監督としてのクリント・イーストウッドには、2人の師が存在する。自身が出演する作品を手がけたセルジオ・レオーネ監督とドン・シーゲル監督である。イーストウッド作品の数々には、彼らの作風を感じるところが少なくない。それでは、同じように演者・ビートたけしでありながら監督・北野武の、映画監督としての師は誰になるのかといえば、それは大島渚監督であり、精神的には黒澤明監督ということになるだろう。 北野武監督が、安土桃山時代の合戦や陰謀劇に取り組んだ映画『首』は、まさに大島監督、黒澤監督の精神を受け継ぎながら、実験性と娯楽性が絡み合う北野映画ならではの表現がつまった、これまでの一つの集大成といっていい充実した一作に仕上がった。ここでは、そんな本作の内容を振り返りながら、その凄さの裏にある二大監督からの影響や、そこで分かってくる、世界に通用する表現とは何なのかについて、考えていきたい。 坂本龍一のラジオ番組
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