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暴力金脈の検索結果1 - 16 件 / 16件

  • 町山智浩・春日太一・吉田豪 松方弘樹追悼特集

    町山智浩さん、春日太一さん、吉田豪さんがTBSラジオ『たまむすび』に出演。亡くなった松方弘樹さんについて、春日さん、吉田さんが生前、松方さんに行ったインタビューのエピソードなどを交えながらお話されていました。 (赤江珠緒)この時間は映画評論家 町山智浩さんの『アメリカ流れ者』。今日は帰国中の町山さんにスタジオにお越しいただいています。町山さん、今回の帰国の理由というのは? (町山智浩)アカデミー賞のノミネーションが日本時間で今日の夜、発表されるんですね。それの解説なんですよ。今日の夜10時からWOWOWの無料放送、アカデミー賞のノミネーション発表中継に出ますので、よろしくお願いします。だからこんな格好をしています。 本日夜10時からWOWOW無料放送「アカデミー賞ノミネート発表中継」に出演します。注目は10部門以上ノミネートされるだろう『ラ・ラ・ランド』と、『デッドプール』が脚本賞にノミネ

      町山智浩・春日太一・吉田豪 松方弘樹追悼特集
    • 山城新伍 - Wikipedia

      山城 新伍(やましろ しんご、1938年(昭和13年)11月10日 - 2009年(平成21年)8月12日)は、日本の俳優・声優・司会者・タレント。身長174cm。映画評論家・映画監督としても活動した。本名:渡辺 安治(わたなべ やすじ)。 元妻は花園ひろみ、娘は南夕花。京都市生まれ[1]。 所属事務所歴[編集] 東映→沢井プロダクション→サイプロダクション→プロダクションノータイトル→オフィス・タッチ 来歴[編集] 1938年11月10日(木曜日) 京都市に生まれる。京都府立山城高等学校卒業[1]。 1957年 東映ニューフェイス第4期生[1]。 1959年 『風小僧』第1部 疾風之介役でデビュー。同年、第2部で主演。 1960年 『白馬童子』で主演し、人気を博す[1]。 1966年 女優の花園ひろみと結婚[1]。 1975年 『独占!男の時間』でバラエティに進出。 1976年 日清食品

        山城新伍 - Wikipedia
      • ヤクザと交友を深めた東映の俳優・制作陣たち/特別対談・杉作J太郎×坪内祐三 | 日刊SPA!

        山口組の分裂騒動が世間を騒がす今、東映ヤクザ映画を愛する2人、杉作J太郎氏と坪内祐三氏が緊急対談。現実社会のヤクザの変化と、それに伴う実録ヤクザ映画の変遷に触れながら、「今こそ観るべき作品」「今こそ作るべき実録ヤクザ映画」を語り合う! ◆ヤクザと交友を深めた東映の俳優・制作陣たち 杉作:本来ヤクザの世界は自浄作用があったんですよね。やっつけられるのは悪いヤツだったし、みんながいいヤクザになろうとした。当時の東映の実録ヤクザ映画は実際にヤクザと関わりもありましたからね。ある役者さんが言っていましたよ。「テレビに出ているような普通の役者が、ヤクザ映画をやってもつまんねえんだよ。なんでつまんないかわかるか? それはヤクザと付き合いがないからだ。悪いけど俺は日本で一番ヤクザと付き合いがある」って(笑)。 坪内:東映ではヤクザがスタッフや役者になっていたからね。 杉作:これはまた別の俳優さんが撮影中

          ヤクザと交友を深めた東映の俳優・制作陣たち/特別対談・杉作J太郎×坪内祐三 | 日刊SPA!
        • 晩年のクロサワに見る生ける伝説の不幸 - HALTANの日記

          たまたま見つけたが貴重な証言なのでコピペ。512 :この子の名無しのお祝いに:2008/09/04(木) 23:32:13 ID:F+REZn2V「八月の狂詩曲」、本当に傑作だと思う? >509に対して意地張ってるんじゃなくて? 駄作だと思うけどなあ。途中で何度も席を立とうと思ったよ。 黒澤の作家性を考える上で重要な作品だとは思ったから思い止まった。 上映が終わって場内が明るくなったら、近くの席に松岡錠司監督がいるのを発見。 「大寶智子(「バタアシ金魚」に出演した)が出てるから身に来たんですか?」と聞いたら、 「いや、それもあるけど、やっぱり黒澤ファンだからさ」 「好きな人の力が衰えていくのを目の当たりにするのは哀しいねえ」とも言っていたが、まったく同感だった。 自分も、悲しかったからこそ、途中で席を立ちたくなった。 「黒澤明監督 総合その12」http://bubble6.2ch.net

          • 松方弘樹 - Wikipedia

            父は時代劇俳優の近衛十四郎。母は女優の水川八重子[9]。松方は長男で、弟は俳優の目黒祐樹[10]。最初の妻で元モデルの夏子(1968年に結婚、1978年に離婚成立)との間に長男の目黒大樹(親権は松方)、長女 七重、次女 なち[11][12]。2度目の妻・仁科亜季子(1979年に結婚、1999年1月に離婚)との間に、次男の仁科克基と三女の仁科仁美(親権は2人とも仁科)[13][10]。愛人関係であった千葉マリアとの間に十枝真沙史(1987年の発覚当時2歳。松方は認知する一方で、パイプカット手術を受けている)[14]。弟・祐樹の妻(義妹)は江夏夕子、祐樹と江夏との間に姪の近衛はながいる[15]。仁科とは1974年の大河ドラマ『勝海舟』での共演後に恋仲となったが、松方は当時既婚者で、仁科の父・岩井半四郎が苦々しい表情でインタビューに応じる様子は当時の芸能マスコミでも取上げられた[11][14][

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            • 丹波哲郎 - Wikipedia

              丹波 哲郎(たんば てつろう[1]、1922年〈大正11年〉7月17日[1] - 2006年〈平成18年〉9月24日)は、日本の俳優・声優・芸能プロモーター・心霊研究家。 東京府[1]豊多摩郡大久保町(現:東京都新宿区)出身[2]。身長175cm。俳優活動は50年以上で出演した映画は外国映画10本を含んだ300本以上に及ぶ名優[3][1]である。テレビドラマでも活躍し、映画製作にも携わった。丹波プロダクション[注釈 1]・俳優養成所「丹波道場」を設立して後進の育成も手がけており、宮内洋は丹波の一番弟子である。 心霊学と霊界の研究、多数の書籍を著しており、『丹波哲郎の大霊界』はベストセラーとなった[3]。 来歴[編集] 大久保町字百人町(現在の新宿区百人町)にて丹波家の三男として生誕。祖父は東京帝国大学名誉教授の丹波敬三[2]、父はその二男で、東北薬専卒の陸軍薬務官で日本画家の丹波緑川(次郎

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              • 小川薫 - Wikipedia

                小川 薫(おがわ かおる、1937年8月8日 - 2009年4月27日)は、日本の実業家。総会屋。「最後の総会屋」と呼ばれた[1][2][3]。 経歴[編集] 出生[編集] 広島市の歓楽街・弥生町の入口、下柳町(現中区銀山町)生まれ[4][5]。1945年、7歳国民学校二年の夏、爆心地から1.1キロの自宅で被爆[4]。薫は釣りに行くため自宅を出る直前だった[4]。幸い家族もみな軽傷で済んだ。1946年、戦場から父親が復員。戦前から経営していた電器店を再開したが、父は博徒岡組(のちの共政会)組長・岡敏夫と親しく野球賭博を始め店を潰し、その後は食堂を営んだ[4][6]。 小川の兄・義夫と弟・明男[7] の三人は喧嘩が滅法強く「小川三兄弟」と恐れられたが、叔父の田部武雄がプロ野球選手だったこともあり、野球もうまく、みな野球強豪高校でレギュラーとなった[5]。年の離れた弟の成海は広島の野球ファンな

                • 大滝秀治 - Wikipedia

                  キネマ旬報ベスト・テン 助演男優賞 1977年『あにいもうと』報知映画賞 助演男優賞 1976年『あにいもうと』紀伊國屋演劇賞 個人賞 1970年『審判』名古屋ペンクラブ賞年間賞 1973年読売演劇大賞 最優秀男優賞 2005年『巨匠』『浅草物語』文化庁芸術祭 大賞(演劇部門・関東参加公演の部) 2009年『らくだ』紫綬褒章 1988年勲四等旭日小綬章 1995年文化功労者 2011年 多年に亘る演劇活動に対する功績を評して 九曜(くよう)。 大滝家の家紋。 大滝 秀治(おおたき ひでじ[注釈 1]、1925年(大正14年)6月6日[2] - 2012年(平成24年)10月2日)は、日本の俳優・ナレーター・実業家。昭和時代中期から平成時代中期にかけて活躍した。位階は正四位。勲等は旭日重光章。文化功労者。 株式会社劇団民藝代表取締役などを歴任した。 概要[編集] 本名同じ[3]。身長167c

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                  • 梅宮辰夫 - Wikipedia

                    一番思い出深い作品として1967年の任侠映画『花札渡世』(成沢昌茂脚本・監督)を挙げている[31]。作品の出来もさることながら、鰐淵晴子との共演があったからで[31]、東映は細身の女優が多く、梅宮はグラマーな女性が好みだったから、鰐淵は当時の女優では大柄でプロポーションが抜群で正に梅宮好み[31]。しかし鰐淵はステージママが娘にベッタリ付き、過度に介入して来て手が出せなかった。「この俺をときめかせた数少ない女優」などと話している[31]。 特技はライフルと剣道で、高校時代には剣道部の初代主将も務めた。 料理にかける熱はかなりのものがある。 オリジナルレシピノートを作成しており、レシピの総数は500種類以上にも及んでいた[32]。 2001年2月13日、梅宮の運転手が仕事先の梅宮を迎えに行くため、梅宮の愛車であるメルセデス・ベンツV280(当時の販売価格で580万円)を渋谷区内の自宅近くのガ

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                    • 中島貞夫 - Wikipedia

                      1934年(昭和9年) - 千葉県東金市にて出生[2]。 1944年(昭和19年) - 10歳の時に父親が戦死。 1954年(昭和29年) - 東京都立日比谷高等学校卒業。 1959年(昭和34年) - 東京大学文学部卒業[2]。在学中は倉本聰・村木良彦らとギリシア悲劇研究会を設立し、日比谷野外音楽堂で公演を開き、大成功を収めた。 大学卒業後、東映に入社。「お前、ギリ研か。ギリシア悲劇は時代劇や。ほな、京都行け。」と会社に言われ、東映京都撮影所配属が決定した。助監督時代はマキノ雅弘・沢島忠・田坂具隆・今井正らに師事する。マキノ雅弘門下の先輩、脚本家笠原和夫・監督深作欣二は親友で、後に数多くの作品で、コラボレートしている。 1964年(昭和39年) - 『くノ一忍法』で監督デビュー[2]。 1966年(昭和41年) - 挫折しながらも「イキがったらあかん、ネチョネチョ生きるこっちゃ」と粘り強

                        中島貞夫 - Wikipedia
                      • 池玲子 - Wikipedia

                        池 玲子(いけ れいこ、1953年5月25日 - )は、日本の女優・グラビアモデル・歌手。東京都出身。本名:池田 玲子。東映ポルノ映画の主演女優の一人である。活動期間は1971年から1982年ごろまで。 来歴[編集] 1971年『温泉みみず芸者』で映画主演デビュー。きっかけは、東映の天尾完次と鈴木則文が週刊誌のグラビアで池を見つけたことからである[1]。当時の池は16歳だったので、天尾と鈴木は池に「(本当の年齢がバレないよう)干支を聞かれたときは間違えないこと」と念押しをしてデビューさせた[2]。バスト90cmのグラマラスな肢体で[2]、『女番長』シリーズなどに主演し、1971年のゴールデン・アロー賞グラフ賞を受賞。天尾は池を売り出すのに「ポルノ」という言葉を使ったらどうかと鈴木に提案し、デビュー作のポスターにはこの言葉が使われている[3]。池玲子は、杉本美樹、芹明香、潤ますみらとともに、

                        • 室田日出男 - Wikipedia

                          室田 日出男(むろた ひでお、1937年〈昭和12年〉10月7日 - 2002年〈平成14年〉6月15日) は、日本の俳優。北海道小樽市奥沢町出身[2]。小樽市立潮見台中学校[3]~北海道札幌東高等学校卒業。息子は俳優の室田晃。代表作は映画『男はつらいよ 噂の寅次郎』やテレビドラマ『ふぞろいの林檎たちII』[4] など。身長180cm[5]。 来歴[編集] 父親は石川県能登の庄屋の息子で、日露戦争をきっかけに、小樽に移住[2]。母親は小樽生まれ[2]。父親は「馬追」「馬力屋」と言われる[6]、馬車や馬そりを使った今で言う運送業をしていた[2][6]。子供の頃の室田は、近くの川(勝納川)や山、そして朝里などの海岸に、仲間とよく出かけるなど、自然に親しむ毎日を送り、三日でも四日でも海のそばにいて帰宅しなかったこともあったという[2]。小学校3年のとき父が、中学2年のとき母を相次いで失い[6]、

                          • 津島利章 - Wikipedia

                            愛媛県立新居浜工業高等学校電気科を卒業[1]。上京し、東京工業大学を受験するも不合格となり、日本大学芸術学部音楽理論科に入学[1]。音楽を志すつもりはなく、合格後も代々木の予備校に通ったが、夏休みに黄疸にかかり、翌年春までの闘病となり、工大受験を断念した[1]。 日本大学芸術学部3年生の折に作曲した『管弦四重奏』が、毎日音楽コンクールで入賞[1]。周囲の勧めもあり、作曲家となる。1961年、フジテレビの『宮本武蔵』で注目を浴び、 1964年の『三匹の侍』で東映京都のプロデューサーの目に留まり、誘いを受けて映画音楽家となる。以後様々な映画やテレビドラマの音楽を担当した。『木枯し紋次郎』や『仁義なき戦い』にも映画音楽を提供した。 多作で知られ、1970年には年間14本の映画音楽を手掛けており、これは総計で約420曲を作曲した計算である。自ら「津島節というものがない」と語り、作曲手法も個性的な独

                            • 川谷拓三 - Wikipedia

                              川谷 拓三(かわたに たくぞう、1941年〈昭和16年〉7月21日 - 1995年〈平成7年〉12月22日)は、日本の俳優。本名は仁科 拓三(にしな たくぞう・旧姓:川谷)。愛称は拓ボン。 大部屋俳優から上り詰め、昭和を中心に活躍した名優の一人。仁科貴は長男、仁科扶紀は長女、仁科熊彦は岳父、岡島艶子は義母にあたる。大叔父(実母の叔父)に伊沢一郎がいる。 来歴[編集] 生い立ち[編集] 父・川谷庄平は1915年に17歳で日活京都にカメラ助手として入社[1]、牧野省三作品や尾上松之助の映画を撮り、1927年に日活を退社するまでに、主に築山光吉とコンビで237本の映画を撮影したカメラマンで1975年没。享年77[2]。母・二三子は女優という映画関係の家族の四男一女の三男として満洲新京(長春)で生まれた[1][2]。 敗戦により6歳のとき一家で満洲から引き揚げ[2]、安芸市(当時・安芸郡安芸町)に

                              • 実録シリーズ - Wikipedia

                                実録シリーズ(じつろく-)は、映画、オリジナルビデオの一種で、ヤクザ映画の中でも実話を基に製作されたものをいう。 概要[ソースを編集] 1960年代、映画に於いてそれ以前までは主流であった時代劇の廃退により、東映は任侠映画を製作し、成功を収めた。それらは主に鶴田浩二や高倉健が主演であり、「人生劇場」、「日本侠客伝シリーズ」、「昭和残侠伝シリーズ」などの代表作は、任侠をテーマにし正義が悪を倒すという、時代劇のころから受け継がれた単純なストーリーであった[1][2]。しかし1973年に公開された菅原文太主演・深作欣二監督の『仁義なき戦い』はそれまでとは違い、実際に起こった広島での抗争事件の当事者の一人が書いた手記をベースとしたノンフィクションを原作としており[3]、大ヒットした[4]。当時の東映のヤクザ映画は実録映画、実録路線と呼ばれた[5][6][7][8][9][10][11]。2020年

                                • チャンバラトリオ - Wikipedia

                                  チャンバラトリオは、日本のお笑い芸人グループである。活動終了時点の所属事務所はよしもとクリエイティブ・エージェンシー(現:吉本興業)。時代劇風のチャンバラを主題とした、剣劇に加えハリセンを使っての体を張ったネタを披露した。 結成時は3人組だったため名前をトリオとしたが、4人組だった時代が長い。最末期の生存メンバーが2人となって以降も一貫して名前は変更されなかった。 2015年5月12日、リーダーの山根伸介が京都・祇園花月の舞台で会見を行い、52年続いたグループの解散を発表した[1]。 愛称は「チャントリ」。 グループ概要[編集] 活動時の衣装は着物や袴など小道具に至るまで完全な時代劇様式であるが、頭にはかつらをつけない。舞台上で剣劇風のコントを見せ、ボケ役の顔や頭などをハリセンで叩いてつっこむ。一発叩かれると、大きな音とともに痛がるのがお約束となっている。ちなみに現在、芸人のネタとしてハリ

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