ひきこもることは、不潔恐怖や洗浄強迫で風呂に入れなくなることに似る(参照)。 「正しさ」への嗜癖的固着が、身動きをとれなくする。 同様に社会参加は、「自転車に乗ること」に喩えられる。 意識することが少ないほど、うまく乗れる。 ここでの 《洗う》 《乗る》 は、社会化にあたる*1。 この比喩で私たちは、政治的な含意に直面する。 問われるのは作業過程であって、結果物だけではない*2。 制作者として馬鹿げている(幼稚でくだらない)ことが、臨床上のまずさと重なる。 オリジナリティだけが求められるわけではない。 生活者としては、陳腐なルーチンの維持は避けらない*3。 と同時に、「ルーチンを反復する以外ない」という思い込みが、ルーチンを破綻・停止させる*4。 観客席にいる(と思い込んでいる)者は、相手の結果物だけを見る。 しつこいようだが、制作過程それ自体のスタイルが問われている。 「法的・政治的な正