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渋江抽斎の検索結果1 - 2 件 / 2件

  • 森鴎外 渋江抽斎

    三十七年如一瞬(さんじゅうしちねんいっしゅんのごとし)。学医伝業薄才伸(いをまなびぎょうをつたえてはくさいのぶ)。栄枯窮達任天命(えいこきゅうたつはてんめいにまかす)。安楽換銭不患貧(あんらくぜににかえひんをうれえず)。これは渋江抽斎(しぶえちゅうさい)の述志の詩である。想(おも)うに天保(てんぽう)十二年の暮に作ったものであろう。弘前(ひろさき)の城主津軽順承(つがるゆきつぐ)の定府(じょうふ)の医官で、当時近習詰(きんじゅづめ)になっていた。しかし隠居附(づき)にせられて、主(おも)に柳島(やなぎしま)にあった信順(のぶゆき)の館(やかた)へ出仕することになっていた。父允成(ただしげ)が致仕(ちし)して、家督相続をしてから十九年、母岩田氏(いわたうじ)縫(ぬい)を喪(うしな)ってから十二年、父を失ってから四年になっている。三度目の妻岡西氏(おかにしうじ)徳(とく)と長男恒善(つねよし)

    • 渋江抽斎 - Wikipedia

      この記事は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。 出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。(このテンプレートの使い方) 出典検索?: "渋江抽斎" – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL (2016年5月) 渋江 抽斎(しぶえ ちゅうさい、澀江抽齋、文化2年11月8日(1805年12月28日) - 安政5年8月29日(1858年10月5日))は、江戸時代末期の医師・考証家・書誌学者。名は全善、幼名は恒吉、字は道純、または子良、通称を道純という。また、抽斎は号であり、ほかにもいくつかの号を使用していた。 吉川幸次郎の推測では「抽斎」の号は「抽」が「読」のシノニムであることから、「書物を抽(よ)むことを仕事とする男子」の意である[1]。 1805年、弘前藩の侍医、渋江

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