口は、ダメでしょう。 一番ダメなのは、政治に妙な情念を持ち込むことです。「美しい国」とか「日本をとりもどす」とか「戦後レジュームからの脱却」だとか、漠然とした気分を言うばかりで、何をどうしたいのか、何故それが必要なのか、その結果何が起きるのか、具体的なことがまるでわからない言い草ばかりです。 けだし、政治の要諦は、集団内の暴力と経済を管理しながら、メンバー(人や国家など)をめぐる錯綜する利害関係を調整して折り合いをつけることです。 このとき必要なのは、冷静で緻密な思考なのであって、情念など無用どころか有害です。 ところが、憲法改正手続きの変更の企てから始まり、今般の憲法解釈の変更計画に至る、政権の一連のやり口を見

                                                                              恐山あれこれ日記: やはり言っておこう。
                                                                            • 霊場恐山~心霊現象なし!宿坊や温泉もある極楽パワースポット③恐山菩提寺編~ - ゆずいろ幸福論

                                                                              荒涼とした地に並ぶたくさんのお地蔵さまや、その先に現れる美しいエメラルドグリーンの湖。 この世にいるのに、あの世のような景色が広がる場所。 それが、青森県にある恐山です。 こんにちは、ユズリハです。 2019年のゴールデンウイークに女一人旅で恐山に行ってきました。 ①温泉編と②宿坊編をお届けし、前後編で完結にしようかと思っていましたが、せっかくなので③恐山菩提寺編もいってみようかと思います。 境内の様子についてはネット上にたくさんの情報があったので、別に要らないかな?と思ったのですが、急きょ恐山3本立てにしてみることにします。 無計画に書き始めたため、なんとなく本来内容的には③→②→①の順がわかりやすかったような気がします。 すみません。 基本情報については、①温泉編をご覧ください。 【①温泉編は夜の恐山境内の湯小屋に行ってみた話です】 yuzuriha-pursued.hatenablo

                                                                                霊場恐山~心霊現象なし!宿坊や温泉もある極楽パワースポット③恐山菩提寺編~ - ゆずいろ幸福論
                                                                              • ジム・オルークの新ユニット“恐山”のデビュー・アルバムが登場! - CDJournal ニュース

                                                                                この8月に新宿ピット・インで坂田明をゲストに行なったライヴや、京都メトロでの恐山vs秋田昌美 a.k.a. MERZBOWでの壮絶なライヴにおいて、相変わらずの天才ギタリストぶりと日本語の上達ぶりをファンに印象づけたジム・オルーク。そんな彼の新ユニット、恐山のデビュー・アルバム『みみどこですか』(MTCJ-3041 \2,700(税込))が、12月20日にリリースされます。 ソニック・ユース脱退後、“偉大な先生”と敬愛する坂田明とのセッション・アルバム『およばれ tetrodotoxin』、『かなしい ExpLosion』(写真)のリリースや彼が敬愛するという足立正生監督の新作映画『幽閉者(テロリスト)』への出演など、縦横無尽に活躍を続けるジム・オルークですが、この新ユニット“恐山”について自ら長い間の夢がやっとかなった、とコメントしています。旧友だというダーリン・グレイ(b)、“ドラム発

                                                                                  ジム・オルークの新ユニット“恐山”のデビュー・アルバムが登場! - CDJournal ニュース
                                                                                • 同一性と差異性 - 恐山あれこれ日記

                                                                                  何ものかを言語化するということは、すなわち同一性を設定することです。個々別々の物体を「茶碗」と命名する行為は、それらを同一の意味で規定することだからです。これを換言すれば、概念化(=「同一」の認識)ということでしょう。 言語化・概念化は、まずは同一性の設定ですが、この行為は必然的に、言語化・概念化された当のものとそれ以外との差異性を発生させます。つまり、同一性の設定が、同時に差異性を惹起するのです。 差異性の認識は、差異性の言語化・概念化のことですから、それはすなわち「差異」としての同一性の設定ということになります。 これに対して、まさにそこにおいて最初の言語化・概念化が起こる、それ自体は非言語的・概念外的・前自意識的な事態こそ、「無常」「無我」、さらに言うなら「非思量」と呼ぶべき事態でしょうが、この事態そのものは決して認識できない(言語化できない)わけで、「同一」でも「差異」でもありませ

                                                                                    同一性と差異性 - 恐山あれこれ日記