アプリなら、コメントが見やすい!
トップへ戻る
タイムマネジメント
www.aozora.gr.jp
1 小穴隆一(をあなりゆういち)君(特に「君」の字をつけるのも可笑(をか)しい位である)は僕よりも年少である。が、小穴君の仕事は凡庸(ぼんよう)ではない。若し僕の名も残るとすれば、僕の作品の作者としてよりも小穴君の装幀(さうてい)した本の作者として残るであらう。これは小穴君に媚(こ)びるのではない。世間にへり下(くだ)つて見せるのではなほ更ない。造形美術と文芸との相違を勘定(かんぢやう)に入れて言ふのである。(文芸などと云ふものは、――殊に小説などと云ふものは三百年ばかりたつた後(のち)は滅多(めつた)に通用するものではない。)しかし大地震か大火事かの為に小穴君の画も焼けてしまへば、今度は或は小穴君の名も僕との腐(くさ)れ縁(えん)の為に残るであらう。 小穴君は神経質に徹してゐる。時々勇敢なことをしたり、或は又言つたりするものの、決して豪放(がうはう)な性格の持ち主ではない。が、諧謔(かい
小説家・翻訳家・評論家。1903(明治36)年、東京牛込に生まれる。一高理科に入学し、堀辰雄を知って文学への関心が高まり、東京外国語露語科に転学。卒業後、北大図書館に勤めながら創作を志し、ソ連通商部を経たあと文筆生活に入る。ロシア語はもとよりフランス語にも長け、プーシキン、ツルゲーネフ、ガルシン、チェーホフ、ゴーリキー~バルザック、ジード、シャルドンヌらの諸作品を翻訳する。とくにチェーホフ作品は、その彫琢された文章によって名訳の誉れが高い。これらの業績から翻訳家として有名になったが、小説も寡作ながら「垂水」「灰色の眼の女」「少年」など、高踏的な凝った文体で書いた。応仁の乱を題材にした「雪の宿り」は自らの戦争体験を重ね合わせた歴史小説の逸品。博学で和洋の文学に造詣深く、「散文の運命」「チェーホフ試論」などの評論がある。1957(昭和32)年、舌癌により鎌倉で死去。享年53。 「神西清」
2018年12月8日、尾道市立大学日本文学科・尾道市立大学日本文学会共催第10回おのみち文学三昧内で行われた「尾道を読む、尾道を書く。」と題された特別講演の際、円城塔、澤西祐典、福永信の三名が競作した原稿。完成版が『すばる』誌に「競作 尾道を書く」として掲載された。(円城塔)
この作品には、今日からみれば、不適切と受け取られる可能性のある表現がみられます。その旨をここに記載した上で、そのままの形で作品を公開します。(青空文庫)
ただいま朗読利用や朗読配信についてのお問い合わせを数多く受けておりますが、青空文庫は限られたボランティアで運営しているため、現状なかなかひとつひとつに丁寧なお返事を差し上げることができません。 そこで、恐縮ながらこのページのお知らせをもって回答に代えさせていただきます。 Q:青空文庫にある作品を朗読したいのですが…… A:「青空文庫収録ファイルの取り扱い規準」(https://www.aozora.gr.jp/guide/kijyunn.html)に従って、どうぞご活用ください。 「青空文庫FAQ」(https://www.aozora.gr.jp/guide/aozora_bunko_faq.html#midashi1060)より 青空文庫に収録されている著作権保護期間満了した作品については、事前の許諾なく、有償無償を問わずご利用いただけます。著作権保護期間中の作品であっても、広く自由利
緑の蛙(かえる)と黄色の蛙(かえる)が、はたけのまんなかでばったりゆきあいました。 「やあ、きみは黄色だね。きたない色だ。」 と緑の蛙(かえる)がいいました。 「きみは緑だね。きみはじぶんを美しいと思っているのかね。」 と黄色の蛙(かえる)がいいました。 こんなふうに話しあっていると、よいことは起(お)こりません。二ひきの蛙(かえる)はとうとうけんかをはじめました。 緑の蛙(かえる)は黄色の蛙(かえる)の上にとびかかっていきました。この蛙(かえる)はとびかかるのが得意(とくい)でありました。 黄色の蛙(かえる)はあとあしで砂(すな)をけとばしましたので、あいてはたびたび目玉から砂(すな)をはらわねばなりませんでした。 するとそのとき、寒い風がふいてきました。 二ひきの蛙(かえる)は、もうすぐ冬のやってくることをおもいだしました。蛙(かえる)たちは土の中にもぐって寒い冬をこさねばならないので
化学調味料は近来非常に宣伝されているが、わたしは化学調味料の味は気に入らない。料理人の傍らに置けば、不精からどうしても過度に用いるということになってしまうので、その味に災いされる。わたしなどは化学調味料をぜんぜん調理場に置かぬことにしている。化学調味料も使い方でお惣菜的料理に適する場合もあるのだろうが、そういうことは純粋な味を求める料理の場合には問題にならない。今のところ、純粋な味を求める料理のためには、なるだけ化学調味料は使わないのがよいと思う。上等の料理、最高の料理には、わたしの経験上化学調味料は味を低め、かつ味を一定していけないようだ。こぶなりかつおぶしなりのだしで自分流に調味するのがいちばんいい。 たとえ化学調味料がいいとしても、物にはそれぞれ千差万別の持ち味があるのだから、こればかりは人間の力ではどうすることもできないものだといえよう。それを化学調味料という一つの味で、日本料理・
畏友Y兄から、いつか面白い言葉をきいたことがある。それは「日本人はどうも抗議(プロテスト)する義務を知らないから困る」というのである。 これはなかなか味のある言葉で、何か不正なことがあった場合に、それに抗議を申し込むのは、権利ではなくて義務だというのである。 例えば、電車に乗る場合に、乗客が長い列を作って待っている。やっと電車が来て、乗客が順々に乗り込む。その時脇からうまくその列に割り込んで、電車に乗ってしまう人がよくある。そういう時に、特に婦人の場合などには、自分の前に脇から一人くらい割り込んで来ても、一寸いやな顔をするくらいで、そのまま黙ってその人について乗ってしまうことがよくある。 この場合、その人はもちろん「横から割り込んではいけません」と抗議を言うべきなのである。それを、ずるずるに黙許してしまうことは、一つの道徳的な罪悪であることを、よく承知すべきである。一人くらいのことに、無闇
海岸の小さな町の駅に下りて、彼は、しばらくはものめずらしげにあたりを眺めていた。駅前の風景はすっかり変っていた。アーケードのついた明るいマーケットふうの通りができ、その道路も、固く鋪装(ほそう)されてしまっている。はだしのまま、砂利(じゃり)の多いこの道を駈(か)けて通学させられた小学生の頃(ころ)の自分を、急になまなましく彼は思い出した。あれは、戦争の末期だった。彼はいわゆる疎開児童として、この町にまる三カ月ほど住んでいたのだった。――あれ以来、おれは一度もこの町をたずねたことがない。その自分が、いまは大学を出、就職をし、一人前の出張がえりのサラリーマンの一人として、この町に来ている……。 東京には、明日までに帰ればよかった。二、三時間は充分にぶらぶらできる時間がある。彼は駅の売店で煙草(たばこ)を買い、それに火を点(つ)けると、ゆっくりと歩きだした。 夏の真昼だった。小さな町の家並みは
コレラの伝染様式について ON THE MODE OF COMMUNICATION OF CHOLERA (1854) ジョン・スノウ John Snow 水上茂樹訳 この本の第1版は1849年の8月に出版されたものであるが、薄いパンフレットに過ぎないものであった。その時から後で、私はこの主題について種々の論文を書き医学会で話したり医学雑誌に刊行した。この版はこれらのすべての論文の内容だけでなく新事実を含んでおり、これらの大部分は私の最近の調査の結果である。 この調査のために戸籍本署長官がいろいろと便宜をはかってくださったことにたいして、私はこの機会にあたり感謝を捧げる。 今回の研究にたいしても、コレラの原因を確かめるために私が行った過去の努力に与えてくださったのと同じような親切な配慮を、医学界の皆様が私に与えてくださるであろうことを確信している。 アジア型コレラの存在は1769年以前には
愈(いよいよ)東京を発つと云う日に、長野草風氏が話しに来た。聞けば長野氏も半月程後には、支那旅行に出かける心算(つもり)だそうである。その時長野氏は深切にも船酔いの妙薬を教えてくれた。が、門司から船に乗れば、二昼夜経つか経たない内に、すぐもう上海(シャンハイ)へ着いてしまう。高が二昼夜ばかりの航海に、船酔いの薬なぞを携帯するようじゃ、長野氏の臆病も知るべしである。――こう思った私は、三月二十一日の午後、筑後丸の舷梯に登る時にも、雨風に浪立った港内を見ながら、再びわが長野草風画伯の海に怯(きょう)なる事を気の毒に思った。 処が故人を軽蔑した罰には、船が玄海にかかると同時に、見る見る海が荒れ初めた。同じ船室に当った馬杉(ますぎ)君と、上甲板の籐椅子に腰をかけていると、舷側にぶつかる浪の水沫(しぶき)が、時々頭の上へも降りかかって来る。海は勿論まっ白になって、底が轟々(ごうごう)煮え返っている。
社会思想研究会出版部のすすめによって、私の随筆の中から、探偵小説のトリックを解説したものを集めてみた。トリックについては、私は別に「類別トリック集成」(早川書房版『続幻影城』に収む)というものを書いているが、これは探偵小説に慣れた人々のための項目書きのようなもので、一般の読み物としては不適当なので、本書にはその目次のみを参考として巻末に加え、内容全部はのせなかった。のちに、その「トリック集成」の部分部分を、もっとわかりやすい書き方にした随筆が幾つかあるので、ここにはそれらを集め、ほかに類縁の「魔術と探偵小説」「スリルの説」などを加え、さらに本書のために新らしく「密室トリック」三十五枚を書き下して、首尾をととのえた。 「類別トリック集成」は八百余の各種トリックを九つの大項目にわけて解説したものだが、それらの項目と本書の随筆との関係を左にしるして御参考に供する。これには巻末の「類別トリック集成
「相対性理論」と名づけられる理論が倚りかかっている大黒柱はいわゆる相対性理論です。私はまず相対性原理とは何であるかを明らかにしておこうと思います。私たちは二人の物理学者を考えてみましょう。この二人の物理学者はどんな物理器械をも用意しています。そして各々一つの実験室をもっています。一人の物理学者の実験室はどこか普通の場所にあるとし、もう一人の実験室は一定の方向に一様な速さで動く汽車の箱のなかにあるとします。相対性原理は次のことを主張するのです。もしこの二人の物理学者が彼等のすべての器械を用いて、一人は静止せる実験室のなかで、もう一人は汽車のなかで、すべての自然法則を研究するならば、汽車が動揺せずに一様に走る限り、彼等は全く同じ自然法則を見出すでありましょう。幾らか抽象的にこう云うことも出来ます。自然法則は相対性原理によれば基準体系の併移運動に関しません。 私達は今この相対性原理が旧来の力学で
ケーベル博士の常に心を去らなかった著作上の仕事は「文学における、特に哲学における看過されたる者及(および)忘れられたる者」であったという。この問題は一たびこれを読んで以来、またわれわれの心頭を離れぬものとなっている。世に持囃(もてはや)される者、広く人に知られたものばかりが、見るべき内容を有するのではない。各方面における看過されたる者、忘れられたる者の中から、真に価値あるものを発見することは、多くの人々によって常に企てられなければならぬ仕事の一であろうと思われる。 古句を説き、古俳人を論ずる傾向は、今の世において決して乏しとせぬ。見方によっては過去のあらゆる時代より盛であるといえるかも知れない。ただわれわれがひそかに遺憾とするのは、多くの場合それが有名な人の作品に限られて、有名ならざる人の作品は閑却されがちだという点である。一の撰集が材料として取上げられるに当っては、その中に含まれた有名な
「」のように見える文字の入力について ――青空文庫のいわゆる「ケヶ問題」―― 2007年3月19日 作成 2007年4月3日 「区点番号5-17と5-86の使い分け指針」にリンクし、誤字を訂正しました。 2008年3月9日 「増補改訂JIS漢字字典」の、5-86と5-17が記載されているページ画像を組み込み、これに関連する文言を、追記しました。 2012年1月17日 「区点番号5-17と5-86の使い分け指針」のURLの変更を受けて、導入部を改めました。 2012年2月3日 「――青空文庫のいわゆる「ケヶ問題」――」を、副題として加えました。 富田倫生 「」のような形の、二つの文字のテキスト化について、青空文庫は、「区点番号5-17と5-86の使い分け指針」を設けています。 これに変更提案が寄せられ、どう扱うかの議論が長引く中で、「ケヶ問題」という言葉まで生まれました。 ここでは、「方針の
第一章 夜十一時。近くのチャイム音が鳴りやまないうちに、ロンドンの悪名高い通り雨が五分ほどザーッと叩きつけ、あたかも涸れ果てたかのように霧雨に変わった。 風に揺れるガス灯の明かりが舗道にゆらゆら、敷石にぼーっと落ち、ほ影が強烈なアーク灯の輝きで消える、そこがコベント・ガーデンだ。 靄が立ち込めるロング・エーカーの青白い光は弱く、向かい側のラッセル・ストリートは一層暗い。 タビストック・ストリート沿いの一軒の酒屋、ド派手な正面に明かりが輝き、怪しく光るガラス窓があふれんばかりの笑顔を振りまき、あくどい客引きをしているように見える。 店の扉にたむろする物欲しげな浮浪者の群れ、そこから数メートル離れて、一人の女がたたずんでいた。近くに同性の乞食がほかにもいるが、その類じゃなく、ひどいぼろ服を身にまとっているけど、一見して仲間じゃないと分かる。 若い、おそらく二十五歳を超えていないだろう女の顔には
広島市生まれ。早稲田大学政治経済学部政治学科卒業。編集プロダクション勤務を経て、ライターに。ノンフィクションのさまざまな分野を取材対象としてきたが、次第にパーソナルコンピューターの比重が高まる。ボイジャーのエキスパンドブックを見て電子出版の可能性を本気で信じ込むようになり、「パソコン創世記」と名付けたタイトルを、コンピューターで読むことを前提に制作。このブック上の記述を、インターネット上のさまざまなホームページにリンクさせていくという作業を体験してからは、電子本への確信をさらに深めている。 紙で出してきた著書に、「パソコン創世記」(旺文社文庫版、TBSブリタニカ版)、「宇宙回廊 日本の挑戦」(旺文社)、「電脳王 日電の行方」(ソフトバンク)、「青空のリスタート」(ソフトバンク)、「本の未来」(アスキー)がある。
ここでは、2018年12月30日の著作権法改正によって著作権保護期間の延長された作家名の一部を、昭和の終わりまでの20年分、簡易的な一覧にしています。(参考:「死せる作家の会」) 著作権法改正によって、従来の保護期間である死後50年は死後70年へと延長されました。そのため、たとえば1968年に亡くなった作家の作品がパブリック・ドメインになるのは、2039年の元旦になります。 今回の保護期間延長が遡って適用されることはありません。そのため、1967(昭和42)年以前に亡くなった作家の著作権は復活しません。すでに著作権保護期間が満了している作家については、「著作権の消滅した作家名一覧」をご参照下さい。 【1968(昭和43)年没】 足立勇(1901年11月2日~1968年1月11日) 石田英一郎(1903年6月30日~1968年11月9日) 内山順(1890年~1968年) 大原總一郎(190
慶應義塾の社中にては、西洋の学者に往々自(みず)から伝記を記すの例あるを以(もっ)て、兼てより福澤先生自伝の著述を希望して、親しく之(これ)を勧めたるものありしかども、先生の平生甚(はなは)だ多忙にして執筆の閑を得ずその儘(まま)に経過したりしに、一昨年の秋、或(あ)る外国人の需(もとめ)に応じて維新前後の実歴談を述べたる折、風(ふ)と思い立ち、幼時より老後に至る経歴の概略を速記者に口授して筆記せしめ、自(みず)から校正を加え、福翁自伝と題して、昨年七月より本年二月までの時事新報に掲載したり。本来この筆記は単に記憶に存したる事実を思い出ずるまゝに語りしものなれば、恰(あたか)も一場の談話にして、固(もと)より事の詳細を悉(つ)くしたるに非(あら)ず。左(さ)れば先生の考(かんがえ)にては、新聞紙上に掲載を終りたる後、更(さ)らに自(みず)から筆を執(とり)てその遺漏(いろう)を補い、又後人
カテゴリー:青空文庫 | 投稿者:おかもとAuthor: おかもと About: 青空文庫分野別リストの管理人、など。See Authors Posts (9) | 投稿日:2018年10月24日 | 昨年(2017年)の10月、青空文庫のオフ会で、こんな話題がでました。 「現在入力中とか校正中といった作品の情報を、最近の分だけでもまとめてサイトに掲載したらどうか。」 青空文庫で、入力や校正の作業をしている工作員(もしくは耕作員)にとって、自分が入力・校正した作品はどうなっているのか、いつ公開されるのか、といった情報は、知りたいことの一つではないかと思います。 これについて、青空文庫からは「作業中 作家別作品一覧」というCSV形式のデータが提供されていて、これをダウンロードしてチェックすれば、その作品がどんな状況にあるか確認できるようになっています。 しかし、毎回ダウンロードしてチェックす
ネットを使った調査 その1 次に、Googleブック検索で「井沢衣水」を検索したところ、いくつかの雑誌に「井沢衣水」が掲載されていることがわかった。この情報を元に、実際に雑誌に当たってみた。 まず、雑誌「新声」。明治39(1906)年4月号の、尾上柴舟選「歌」という短歌のコーナーに、「下野 井沢衣水」の歌が1首掲載されている。「下野」とあるので、井沢衣水がこの歌を投稿したときには下野(=栃木県)に住んでいたと思われる(※8)。 次に、雑誌「帝国文学」。この雑誌には、明治44(1911)年に3回も掲載されている(※9)。 まず、明治44(1911)年4月号の「卯月集」という短歌のコーナーに、井沢衣水の歌が6首掲載されている。 次に、5月号の「皐月集」という短歌のコーナーにも、井沢衣水の歌が5首掲載されている。なお、この井沢衣水の歌の次に、同じ「冒険世界」の記者である河岡潮風の歌が8首掲載され
青空文庫は、インターネットを利用した電子図書館である。著者の死後50年を経て著作権の切れた作品を電子化して公開しており、著作権者が無償の公開に同意した「新しい」作品へのアクセスも提供している。収録作品は、2001年末で、およそ1700を数える。 青空文庫を準備した設立呼びかけ人は、開設から間もない時期に、「最小限の組織化」を念頭において事務局体制を構え、以降、世話役として運営の舵取りを担ってきた。この枠組みのもとで、多くの作業協力者を得て、文庫は想定をはるかに越えた規模の成果を上げた。だがその一方で、事務局には、大きな作業負担がかかり続けた。2001年、事務局の疲労は限界に近いところまで深まった。 こうした状況への、常識的な対応策の一つは、事務局の強化だろう。だが、そうした道を選ぶ代わり、青空文庫は、事務局の壁を壊すことで、突破口を開こうと試みている。有限の人的資源で担ってきた事務局業務を
公開中の作品 青べか日記 ――吾が生活 し・さ(新字新仮名、作品ID:59009) 青べか物語 (新字新仮名、作品ID:57495) 青べか物語 (新字新仮名、作品ID:57574) 赤ひげ診療譚 01 狂女の話(新字新仮名、作品ID:57841) 赤ひげ診療譚 02 駈込み訴え(新字新仮名、作品ID:57840) 赤ひげ診療譚 03 むじな長屋(新字新仮名、作品ID:57544) 赤ひげ診療譚 04 三度目の正直(新字新仮名、作品ID:57842) 赤ひげ診療譚 05 徒労に賭ける(新字新仮名、作品ID:57838) 赤ひげ診療譚 06 鶯ばか(新字新仮名、作品ID:57843) 赤ひげ診療譚 07 おくめ殺し(新字新仮名、作品ID:57542) 赤ひげ診療譚 08 氷の下の芽(新字新仮名、作品ID:57839) 秋の駕籠 (新字新仮名、作品ID:57579) 薊 (新字新仮名、作品ID
「日本人の柔道(じゅうどう)なんて、あれは小人の蹴合(けあ)いみたいなものさ。ほんとに人がぽんぽん投げられるものか。まして、われわれアメリカ人のこの堂々たる重いからだが、ちッぽけな腕(うで)で投げられるはずがないよ。」 「ところが、モンクス。あの柔道の教師トミタの道場には、アメリカ人の弟子(でし)も相当あるぜ。」 「ふん、そりゃものずきだな。一つおれの鉄腕(てつわん)でのばしてやろうか。いったい日本人の柔道(じゅうどう)なんぞを、このサンフランシスコにのさばらしとくのがけしからん。」 「そんならモンクス。おまえひとつ試合を申しこんでみろ。」 「向こうが逃(に)げるよ。」 「よし、そんなら、おれが申しこんでみてやろう。」 アメリカサンフランシスコの場末の食堂で、しきりにこんな話をしているのはサンフランシスコでもきらわれ者の拳闘家(けんとうか)トビイ・モンクスと、その後見人のジョンソンであった
公開中の作品 作業中の作品 →作業中 作家別作品一覧:渋沢 栄一 会社誌 (旧字旧仮名、作品ID:59907) 銀行誌 (旧字旧仮名、作品ID:59908) 仏蘭西時代の思ひ出 (新字旧仮名、作品ID:52389) 関連サイト
いちめんのなのはな いちめんのなのはな いちめんのなのはな いちめんのなのはな いちめんのなのはな いちめんのなのはな いちめんのなのはな かすかなるむぎぶえ いちめんのなのはな いちめんのなのはな いちめんのなのはな いちめんのなのはな いちめんのなのはな いちめんのなのはな いちめんのなのはな いちめんのなのはな ひばりのおしやべり いちめんのなのはな いちめんのなのはな いちめんのなのはな いちめんのなのはな いちめんのなのはな いちめんのなのはな いちめんのなのはな いちめんのなのはな やめるはひるのつき いちめんのなのはな 底本:「花の名随筆3 三月の花」作品社 1999(平成11)年2月10日初版第1刷発行 底本の親本:「山村暮鳥全集 第一巻」彌生書房 1961(昭和36)年12月発行 初出:「聖三稜玻璃」 1915(大正4)年 入力:岡村和彦 校正:noriko saito
この話は、北大のY教授の研究室でなされた、鼠に湯治をさせる話である。 ちょっと聞くと、少し唐突な話のようであるが、温泉が外傷の治癒に効くという昔からの信条を科学的に調査するために、鼠に傷をつけて、それを温泉に浸して、果してどれ位治癒に貢献するかということを調べたのだから、別に妙な話ではない。 事の起りは、外傷の自然治癒について、量的の研究はあまりないので、それを研究してみようというのであったそうである。最初に手をつけたのは、その研究室員の一人O君であった。まず沢山鼠を飼って、その各々に大体一定の大きさの傷を胴の所につけて置いて、その面積を毎日プラニメーターで測るのである。そして傷が治って行くにつれて、その面積の減少して行く様子を、時日の函数として図に描いて見るというのがその実験の方法であった。勿論鼠は生きているのだから、そうおとなしくプラニメーターで傷の面積を測らせてはくれない。それで、薄
毎度、酒のお話で申訳ないが、今思い出しても腹の皮がピクピクして来る左党の傑作として記録して置く必要があると思う。 九州福岡の民政系新聞、九州日報社が政友会万能時代で経営難に陥っていた或る夏の最中の話……玄洋社張りの酒豪や仙骨がズラリと揃っている同社の編集部員一同、月給がキチンキチンと貰えないので酒が飲めない。皆、仕事をする元気もなく机の周囲(まわり)に青褪めた豪傑面を陳列して、アフリアフリと死にかかった川魚みたいな欠伸をリレーしいしい涙ぐんでいる光景は、さながらに飢饉年の村会をそのままである。どうかして存分に美味(うま)い酒を飲む知恵はないかと言うので、出る話はその事バッカリ。そのうちに窮すれば通ずるとでも言うものか、一等呑助の警察廻り君が名案を出した。 今でも福岡に支社を持っている××麦酒(ビール)会社は当時、九州でも一流の庭球の大選手を網羅していた。九州の実業庭球界でも××麦酒の向う処
次のページ
このページを最初にブックマークしてみませんか?
『青空文庫 Aozora Bunko』の新着エントリーを見る
j次のブックマーク
k前のブックマーク
lあとで読む
eコメント一覧を開く
oページを開く